軽くお手玉しながらコーラを受けとり、僕は礼を言った。おう、と親父は豪快に歯を剝いて笑った。
「あとで杏のやつに差し入れ持っていかせるから」
最後にそれだけ言い残して、親父は運転席のドアを閉めた。おんぼろな音を響かせてエンジンを始動し、赤錆色の排気ガスをまき散らしながら荒っぽく走り去る。
僕たちは門の前に立ち尽くし、それをぼんやりと見送った。
季節は春。商店街の裏の坂道には、ちらほらと桜の花弁が舞っている。
「──あれが大原ん家の親父さんか」
大原酒店の車が見えなくなったころ、友人の樋口がぽつりとつぶやいた。僕の腕から勝手にコーラを抜きとり、呆れたように息を吐く。
「おまえさ、あんなおっかない人によく荷物運びなんか頼めるな。マジ尊敬するよ」
「なんで? 親父さん、いい人だよ」
と僕。顔はまるっきりヤクザだけど。
うん、と操緒が隣でうなずいた。細い肩を揺らしてくすくすと笑う。
「それは智春が気に入られてるからだろ。山本なんか、今でもあの店の前は恐くて通れないって言ってるぜ」
「あれは山本のほうが悪いよ。先に殴りかかったのもあいつだって話だし」
樋口は黙って肩をすくめた。山本というのは同じ中学の同級生で、柔道初段。中二の時点で体重百キロを超えていた巨漢である。この男が、中学の制服を着たまま大原酒店に酒を買いに行き、親父さんと喧嘩になったことがある。
そのあとでなにがあったのか山本は多くを語らない。
ただ目撃者のほとんどは、顔をぼこぼこに腫らした山本が、なぜかパンツ一丁で泣きながら店を出ていったと証言している。事の真偽はともかくとして、以来、大原酒店の親父といえばこのあたりのガキどもにとっての恐怖の代名詞となった。
その結果、僕がひそかに有名な理由はふたつになった。ひとつはその親父の店でバイトしている恐れ知らずの変人として。もうひとつは幽霊憑きとして。
「まあいいや。さっさと荷物運んじまえよ」
コーラを先に飲み終えた樋口が、地べたに積み上げた段ボール箱を足で突いた。プルタブに指をかけたまま僕は動きを止めた。
「樋口は?」
「え? 俺も運ぶのか?」
予想外だ、というふうに樋口は目を丸くする。だったらなにしに来たんだ、おまえは。
「手伝わないのなら帰れよ。コーラも返せ。だいたい今日は、こないだ告ってた二年生の子と映画に行くんじゃなかったのか?」
「ばっか、おめ。友達が噂の冥王邸に引っ越すってのに、映画なんか観てる場合じゃないだろ。この屋敷には、化け物の目撃情報が山ほどあるんだぜ?」
「人の下宿先に勝手に変なあだ名をつけるな。デマを流すのもやめろ」
「デマかどうかはちゃんと調査してみないとな。とりあえず、ここんちの庭にカメラ仕掛けていいかな?」
「くだらないこと言ってないで手伝えよ」
僕は樋口に向けて段ボール箱を放った。またフラれた、と言って樋口が泣きついてきても、今度は絶対に相手しないことにしよう、と心に誓う。
実際、樋口はよくフラれる。平均して年に五回ぐらいのペースで失恋している。樋口の場合、見た目だけならけっこうまともなので、会話の内容に問題があるのだと思う。樋口は重度のオカルトマニアなのだ。
今でこそなし崩し的に友人として振る舞っているが、樋口が最初に僕に近づいてきたのは、僕が幽霊憑きであるという噂を聞きつけてのことだった。
基本的に樋口の女の子との会話というのはオカルトネタばかりで、初めてのデートで妖怪やUMAや宇宙人について延々と語り続けたら、いくら顔がよくても相手はひく。下ネタのほうがまだマシだろう。
「クソ重いな。なにが入ってんだこれ」
段ボール箱の底に手を掛けた樋口が、うえ、と唇を歪めて僕を見る。
「教科書とか辞書とか。先週の新入生ガイダンスでもらったやつ」
「それだけ? 俺がプレゼントしてやった心霊スポットと都市伝説のガイドブックは?」
「速攻で捨てたよ、あんなの」
僕が答えると、樋口はあからさまに落胆の表情を浮かべた。恨めしそうに『みかん』と書かれた段ボール箱を睨み、
「だったらエロ本は?」
「ないよそんなの」
「智春ってそういうとこマジメだよな」
「べつにマジメってわけじゃないけど」
普通、教科書とエロ本は一緒にしないと思う。そもそも、幽霊憑きの人間に心霊スポットのガイド本をプレゼントするという樋口の神経はどこかおかしい。
『智春にはどっちも必要ないんだよね。あたしがいるから』
僕の頭の中に囁くように、悪戯っぽい声が聞こえてくる。
なんだそれ。誤解を招くようなことを言うな。
ため息混じりに声の方角を見上げると、操緒が素知らぬ様子で遠くを眺めていた。
今の操緒の見た目は、たぶん僕と同じ十五歳くらい。白いスプリングコートのポケットに、両手を突っこんだ美少女だ。
僕の視線に気づいて振り返り、操緒はゆっくりと微笑んだ。
不覚にも見とれてしまった僕をからかうように、べえ、と舌を出して目を細める。長く伸ばした髪の隙間を、桜の花弁がすり抜けていく。
「──しかし古い屋敷だよな」
錆びた鉄格子の門を開け、樋口が庭の石畳に足を踏みだした。
手入れのよくない庭木がまばらに植わった、殺風景な庭だった。短い石畳の突き当たりに、レンガ造りの洋館が建っている。樋口が言うようにかなり古い。なにかの歴史的な記念館だといわれても信じたかもしれない。築五十年くらいは余裕で経過してそうだ。古いというよりも、正直ボロい。
「こんなところに住むのか? 大丈夫かよ?」
顔をしかめた樋口が、脅かすような口調で訊いてきた。
荷物を担いだまま、僕は玄関の鍵を探した。
「うちの兄貴が二年前まで住んでた家だから。中は意外にまともなんだよ。高校にも近いし」
ポケットの奥から出てきたのは、古びた真鍮製の鍵だった。キーホルダーのかわりに小さな御守りが結んであるのは、たぶん兄貴の趣味だろう。深い意味はないと信じたい。
玄関の鍵穴は錆びていたが、意外と簡単に鍵は回った。ホラー映画とそっくりな音を立てて、建てつけのよくないドアが開く。雨戸を閉め切った屋敷の中は、まだ昼間なのに暗かった。
壁は白い漆喰だが、あちこち剝げ落ちて灰色の地肌が剝きだしになっている。玄関からの光に照らされて、高い天井には不気味な影が浮かんでいた。吹きこむ風にカーテンがひらひらと揺れている。
「お、いいねえ……ほんとに幽霊出そう。けど絶対オンナとか連れこめねえな、これは」
埃まみれの廊下をのぞきこんで、樋口が面白そうに言った。
それを聞いていた操緒がくすくすと笑いだす。そして特に気分を悪くした様子もなく、
『幽霊も女の子も、もうここにいるのにね』
からかうような口調でそう言った。
心地よい楽器の音色ような彼女の声は、樋口の耳には届いていない。
自分の頰を指さした彼女の姿は、よく見るとほんのわずかだけ透けていた。舞い降りてくる花弁は、幻のように肩に積もることもなく彼女を通り抜けていく。
そうなんだよなと思いながら、僕は玄関口に荷物を降ろした。たしかに操緒で慣れていなかったら、僕としても、こんなところに住む気にはなれなかったかもしれない。
洒落た茶色のブーツを履いたまま、操緒は屋敷の中に上がりこむ。
彼女の足音は聞こえない。
廊下に影を落とす操緒の爪先は、ほんのちょっとだけ宙に浮かんでいる。