ビートのディシプリン SIDE1

第一話「拝命と復讐」 ②

 と突然名乗って、さらに彼女らの一人を指差して、


「お姉さん、最近急に夜中に目が覚めることがあるだろう? いけないね、それは昼間、自分でも気がつかない応力疲労ストレスがたまっているせいだ。仕事の途中で、ちょっと手が空いたときにかるく背伸びをする習慣を身につけた方がいい。何、五秒とかからない。肩を後ろに伸ばして回して、深呼吸をする程度でいいんだ。負担が腰に来すぎているんだよ。呼吸が乱れている。なんなら今やってもいいぜ。俺は気にしない」


 とぺらぺら言った。

 ぽかん、と言われた彼女と同僚が口を開けているのにもかまわず、彼は続ける。


「呼吸のタイミングは、吸って、吸って、吐く、という感じだな。これを三回やる。理想は九回やって休んでもう二回やるって感じだが、まあこういった仕事の途中じゃそんなにはできないだろう。うん、でもだいぶ違うと思うよ」


 自信たっぷりに言う、その彼の爪先はこつこつ、とずっと床を叩いている。

 いったいこの少年は何者なんだ、と受付嬢たちは思った。そして助けを求めるように、少年の背後に来ている警備員に目を向ける。

 だが警備員たちは、いつもならすぐに不審者のところに飛んできて肩を押さえるはずの彼らが、かこの少年には指一本触れないで、ただぼーっと立っているだけなのだ。

 だが、その表情がなんだか異常だった。

 全員、歯を食いしばって、脂汗を顔中に浮かべているのだ。まるで必死で前へ進もうとしているのに、身体がびくともしない──そんな感じなのである。しかし別に彼らの前には何の物理的、心理的抵抗などない。

 ただ瘦せた少年が一人いるだけなのだ。


鼓動ビート──問題なのはそれだ。人間というのは鼓動で動いている。心臓に限らず、身体中の至る所、それこそ脳の奥──心の中までも鼓動が息づいている。だから、それに逆らうと、身体も壊れてしまうし、結局は逆らい切ることもできない。むしろ鼓動には自ら乗っていかなきや駄目だ」


 少年は訳のわからないことを得意そうに言っている。

 ぐぐぐ──と彼の背後では警備員たちがひたすらに力んでいる。しかし彼らは少年のところに近づけない。


(──あれ?)


 受付嬢の一人は、奇妙なことに気がついた。警備員たちの顔がぴくぴくとひきつっているのたが、その間隔と少年の爪先が床を叩いている「こつこつ」という音が一致しているのである。同じ拍子で、ぴったり合っている。


(──な、なにこれ──〝ビート〟? 〝鼓動ビート〟って──)


 彼女たちは気分が悪くなってきた。なんだか身体が宙に浮いたような気がして、頭がぐるぐる回っているような、自分がどこにいるのかわからないような気がして、まるで起きながら悪夢を見ているような、ひどく落ち着かない感覚が全身を支配して、叫びだしたくなって──


「──いや心配ない」


 そこで少年がにっこり、と急に無防備な笑顔で笑いかけてきたので、彼女たちはと我に返ったようになる。

 いつのまにか、少年が床を叩くのをやめていた。


「あ……」

「アポイントメントは、ちゃんと取ってある。企画第五室長の、しのきたちか部長に面会の約束はしてあるんだ。……連絡してくれないかな?」


 彼は人なつっこい調子でウインクしてきた。


「は、はい──」


 受付嬢の一人があわててインターホンを取る。繫げてみると、確かにそういう予定があったことがわかった。


「し、失礼いたしました──七階の第三ロビーでお待ち下さい」

「どーも」


 彼は差し出された通行証を受け取って、警備員たちのすぐ横を通り抜けて、その背中をぽんぽんと叩いたりしながら、エレベーターの方に向かっていった。


「…………」


 残された者たちは一様にぽかんとしていたが、なんとなく受付嬢の一人、ビートと名乗ったあの少年に指差された彼女は、彼に言われたように深呼吸してみた。

 そして絶句した。

 噓みたいに、ここ数ケ月間なんとなくつきまとっていただるさがさっぱりと消えていたのだ。ひどくさわやかな気持ちになっていた。


(……あの子って、一体──?)


 そう思ったとき、彼が唐突に皆の方を振り返った。


「ああ、そうそうあんたらさあ──〝カーメン〟ってなんのことかわかるか?」

「──は?」


 誰も、何を言われているのか見当もつかなかったのでぼうぜんとした。すると少年は肩をすくめて、


「知らなきやいい」


 とまたきびすを返した。

 そして彼はやってきたエレベーターに乗り込んで、七階のボタンを押した。乗っているのは彼だけだ。


(──しかし)


 ビートはエレベーターのランプが上昇していくのを見つめながら、心の中で呟く。


(まっすぐ来ちまったが──こいつは〝相手が待ちかまえている〟状態かな。なあ、モ・マーダーのよ──)



    *


 世良稔ことピート・ビートは合成人間である。

 通称はビート。自分でもそう名乗るし、彼の属するとうこうの他の者にもそう呼ばれることが多い。

 生まれたときのことは、自分でもよくわからない。その辺は普通の人間と同じで、目の前のことを片づけていったら、昔のことはぼんやりとしてしまって、それからやっと過去を振り返る余裕が出てきても、もう自分の出発点のことは忘れてしまっている。一番最初の記憶は、とにかく気がついたときにはもう、他の者たちが作戦の会議をしているときにいきなりにいたのだ。

 当然のように「おまえはどう思う」とかかれて、そして不思議なことに自分でもその質問の答えはわかるので「~~だろう」とか答えて、それでそのまま話は進んで戦闘任務に直行、というようなものだった……ような気がする。

 刷り込まれている戦闘データとしての記憶と、実体験の記憶の境界線がはっきりしないので、すべてがぼんやりとしている。

 だから合成人間ではあるが、彼は、そしておそらくは他のほとんどの合成人間たちも、自分たちがどうやって生まれているのかその方法を知らない。知るすべもない。最高機密らしいので、ペーペーのビートなどがそれをさぐろうとしたらたちまち反逆者として処理されてしまうだろう。統和機構にはようしやというものがないのだ。


「……しっかし、まいるよな……」


 ビートは一週間ほど前に、その場所にやってきていた。


「……くそ、なんつーか……もうちょっと考えてくんねーかな、あの人も──」


 彼はぼやきながらも、その〝待ち合わせ場所〟をぐるりと見回した。

 午前中の早い時間に、そこに客はまだほとんどいない。

 小さくもないが、大きくもないデパートメント・ストアの軽食コーナーには、どこかうらさびれた雰囲気が漂っていた。午後になり、買い物客や学校帰りの子供たちがやってくればそれなりに賑やかになり、安っぽい装飾もむしろみやすいものとなるのだが、今はまだ、ただ薄汚れた印象ばかりが目立つ。

 能力を使って、周囲を探る。

 不自然でない程度に両手を持ち上げて、ゆらゆら、とかるく揺らす。


(……機械類がレジスターや冷蔵機の他にも数機ある……しかし爆破装置ではない。人間は男が八人、女が三十七人……子供がそのうちの九人。いずれも、普通の呼吸状態で戦闘態勢には入っていない。──そして)


 彼の特殊能力は〈NSU〉といって、手の皮膚表面で空気振動を感知する、いわば〝振動探知レーダー〟である。人間の心臓の鼓動も感知できるから、何人がデパートのこの階にいるのかもわかる。鼓動からはその人間がどういう心身状態にあるかも、これは訓練と経験によってだいたいわかるようになっている。

 直接戦闘用ではなく、どちらかというとバックアップや探索型の合成人間なのだ。


(──やっぱり先に来て、待ってやがったか)


 ビートはやや顔をしかめながら、軽食コーナーの隅に眼をやる。

 その一画にあるクレープ売場は、そこだけは妙に女の子趣味なかわいらしいカウンターになっていて、はっきり言って浮いていた。