ヴァルプルギスの後悔Fire1.
chapter one〈the righteous〉 ②
それを見て、釘斗博士の顔もやや強張った。凪は無表情で、その腕をテーブルに
それは異様な光景だった。
革のつなぎを着込んだ女子高生が、平然とした顔で人間の切断された腕をいじっている。怖がる素振りも、強がっている様子もない。
彼女のことを人は〝炎の魔女〟と呼ぶ。
通っている学校での成績は、テストの点だけならトップクラスだが、出席日数がとにかく足りないので、いつでも留年すれすれ──世間の常識からしたら、自分のことをオレといい、男言葉で話す、まぎれもない不良少女で、好き勝手に街をうろついて、何をやっているのか知れたものではない、と思われている──だがまさか、こんなことをしているのだとは誰も思わないだろう。
平穏に見える世界の裏側で起こっている、
彼女の父親、霧間
だが、なぜこんな報われぬことをしているのか──その理由は彼女しか知らない。
「──ふうむ」
釘斗博士はそんな彼女を前に、やや嘆息混じりで、
「この前の〝サンド・クリット〟とやらの分析は楽勝だったが──これはそうも行かないようだな。一体こいつはなんだね?」
と、その置かれている腕を眺めながら訊いた。その口調は落ち着いていて、この博士もまったく
「よくわからない──だがこの腕の持ち主は、一人の女の子を
凪も静かな声で言った。
この腕の持ち主は、統和機構の合成人間、モータル・ジムという男だった。だが凪にはそのことまではわからない。モータル・ジムは腕を失いながらも、なりふりかまわない逃走で凪を振り切ったからである。襲われた少女の
しかし、本人は押さえられなかったが、こうして歴然とした
「……なるほど。その女の子はまあ、助けたんだろう、君のことだから」
「あんただったら、その子の死体も調べたかったか?」
「否定はしないよ。その方が研究しやすいからな。しかし──」
博士は分断された腕を手にとって、しげしげと眺めた。
「こいつはかなり、決定的な手掛かりだな──合成人間とやらの」
「調べられるか?」
「そのために持ってきたんだろう? これまでも私は、君にさんざん協力してきた──今さら引き返せないよ」
博士は苦笑しながら言った。
「頼む。これで今まで隠れていた統和機構の
凪はうなずいた。
「──綺も、つまらない
「織機綺か。彼女はどうしているね? もう一回ぐらい検査してもいいかもな。合成人間と自分じゃ言っているが、なんの変成も見つけられなかった──あるいはこの腕の分析の後なら、彼女からも特殊な要素を検出できるかもな」
「そいつはやめとけ。綺は普通の女の子とまったく同じだ。それでいいだろう」
凪はややきつい声を出した。博士は肩をすくめた。
「まあ、君がそう言うなら、それでもいいがね」
博士はモータル・ジムの腕を持っていき、それを研究用のケースに入れた。
それから振り返って、
「私は調べるとして、君はどうするんだね?」
と訊ねようとしたときには、もう凪は席を立って、研究室から外に出ようとしているところだった。
「おい──」
博士がその背中に呼びかけても、凪は振り向きもせずに、
「慎重にやってくれよ──あんただって自分の生命は惜しいんだろう」
と、やや突き放したようなことを言って、そしてそのまま去っていった。実にせわしくなく、彼女が
「まあ──それはそうだが──なあ」
ひとり残された博士は、ふう、とため息をついた。
それからケースの中の腕に目を落とす。
「…………」
しばらくそれを見つめていた博士は、心の中で思った。
(確かに、実に決定的な手掛かりだな──決定的すぎる……)
それから頭を少し振って、口の中でぶつぶつと何やら呟いた。その言葉は誰の耳にも届かなかったし、たとえ聞こえたとしても、彼が何を言ったのかは誰にも理解できなかっただろう。釘斗博士はこのとき、
〝そろそろ学生気分でいるのはやめて、就職するか──〟
と言っていたのである。
3.
「あーっ、くそったれ……」
「うーっ、なんなんだよ、これは……」
彼は今日も、街の通りを平日の昼間からうろついている。
人通りの多い表通りを抜けて、昼間なのに妙に薄暗い印象のある、夕方からしか開いていないような店の並ぶ裏通りの、さらに奥へと入っていく。
その中でも人通りのまったくない路地裏に行くと、そこで周囲を見回して、背中を壁にもたらせかけつつ、空を見上げた。
それは空には見えなかった。狭すぎて、青白く発光する細長い天井板にしか思えなかった。
「ちっ……なんだよ。まだ来てねえのか」
隆は
からんからん、という妙に軽快な音が路地裏に響いた。
「くそっ……何してやがる。いっつもいっつも、時間は厳守しろとかぬかしてやがる
携帯電話を開いて、どこかに掛けてみようとして、やっぱりやめて、ふたたび閉めようとしたところで、いきなり、
「どこに連絡しようとしていた?」
と声が掛けられたので、隆はびっくりして携帯電話を落としてしまった。
横を向くと、そこには一人の男がいる。いつのまに接近されたのか、まったくわからなかった。男はスーツ姿で、ぱっと見では地味なサラリーマンのようにしか感じられない。だがその身のこなしは見る者が見ればすぐに、その道のプロと知れた。人を殺したことのある人間だけが持つ気配が、わずかに滲み出ていた。
「あ、あんたか──」
隆は男に、おそるおそる声をかけた。男は隆が落とした携帯電話を拾い上げて、そして勝手にあれこれと操作した。
「べ、別にどっかに知らせようとかしてた訳じゃねーよ。ただ──」
隆が弁解しようとしたときには、もう男は携帯を調べ終わっていて、隆に投げてよこしてきた。
「
「あ、ああ──俺がしくじったことが一度でもあったかよ?」
隆は怯みながらも、そう言い返した。男は冷ややかな眼で隆を見つめ返し、そして口を開いた。
「こっちで、少し急を要する事態が起きた。おまえとの取引は、今回で最後だ」
「え? なんでだよ?」
「おまえに説明する必要はない。だが最後なので、その分おまえに負担してもらうコストは高くなるが、それでどうするかは判断しろ」
男は淡々とした口調で言った。
「え、コスト──って金か? いくらなんだよ?」
「一千万円だ」
簡単にそう言われたので、隆が驚いたのはワンテンポずれた。
「──は? なに言ってんだ? だって今までは、せいぜい五十万ぐらいまでで──」
「嫌ならやめるんだな。だがおまえにはそれぐらいの蓄えがあることは知っているぞ。無理な訳ではあるまい」
男は素っ気なくそう言った。



