ヴァルプルギスの後悔Fire1.

chapter one〈the righteous〉 ③

「──だって……そんな」


 隆は口をぱくぱくとさせたが、言葉がうまく出てこなかった。彼は頭を左右に何度も振って、


「なんだよ……〈ダイアモンズ〉はどうかしたのかよ? こんな急に──」


 とぼやくように言った。その瞬間に彼は首根っこを摑まれて、壁に押しつけられていた。男がさっきまでとは比べものにならない殺気を露わにして、隆をつるし上げていた。


「その名前を軽々しく口にするな──特にこれからは、絶対に、誰にも言うんじゃない」

「な、なな、な──」


 隆はおびえきって、顔中にあぶらあせを浮かべながら、何度もうなずいた。男は、よし、と言って隆を解放した。


「それで、どうする? 一千万を用意するのか、やめるのか?」

「……や、やるよ。いつもの原液なんだろ?」

「ああ、多少はサービスしてやる。これまでよりも単価につき、量は二割増しだ」

「そ、そいつはどうも──」


 隆は痛むのどをなでながら、形ばかりの礼を述べた。


「では明日、またここで待ち合わせだ。金を忘れるなよ」

「現金で持ってくるのか? 振り込みとかにできないのかよ?」


 隆がそう言うと、男は心底あきれ果てた、というような眼で隆を見た。隆はバツの悪そうな顔になって、


「……言ってみただけだよ」


 と弁解した。

 男はすぐにその場から消えた。ひとり取り残された隆は、ちっ、と舌打ちして、壁を蹴って、そして自分も路地裏から外に出て、みのクラブに向かった。

 店はまだ閉まっていたが、彼は裏口の合い鍵を、金を渡している店員からもらっているので、難なく入り込む。

 まだ誰もいない。彼は明かりをつけることもせずに、そのまま手近にあったベンチに腰掛けて、


「……あーっ……」


 と大きなため息をついた。


(ちくしょう──一千万か)


 うまくさばくことができれば、倍に──いや三倍にはできるだろう。しかし……。


(くそ……なんだか嫌な感じがする──)


 これでいいのか、と思い、しかし後には退けないような気分にもなっている。

 そのとき、店を管理している者が鍵を開けて、中に入ってきた。隆はびくっ、と顔を上げたが、すぐに確認して、また顔を伏せる。


「あれえ、タカシくん。今日は早いねえ」


 既に三十歳近いのに何年もずっとバイトの店員が馴れ馴れしい声を掛けてきた。その少し鼻に掛かる声が隆は大嫌いだったが、


「ああ──まあね」


 利用している手前、文句も言えないので隆はそれなりに愛想のいい声で返事をする。


「ねえタカシくん、今度はいつ入るんだい。俺にも当然わけてくれるよな」


 からみつくような口調で言われる。隆は面倒になったので、


「ああ──今もありますよ」


 と言って、ポケットから彼が取り出したのは、注射器でもなんでもなく、ただの口臭防止用の小型スプレーだった。だがその中身は隆によって入れ替えられている。


「ほ、ほんとかい。でも今はちょっと持ち合わせが──」

「こいつはサービスにしときますよ。さんには世話になってるしね」

「そ、そうかい──悪いね──」


 店員は眼を血走らせてスプレーを受け取りに小走りでやって来て、手に取る時間ももどかしいというようなせっぱ詰まった調子で、すぐに鼻の穴にそのスプレーを押し当てて、中に噴射した。


「……おお、ああ……」


 すぐに眼つきがとろんとして、口元がだらしなくゆるむ。

 ねんまくから吸収されるタイプの、特製のドラッグである。名前は〝サンド・クリット〟という。秘密結社〈ダイアモンズ〉が資金源の一つとして製造しているものだった。取り扱いが簡単な割に作用が強烈なので、いったん使い始めるとなかなかやめられなくなるのだ。しかも輸入の際には単なる洗剤として扱われる成分しか検出されないので、税関を堂々と通過しているのだった。隆はそれを社会に流している末端の売人だった。


(金、か──とりあえず金が欲しくて、この仕事を受けているが──)


 親の金ではない、自分の好き勝手にできる金を手元に置きたくて、彼はダイアモンズに協力しているのだが、しかし彼の本当の目的は金ではない。


(俺は──俺だけのものを見つけられるんだろうか。なあ、れき──)


 彼は心の中で、想い出の人物に呼びかけた。

 そうするといつも、その心の中の人物は、にっこりと微笑んで、

〝そう──あなたも必ず、あなたにしかできない、あなただけの運命を手に入れられるわ〟

 と話しかけてくれるのだった。十年前に別れたっきりの、その少女──そのイメージは隆の脳裏に刻み込まれていて、決して薄れることがない──。


    4.


 れき──無論それは綽名で、本名はこよみという。

 みよう暦。それが彼女の名前だった。この変わった名の少女は、かつて村津隆の近所に住んでいた娘だった。彼が小学生で、彼女はそのとき十七、八歳ぐらいだったのではないかと思う。

 隆はそのころから、学校とは折り合いが悪かった。特に何が理由というわけでもなく、とにかく居心地が悪かった。

 そんなときに、彼は彼女に出会ったのだった。彼女はぽつん、と一人で公園のベンチに腰掛けていた。

 彼女は、その近所では有名人だった。何度も何度も自殺未遂を犯して、学校にも行っていない。家に閉じこもっているかと思うと、ふらふら出歩いたりもする。誰とも話さず、呼びかけても答えない。最初の内はみんなピリピリしていたが、そのうちに彼女は無視されるようになった。そこにいるのに、いないものとして扱われるようになったのだ。

 だがそのとき、隆はひとりきりでいる彼女に向かって、まるで引き込まれるようにして声を掛けていた。


「おい、あんた──死にかけたんだってな」


 年上の者に向かって、実に生意気なものの言い方をしたが、彼女の方はまったくそれに腹を立てる様子も、そしてとまどった表情も見せずに、静かに、


「ええ──殺しそこねたわ」


 と答えた。


「え?」

「私は、この身体を殺し損ねた──もう手遅れね」


 彼女は淡々と、不思議なことを言う。


「ええと……?」

「私は自分の、この運命を殺そうと思った。なんどもなんども──でも、どうしてもできなかった。今ではだとさとったわ」


 そんなことを言いながらも、少女の顔には特に思い詰めたような様子はない。


「私は私であって、私ではない……この身体は、私として生まれたのだけど、ほんとうは私のものではない……別の者のための、ただの入れ物──私自身は空っぽの、なんにもない存在」


 彼女は隆のことを正面から見つめてきた。その眼はどこまでも遠くを見ているようで、隆は落ち着かない気持ちになったが、しかし不快ではなかった。すると彼女はそんな彼にうなずいてきて、


「あなたも、きっと私と同じ──別のなにか、巨大で圧倒的ななにかに引きずられて、それに流されてしまうために生まれてきた。自分自身は空っぽで、そこに運命が満たされるときをただ待っているだけ──」


 と、囁くような声で言った。何を言っているのか全然わからなかったが、しかし隆は、その少女にかれはじめていた。いつ行っても、彼女はその場所にいたので、ろくに意味もわからない彼女の話を、彼は何度も何度も聞きに行ったものだった。

 だが、それは突然に途切れることになる。彼女の一家が急に外国に引っ越すことになったのだ。

 彼女と会っていることは他の誰にも言わないでいたので、隆がそのことを知ったのは直前になってからだった。

 あわてて彼女のところに行ったが、時間はほとんどなかった。だがそのとき、彼女は妙に晴れ晴れとした顔をしていた。


「私は、私の運命に出会いに行くわ──空っぽの自分を捨てて、強くて無敵の存在に生まれ変わるのよ」


 彼女はそう言って去っていった。そしてその翌日──彼女の一家が乗っていた飛行機が、外国の空港で着陸に失敗し、乗員乗客のすべてが死亡するという事故が起こったのだった。

 あまりにも飛行機がバラバラになりすぎて、全員の死体は確認しきれず、彼女の痕跡も見いだすことはできなかったという──行方ゆくえ不明、それが冥加暦という少女に関する最後の記録だった。


「…………」


 クラブは開店し、騒がしいけんそうに満ちた空間に客がどんどん増えていく。