ヴァルプルギスの後悔Fire1.

chapter one〈the righteous〉 ②

 それを見て、釘斗博士の顔もやや強張った。凪は無表情で、その腕をテーブルにせた。

 それは異様な光景だった。

 革のつなぎを着込んだ女子高生が、平然とした顔で人間の切断された腕をいじっている。怖がる素振りも、強がっている様子もない。

 彼女のことを人は〝炎の魔女〟と呼ぶ。

 通っている学校での成績は、テストの点だけならトップクラスだが、出席日数がとにかく足りないので、いつでも留年すれすれ──世間の常識からしたら、自分のことをオレといい、男言葉で話す、まぎれもない不良少女で、好き勝手に街をうろついて、何をやっているのか知れたものではない、と思われている──だがまさか、をしているのだとは誰も思わないだろう。

 平穏に見える世界の裏側で起こっている、ゆがんだ悪の行為と日夜、戦っているのだとは想像もできないだろう。

 彼女の父親、霧間せいいちという男は作家だった。書くものがひどく屈折していたので、大衆的な人気というものはついぞ得られなかったが、一部で熱心な愛読者がついたため、死後もなお読まれ続けていて、その印税収入が遺産として現在の、この霧間凪の秘密の活動を支えてもいる。

 だが、なぜこんな報われぬことをしているのか──その理由は彼女しか知らない。


「──ふうむ」


 釘斗博士はそんな彼女を前に、やや嘆息混じりで、


「この前の〝サンド・クリット〟とやらの分析は楽勝だったが──これはそうも行かないようだな。一体こいつはなんだね?」


 と、その置かれている腕を眺めながら訊いた。その口調は落ち着いていて、この博士もまったくひるんではいない。慣れている、そういう態度だった。


「よくわからない──だがこの腕の持ち主は、一人の女の子をねらって、攻撃してきた──鉄骨を歪めたり、かしたりする特殊能力を使って」


 凪も静かな声で言った。

 この腕の持ち主は、統和機構の合成人間、モータル・ジムという男だった。だが凪にはそのことまではわからない。モータル・ジムは腕を失いながらも、なりふりかまわない逃走で凪を振り切ったからである。襲われた少女のあさくらあさも、この時点ではまだモータル・ジムのことを知らないので、情報は何もない。

 しかし、本人は押さえられなかったが、こうして歴然としたこんせきは凪の手元に残ったのである。


「……なるほど。その女の子はまあ、助けたんだろう、君のことだから」

「あんただったら、その子の死体も調べたかったか?」

「否定はしないよ。その方が研究しやすいからな。しかし──」


 博士は分断された腕を手にとって、しげしげと眺めた。


「こいつはかなり、決定的な手掛かりだな──合成人間とやらの」

「調べられるか?」

「そのために持ってきたんだろう? これまでも私は、君にさんざん協力してきた──今さら引き返せないよ」


 博士は苦笑しながら言った。


「頼む。これで今まで隠れていた統和機構の尻尾しつぽを捕まえられるかも知れない──」


 凪はうなずいた。


「──綺も、つまらないじゆばくから解き放たれる」

「織機綺か。彼女はどうしているね? もう一回ぐらい検査してもいいかもな。合成人間と自分じゃ言っているが、なんの変成も見つけられなかった──あるいはこの腕の分析の後なら、彼女からも特殊な要素を検出できるかもな」

「そいつはやめとけ。綺は普通の女の子とまったく同じだ。それでいいだろう」


 凪はややきつい声を出した。博士は肩をすくめた。


「まあ、君がそう言うなら、それでもいいがね」


 博士はモータル・ジムの腕を持っていき、それを研究用のケースに入れた。

 それから振り返って、


「私は調べるとして、君はどうするんだね?」


 と訊ねようとしたときには、もう凪は席を立って、研究室から外に出ようとしているところだった。


「おい──」


 博士がその背中に呼びかけても、凪は振り向きもせずに、


「慎重にやってくれよ──あんただって自分の生命は惜しいんだろう」


 と、やや突き放したようなことを言って、そしてそのまま去っていった。実にせわしくなく、彼女がに余裕のない人生を送っているのかをによじつに表しているような、そういう態度だった。


「まあ──それはそうだが──なあ」


 ひとり残された博士は、ふう、とため息をついた。

 それからケースの中の腕に目を落とす。


「…………」


 しばらくそれを見つめていた博士は、心の中で思った。


(確かに、実に決定的な手掛かりだな──決定的すぎる……)


 それから頭を少し振って、口の中でぶつぶつと何やら呟いた。その言葉は誰の耳にも届かなかったし、たとえ聞こえたとしても、彼が何を言ったのかは誰にも理解できなかっただろう。釘斗博士はこのとき、

〝そろそろ学生気分でいるのはやめて、就職するか──〟

 と言っていたのである。


    3.


「あーっ、くそったれ……」


 むらたかしは十七歳で、金持ちの息子だが、学校には通っていない。毎日ぶらぶらと目的のない日々を過ごしている。


「うーっ、なんなんだよ、これは……」


 彼は今日も、街の通りを平日の昼間からうろついている。

 人通りの多い表通りを抜けて、昼間なのに妙に薄暗い印象のある、夕方からしか開いていないような店の並ぶ裏通りの、さらに奥へと入っていく。

 その中でも人通りのまったくない路地裏に行くと、そこで周囲を見回して、背中を壁にもたらせかけつつ、空を見上げた。

 それは空には見えなかった。狭すぎて、青白く発光する細長い天井板にしか思えなかった。


「ちっ……なんだよ。まだ来てねえのか」


 隆はいまいましそうに呟くと、地面に転がっていた空き缶を力任せに踏みにじった。多少中身が残っていたようで、液体が絞り出されるようにしてにじみ出てきた。不快になり、隆はそれを蹴飛ばした。

 からんからん、という妙に軽快な音が路地裏に響いた。


「くそっ……何してやがる。いっつもいっつも、時間は厳守しろとかぬかしてやがるくせに──」


 携帯電話を開いて、どこかに掛けてみようとして、やっぱりやめて、ふたたび閉めようとしたところで、いきなり、


「どこに連絡しようとしていた?」


 と声が掛けられたので、隆はびっくりして携帯電話を落としてしまった。

 横を向くと、そこには一人の男がいる。いつのまに接近されたのか、まったくわからなかった。男はスーツ姿で、ぱっと見では地味なサラリーマンのようにしか感じられない。だがその身のこなしは見る者が見ればすぐに、その道のプロと知れた。人を殺したことのある人間だけが持つ気配が、わずかに滲み出ていた。


「あ、あんたか──」


 隆は男に、おそるおそる声をかけた。男は隆が落とした携帯電話を拾い上げて、そして勝手にあれこれと操作した。


「べ、別にどっかに知らせようとかしてた訳じゃねーよ。ただ──」


 隆が弁解しようとしたときには、もう男は携帯を調べ終わっていて、隆に投げてよこしてきた。


かつなことはするな──わかったな?」

「あ、ああ──俺がしくじったことが一度でもあったかよ?」


 隆は怯みながらも、そう言い返した。男は冷ややかな眼で隆を見つめ返し、そして口を開いた。


「こっちで、少し急を要する事態が起きた。おまえとの取引は、今回で最後だ」

「え? なんでだよ?」

「おまえに説明する必要はない。だが最後なので、その分おまえに負担してもらうコストは高くなるが、それでどうするかは判断しろ」


 男は淡々とした口調で言った。


「え、コスト──って金か? いくらなんだよ?」

「一千万円だ」


 簡単にそう言われたので、隆が驚いたのはワンテンポずれた。


「──は? なに言ってんだ? だって今までは、せいぜい五十万ぐらいまでで──」

「嫌ならやめるんだな。だがおまえにはそれぐらいの蓄えがあることは知っているぞ。無理な訳ではあるまい」


 男は素っ気なくそう言った。