ビートのディシプリン SIDE1

第一話「拝命と復讐」 ①

 それは人里離れた山奥の小屋で、二人の男が交わしている会話だった。


「試練だって?」

「そう、君が君とて生きてきたことを不幸と呼ぶのはたやすいが、それは試練と考える方がより適切だ」

「そんな立派なものとは思えないけどな」


 二人は奇妙な組み合わせだった。一人は芸術家のような繊細さと大胆さを併せ持った雰囲気の持ち主で、もう一人は少年のような優しげな面持ちなのだが、その肌の色は薄い緑色なのだ。だが彼らにとってはその異様さは互いの関係に何の影響もないらしい。


「試練と言っても、別に立派だったり偉かったりするわけじゃないさ。この世には何の意味もないことしかないのなら、逆にそこに意味を求める者にとってはすべてに意味があるのと同じだということに過ぎない」


 芸術家のような男は静かに、やや難解なことを言った。


「悲しいことはただそこにあるのではなく、その悲しさが少しでも世界を前進させるための力になっているかも知れない。だから私はそれを試練と呼びたいんだよ」

「それは人生すべてが、ということかい」

「そう言っても間違いではないと思うね」


 男の言葉に、少年のような彼は唐突に言った。


「うらやましいなあ」

「なんだい急に」

「そういう風に思えるじんがさ、僕にはとてもうらやましいんだよ。僕もそういう風に大きな視野みたいなものを持ちたいと思うよ」

「さあね、持っていない方がいいかも知れないがね」


 男はやや、悲しげな顔をして苦笑したが、相手の彼の方はそんな様子に構わずにさらに質問した。


「人生が試練だとすると、その行き先には何があるのかな」

「そうだな、私も、ついこの前まではそういうものの考え方をしていた」

「今は違うのかい?」

「ああ」

「なにかさとったとか?」

「そうじゃない。むしろその逆だ」

「……?」

「生きていって、さらにその先に目的を求められるほどの余裕がなくなったのさ。生きることそのものが重くて辛いから、既にしてそれが試練になってしまっている感じだよ、今は」

「その試練の先に何かが待っているとも、もう思えないって?」

「それはなんとも言えない。わからない、としか言いようがないな。あるかも知れないし、ないかも知れない──」

「それは、やっぱり前に〝負けた〟経験があるから、軽々しく言えないってことなのかな」

「そうだな。かつての私は、明らかに急ぎすぎていた……やるべきことが目の前にあると信じ込んでしまっていた。それが本当に正しいことかどうか検討が足りなかった」

「僕なんか、その辺はまったく考えなしだったよ。あれもできるこれもできる、ってあとさき考えずにね。それが悪かったのかな」

「どうかな──君はそのとき、楽しかったんだろう?」

「うん。とてもね」

「誰も傷つけずに?」

「と、思うんだけどね。僕も全部を見ていたわけじゃないから」

「それ以外に人生に何を求めるか、って感じだよ、私からすればね」

「まあ、お互いにうらやましいところがあるってことで」


 二人は互いの眼を見つめ合いながら笑った。


「──でも、僕はさておき、仁の試練には何か目的があると思うよ。仁は何かに向かっていくような生き方しかできないと思う。たとえ自分ではどこにも向かっていないように思えてもね」

「そうかな」

「そうさ──僕の言葉で言うなら、人の好みっていうのは、大別すると二つのものしかないんだよ」

「二つ?」

「そう──自分でそれを知っているか、自分でもそれを知らないか。〝好み〟の種類ってのはその二つだけしかないんだよ、ほんとうは」

「知っているか、いないか──か。なるほど」

「仁は、明らかにもう〝知ってしまっている〟人間なんだよ、僕から見ればね。だからどうせ──いつかは、何かをしなければならなくなるよ」

「それも試練だな」

「そういうことさ」

「そういう君はどうなんだ。何かをしなければならないとは思わないのかな」

「そうだね、仁の仕事を手伝いたいとは思うけどね……でも」

「そうだな、君ももう、知っているんだな。君がやりたいことを」

「仁から見たら、きっとくだらないことなんだよ。でも、僕はどうしてもそれがやりたいんだ」

「やっぱり、私には君がうらやましいな」


 男は心底、そう思うという調子でうなずいた。

 そして少年のような彼の方は、かすかに頭を振ってつぶやく。


「……でも、試練か。それは自分がなんなのか知らない者にも訪れるものなのかな?」

「生きていることが試練である以上、それをまぬがれるものはこの世にはいないと思うね」

「でも、僕の反対で、そのやるべきことがあまりにも大きい癖に、自分ではそのことをまったく知らないでいるような人は、そういうときに……どうなるんだろう?」

「どうもならないだろうな」

「というと?」

「知っていようといまいと、彼はいずれその試練に直面する──誰のせいでもない、自分の運命というものと戦わざるを得なくなる。そういう存在は、その戦いの中でやっと己自身を見出すことになるだろう。そう──それは〝カーメン〟とも呼ばれている」

「……なんだって? ラーメンがどうかしたのかい?」


 彼は間抜けなことを言ったが、男の方はそれを正すことはせずに、ひとりささやくように言葉を続けた。


「このような戦いには、おそらくあの死神の出番はない……危機に助けに来てくれるわけでもないだろうし、あるいは敵としてとどめを刺しにも来ない……彼は、その試練デイシプリンの中で、最後まで自分の力だけでき続けなければならないだろう──」
















    1.


 その総合商社の巨大な本社ビルは、あいきようも何もないただの四角だが、すべてのガラス窓にしやこう塗料がコーティングされているらしく、まるで巨大な墓石か石碑モノリスのようにも見えた。まだ建てられてから間もないと見えてやけにれいだ。せいぜい二、三年といったところだろう。

 そのビルの前に、一人の少年が立っている。


「…………」


 見たところ十五、六といった感じの、せた少年である。褐色の、ややオレンジがかった肌の色は陽に焼けているようにも、地の色にも見える。一見、日本人かどうかわからない。ではなんびとかというと、それもまたよくわからない。


「……建物ばかりデカくすりゃいいってもんでもあるまいによ──」


 彼は口の中で囁くと、ビルに向かって歩いていった。

 小綺麗なエントランス・ホールも馬鹿みたいに広く、受付があるところまで五十メートルはあった。

 そこまで少年はぶらぶらと歩いていく。

 警備員が、このどうにも怪しい少年に警戒の目を向けはじめる。


「…………」


 彼はその視線が気にならないのか、平然とした調子でタイルの床をかちかち鳴らしながらまっすぐに受付を目指す。


「…………」


 両手をだらりと垂らして、心持ち手のひらを前に向けたり後ろに向けたり、手首を回しながら進んでいる。

 やがて彼は、びっちりと〝地味で華やか〟という矛盾するメイクで固めている受付嬢たちのところまでやってきた。彼女たちは、この〝害はなさそうだが、なんだか変〟な少年にどういう表情をしたらよいのかわからず、半端な顔つきをしている。


「あのさあ──」


 彼は両手を、まるで「手を上げろハンズ・イン・エアー」の途中みたいな感じでかざし、おどけた調子で動かしながらしやべりだした。


「ここって──大手なのかな?」

「は?」

「いや、俺もさ、実は結構バカでかい組織っていうか、システムっつーか、そういうもんに所属してんだけどさ、やっぱ肩るんだよね。そうだろう? あんまりでかすぎると、それに属してるって安心感よりも、自分は一体どういう存在なんだろう? とか悩んだりしない? するだろう?」


 妙に気さくな調子で、少年の癖に大人の女性に向かってたずねかけてきた。

 こつこつ、とそのつまさきが落ち着きなく床をタップダンスのように叩いている音が響いている。


「あ、あの、あなたね──」


 言いかけたところで、彼は突然にじっと彼女たちの方を見つめてきて、


「俺の名はビート。みのるって名前もあるこたあるが、みんなビートって呼ぶ」