アスラクライン

一章 ②

 軽くお手玉しながらコーラを受けとり、僕は礼を言った。おう、と親父はごうかいに歯をいて笑った。


「あとであんのやつに差し入れ持っていかせるから」


 最後にそれだけ言い残して、親父は運転席のドアを閉めた。おんぼろな音をひびかせてエンジンを始動し、あかさびいろの排気ガスをまき散らしながら荒っぽく走り去る。

 僕たちは門の前に立ち尽くし、それをぼんやりと見送った。

 季節は春。商店街の裏の坂道には、ちらほらと桜の花弁がっている。


「──あれが大原んの親父さんか」


 大原酒店の車が見えなくなったころ、友人のぐちがぽつりとつぶやいた。僕の腕から勝手にコーラを抜きとり、あきれたように息を吐く。


「おまえさ、あんなおっかない人によく荷物運びなんか頼めるな。マジ尊敬するよ」

「なんで? 親父さん、いい人だよ」


 と僕。顔はまるっきりヤクザだけど。

 うん、とみさとなりでうなずいた。細い肩をらしてくすくすと笑う。


「それはが気に入られてるからだろ。やまもとなんか、今でもあの店の前は恐くて通れないって言ってるぜ」

「あれは山本のほうが悪いよ。先に殴りかかったのもあいつだって話だし」


 樋口はだまって肩をすくめた。山本というのは同じ中学の同級生で、柔道初段。中二の時点で体重百キロを超えていた巨漢である。この男が、中学の制服を着たまま大原酒店に酒を買いに行き、親父さんとけんになったことがある。

 そのあとでなにがあったのか山本は多くを語らない。

 ただもくげきしやのほとんどは、顔をぼこぼこにらした山本が、なぜかパンツ一丁で泣きながら店を出ていったと証言している。事のしんはともかくとして、以来、おおはら酒店の親父といえばこのあたりのガキどもにとっての恐怖の代名詞となった。

 その結果、僕がひそかに有名な理由はふたつになった。ひとつはその親父の店でバイトしている恐れ知らずの変人として。もうひとつはゆうれいきとして。


「まあいいや。さっさと荷物運んじまえよ」


 コーラを先に飲み終えたぐちが、地べたにみ上げた段ボールばこを足で突いた。プルタブに指をかけたまま僕は動きを止めた。


「樋口は?」

「え? おれも運ぶのか?」


 予想外だ、というふうに樋口は目を丸くする。だったらなにしに来たんだ、おまえは。


「手伝わないのなら帰れよ。コーラも返せ。だいたい今日きようは、こないだこくってた二年生の子と映画に行くんじゃなかったのか?」

「ばっか、おめ。友達がうわさめいおうていに引っ越すってのに、映画なんかてる場合じゃないだろ。このしきには、ものもくげき情報が山ほどあるんだぜ?」

「人の下宿先に勝手に変なあだ名をつけるな。デマを流すのもやめろ」

「デマかどうかはちゃんと調ちようしてみないとな。とりあえず、ここんちの庭にカメラ仕掛けていいかな?」

「くだらないこと言ってないで手伝えよ」


 僕は樋口に向けて段ボール箱を放った。またフラれた、と言って樋口が泣きついてきても、今度は絶対に相手しないことにしよう、と心に誓う。

 実際、樋口はよくフラれる。平均して年に五回ぐらいのペースで失恋している。樋口の場合、見た目だけならけっこうまともなので、会話の内容に問題があるのだと思う。樋口は重度のオカルトマニアなのだ。

 今でこそなしくずし的に友人としてっているが、樋口が最初に僕に近づいてきたのは、僕が幽霊憑きであるという噂を聞きつけてのことだった。

 基本的に樋口の女の子との会話というのはオカルトネタばかりで、初めてのデートでようかいやUMAや宇宙人について延々と語り続けたら、いくら顔がよくても相手は。下ネタのほうがまだマシだろう。


「クソ重いな。なにが入ってんだこれ」


 段ボール箱の底に手を掛けた樋口が、うえ、とくちびるゆがめて僕を見る。


「教科書とか辞書とか。先週の新入生ガイダンスでもらったやつ」

「それだけ? 俺がプレゼントしてやった心霊スポットと都市伝説のガイドブックは?」

「速攻で捨てたよ、あんなの」


 僕が答えると、樋口はあからさまに落胆の表情を浮かべた。うらめしそうに『みかん』と書かれた段ボールばこにらみ、


「だったらエロ本は?」

「ないよそんなの」

ってそういうとこマジメだよな」

「べつにマジメってわけじゃないけど」


 普通、教科書とエロ本はいつしよにしないと思う。そもそも、ゆうれいきの人間に心霊スポットのガイド本をプレゼントするというぐちの神経はどこかおかしい。


にはどっちも必要ないんだよね。あたしがいるから』


 僕の頭の中にささやくように、いたずらっぽい声が聞こえてくる。

 なんだそれ。誤解を招くようなことを言うな。

 ため息混じりに声の方角を見上げると、みさが素知らぬようで遠くを眺めていた。

 今の操緒の見た目は、たぶん僕と同じ十五さいくらい。白いスプリングコートのポケットに、両手を突っこんだ美少女だ。

 僕のせんに気づいて振り返り、操緒はゆっくりと微笑ほほえんだ。

 不覚にも見とれてしまった僕をからかうように、べえ、と舌を出して目を細める。長く伸ばした髪のすきを、桜の花弁がすり抜けていく。


「──しかし古いしきだよな」


 びた鉄格子の門を開け、樋口が庭のいしだたみに足を踏みだした。

 手入れのよくない庭木がまばらに植わった、殺風景な庭だった。短い石畳の突き当たりに、レンガ造りの洋館が建っている。樋口が言うようにかなり古い。なにかの歴史的なねんかんだといわれても信じたかもしれない。ちく五十年くらいは余裕で経過してそうだ。古いというよりも、正直ボロい。


「こんなところに住むのか? 大丈夫かよ?」


 顔をしかめた樋口が、おどかすような調ちよういてきた。

 荷物を担いだまま、僕は玄関のかぎを探した。


「うちの兄貴が二年前まで住んでた家だから。中は意外にまともなんだよ。高校にも近いし」


 ポケットの奥から出てきたのは、古びたしんちゆうせいの鍵だった。キーホルダーのかわりに小さな御守りが結んであるのは、たぶん兄貴のしゆだろう。深い意味はないと信じたい。

 玄関の鍵穴は錆びていたが、意外とかんたんに鍵は回った。ホラー映画とそっくりな音を立てて、建てつけのよくないドアが開く。雨戸を閉め切った屋敷の中は、まだ昼間なのに暗かった。

 かべは白いしつくいだが、あちこちげ落ちてはいいろの地肌がきだしになっている。玄関からの光に照らされて、高いてんじようには不気味なかげが浮かんでいた。きこむ風にカーテンがひらひらとれている。


「お、いいねえ……ほんとに幽霊出そう。けど絶対オンナとか連れこめねえな、これは」


 ほこりまみれの廊下をのぞきこんで、ぐちおもしろそうに言った。

 それを聞いていたみさがくすくすと笑いだす。そして特に気分を悪くしたようもなく、


ゆうれいも女の子も、もうここにいるのにね』


 からかうような調ちようでそう言った。

 心地ここちよい楽器のいろような彼女の声は、樋口の耳には届いていない。

 自分のほおを指さした彼女の姿は、よく見るとほんのわずかだけけていた。い降りてくる花弁は、幻のように肩にもることもなく彼女を通り抜けていく。

 そうなんだよなと思いながら、僕は玄関口に荷物を降ろした。たしかに操緒でれていなかったら、僕としても、こんなところに住む気にはなれなかったかもしれない。

 洒落しやれちやいろのブーツをいたまま、操緒はしきの中に上がりこむ。

 彼女の足音は聞こえない。

 廊下にかげを落とす操緒のつまさきは、ほんのちょっとだけ宙に浮かんでいる。