ヴァルプルギスの後悔Fire1.

prologue

『彼女は、最初はただ幽霊のように茫然としていたけれど、やがて影のように蒼ざめていった……』



──プロコル・ハルム〈青い影〉









 ……少女は、その男と話したことを、いつまでも覚えている。


たんていさんか。めいある?」

「ほれ」

「ふうん、なるほどね。クロダさんか」

「君はなんて言うんだ? 小さなホームズさん?」

「オレはなぎきり凪っていうんだ」

「凪ちゃん、か。変わった名前だな」

「親がへんくつものでね。どんなことがあっても落ち着いて揺るがないような心を持て、とかいう理由で」

「へえ。なかなかいいじゃないか」

「よくねーよ。ガッコのセンセには時々読めないヤツがいて〝かぜ〟とか言われたりする」

「はは、そりゃいい」


 ……そしてこんなことも話した。


「クロダさん……オレにはわからないんだ」

「何がだ?」

「オレが何をすればいいのか。オレは病気が治ったとして、どんな人間になればいいんだ?」

「何かなりたいものはないのか?」

「父親みたいな作家、とかか? 素敵な恋人でもつくって結婚するか? 金を使って事業でも起こすか? ぴんと来ないんだよ、どんなことも」

「ぴんときて、それで生きているヤツなんかいるかね」

「名探偵さんはどうなんだよ。自分はいい仕事してる、とか思えない?」

「さあね。探偵ってのは、汚い仕事だぜ」

「そーか。……もしかして、女探偵になるのもいーかな、とか思ったんだけどなー。それもなし、か。……クロダさんは、何か探偵以外にやりたいこととかないの」

「そうだな──正義の味方、かな」

「ぷっ、なんだよそれ?」

「なんだも何もない。そのものさ。探偵はつまらないことにしばられているけど、そーゆーの一切なしで事件を解決するだけの、ただそんだけの正義の味方。こういうのなら、なってみたいね」

「ふうん……なればいいじゃん。きっとなれるよ」


 ……覚えているのはその辺までだ。記憶にとどめようにも、その男とはその後別れて以来、二度と会っていない。ないものは覚えようがない。

 そのときはまだ幼かった少女は、それでも完全に本気だった。

 本気だったということを、後になって嫌というほど思い知ることになる。なぜなら彼女は、男に言ったことを自分自身でやるようになったからだ。

 炎の魔女という名前の〝正義の味方〟になって。


    *


「なんとまあ──正義の味方って」


 暗闇の中で、もうひとりの少女がくすくすと笑っている。

 腰掛けた椅子の前には、しよくだいの上で燃える灯火がゆらめいている。その明かりにともされてかすかに見える彼女の長い長い黒髪は、まるで水のように流れていて、つややかに輝いていた。


「炎の魔女が正義の味方、って──どういうじようだんなのかしら? まあ、この世に絶対はないっていうことかも知れないけど」


 彼女は実に楽しそうに笑っている。


「向こうが単純に〝正義〟ってことになるなら、私としても〝悪〟になってしまえばいいから、とっても楽なんだけど──どうしよっかな。どの辺からつついたらいいのかしらね……」


 彼女はひとり、誰に聞かせるでもなく独り言をつぶやき続けているが、それが変ではなく、なんとなく自然だった。まるで彼女の周りには、無数の人間たちがいて、その者たちに話しかけているような雰囲気があった──だがその闇の中に落ちている影は、彼女ひとり分しかないのは動かぬ事実だったが。


「──ああ、そうね。そういえば──彼?」


 彼女は何かを思いだしたような顔になる。横から誰かに耳打ちされたような表情でもある。


「そっか──タカシくんか。彼ねえ──」


 その横顔には、どこか寂しそうな色があった。


「しょせんは救われないのかもね、彼も──魔女に関わってしまった者は、誰ひとり──逃れることはできない、と……」


 しかし、悲しげだったのは一瞬で、すぐにもとに戻る。


「でもタカシくん、それはきっとほんもうだと思うわよ──あなたが好きだった〝れき〟が今、こんなになっちゃってることを知ったら、むしろ──救いがないことを天に感謝したくなると思うわ──ふふふ……」


 暗闇の中に、底の抜けたような声がこだまする。

 争乱の始まりを告げる、それこそが魔女の微笑ほほえみだった。