ヴァルプルギスの後悔Fire1.

chapter one〈the righteous〉 ①

『正しいことをするときに必要なのは、疑いを持たないことではなく、疑うことを畏れないことだ』



──霧間誠一〈他人の夢、他人の世界〉




    1.


 よく世間の人は、正義の味方なんかどこにもいないっていう。


(でも──私は知っている。正義の味方はほんとうにいるんだ、って──)


 おりはたあやはそう思っている。

 彼女は料理の専門学校に通っている、見た目はごくありふれた普通の少女だ。しかし彼女は、とうこうという世界の闇に君臨する巨大なシステムによってつくられた合成人間なのだった。だが失敗作で、なんの戦闘能力もないために捨てられて、そして利用されて死にそうになったところで、


(私は、救われた──まさと凪に)


 彼女は、今、自分がこうして生きているのは全部、助けてくれた人たちのおかげだと思っている。

 システムに見捨てられて、行き場をなくしてしまったはずの彼女は、今は霧間凪というとても変わった人と一緒に住んでいる。彼女は女子高生のくせに、同時に──


「……ふふっ」


 綺は、つい一人で笑ってしまう。誰が信じるだろうか、学校ではふだ付きの問題児で、みんなに近寄りたくないと思われて〝炎の魔女〟などとあだされている不良少女が、実は人知れず人を助ける〝正義の味方〟なのだということを。

 人がごった返すにぎやかな駅前広場で、人を待っている彼女の姿は、どう見ても普通の、デートの約束をした彼氏を待っている少女にしか見えないし、それも間違いではない。彼女は今、恋人のたにぐち正樹を待っているところなのだから。全寮制の厳しい私立高校に入っている正樹と、いつも課題に追われている綺はなかなか会えない状態で、だから久しぶりに会えるとなると、とてもうれしい。しかしその顔にふと、寂しげな色が浮かんだ。


(そういえば、正樹のご両親が近い内に帰国されるって話もあるらしいけど──)


 そのときは、自分はどうしようか、と思った。もちろん彼女は、まともに生きていけるかどうかもわからない身の上である。正樹はそんなことはかまわないと言ってくれているが、それにあまえきってもいけないと思う。


(ご両親が、正樹とは付き合わないでくれって言うなら、私は考えないといけない──どうすれば正樹にとって一番いいことなのかを)


 正樹の父は世界をまたに掛けて活動している実業家で、実母は既に他界している。そして父の再婚相手が、凪の母なのだ。だから二人は血のつながらない義理の姉弟である。でも本当の姉弟のように仲がいい。

 あの二人に迷惑をかけるようなだけは、絶対にできない──綺は心にそう誓っている。


(だから、今──正樹と会える時間は大切にしよう)


 彼女は強張った顔をこすって、笑顔を戻そうとした。正樹に変な顔は見せられない──と、彼女が気持ちを切り替えようとした、そのときだった。


 ──ぞくっ、


 と背筋に冷たいものが走った。肉体を突き抜けて、心の中に直に突き刺さるような視線を感じて、綺は身体を硬直させてしまった。

 少し離れた前方に、ひとつの人影が立っていた。

 どう見ても小さな子供だったが、頭からかぶったフードの奥からのぞき込んでくる眼は、それは大人びているなどというものを超越して、まるで──


(に……人間じゃない……〝魔物〟……みたいな……)


 そんな風なものにしか見えなかった。その両眼が、まっすぐに綺のことを見つめてきているのだった。

 その小さなくちびるが開いて、何かを言った──二十メートルは離れていて、周囲には人混みのけんそうが満ちているにも関わらず、綺にはその子供の声が、まるで耳元にささやかれているかのように、はっきりと聞こえた。

〝君は──いずれ直面する〟


「え……」


〝君がどちらかだけに味方したくとも、君はその中間に立ち、均等に、両者の運命を促進させるだろう──アルケスティスとヴァルプルギスの、千年ぶりの魔女戦争──そうこくどうの幕が上がるのだ〟

 その子供は、彼女をまっすぐに見つめて、視線をらさない──まばたき一つしていない。


(な……こ、この人は……いったい……)


〝僕を、統和機構はリキ・ティキ・タビと呼んでいる──〟

 その言葉に、綺はぎょっとした。自分は思っただけなのに、それに対して返事が来た──この声は声ではなかった。言葉は彼女の心の中に響いているのだった。

〝今、ヴァルプのそばにいる君が、おそらくはこの動乱の〈支点ピポツト〉となるだろう──その流れには逆らえない。受け入れることだ……君は彼女の力には、決してなれない──〟

 その奇妙な言葉が最後だった。リキ・ティキという子供が口を閉じると同時に、それまでどういう訳か途絶えていた人通りが元に戻って、綺と子供の間にどんどん割って入って、そしてふたたび向こうが見えたときは、リキ・ティキの姿はどこにもなかった。


「な──何……今のは……?」


 綺がぼうぜんとしていると、背後から、ぽん、といきなりかたを叩かれた。


「きゃあっ!?」


 綺は悲鳴を上げて、後ろを振り向いた。

 そこに立っていたのは──正樹だった。


「な、なんだい? どうかしたの?」


 正樹は、綺以上にびっくりした顔をしていた。


「ま、正樹──い、今そこに──いや待って……たしかに、あの人──〝彼女〟って言った──」


 綺は、その身体は小刻みに震え出していた。正樹は焦って、


「ど、どうしたんだ? 何があったんだ?」


 といたが、綺は答えずに、正樹にすがりつくようにして、


「な、凪は──彼女は今、どこにいるの?」


 とたずねた。


    2.


 ……そこは白い病院の中で唯一、照明をしぼられた薄暗い室内だった。


「さて──博士、今回はちょっと面倒になりそうだ」


 この研究室内にいる二人の人間のうちのひとり、霧間凪はそう切り出した。


「ふうむ──君が面倒でないことを持ち込んできたことが、一度でもあったかな?」


 博士と呼ばれた男は、面白そうに笑みを浮かべた。

 男は実に不気味な外見をしていた。とにかく、全体に色が薄い。肌は白いというよりもほとんど透き通っているようで、顔面の毛細血管が透けて見えるほどだ。髪の毛も、そしてほおあごおおっているしようひげも色素の薄い亜麻色をしている。肌とほとんど色が変わらないために、りんかくがぼんやりとぼやけて見える。そして顔に刻み込まれたニヤニヤ笑い。

 くぎ博士は、見るからにマッドサイエンティストといった外見をしていた。


「そもそも君自身が、とても面倒な症例の持ち主じゃないか──思い出すよ。まだ幼い頃の君の、あの全身に激痛が走って、火傷やけどのようなあとが浮かび上がるという病状の性質と原因がどうしてもわからないというので、先輩の医師が助けを求めてきたときのことを、ね──あれ以来、君は私にとってもっとも興味深い対象のひとつであり続けている」

「別に、博士に研究させるために病気になってた訳じゃねーよ」

「まあそう言うなよ。正直、もり君が私の手から離れて以来、ここでの私はひまを持てあましているんだ。あれはいい素材だったんだが」

「…………」


 凪は少し無言で、博士のことをにらみつけた。博士は肩をすくめて、


「別に研究素材扱いするからって、患者を治さなかったり、苦痛を放置したりするわけじゃない。他の、節約理由で患者をぎやくたいしている連中とは一緒にしないでくれ。私はただ、冷静なだけだ」


 と淡々とした口調で言った。凪は無言のまま、博士と自分の間にあるテーブルの上に、持ってきたバッグを置いた。それを開いて、中に入っていたものを無造作につかんで、そして外に出した。

 それは──ひじの辺りから切断された、人間のうでだった。


「…………」