アスラクライン

一章 ③

    *


 かみ操緒と呼ばれていた少女がこう事故で行方ゆくえ不明になって、もうすぐ三年がとうとしている。それはつまり、僕が操緒という名のゆうれいかれて三年が過ぎたということだ。


 しかし幽霊になったからといって、操緒の性格にはあまり変化がなかった。むしろ彼女には、その状況を楽しんでいるフシがある。

 見た目からして彼女は幽霊という感じではない。なんというか普通に「女の子」なのである。

 全体的に色素がうすい感じはするが、よく見なければ透けていることには気づかない。足もある。出るべきところが出ているという感じではないが、スタイルだってそう悪くない。

 事故直後の病院で出会ってから、僕が帰国して中学生になり、進級し──今現在、中学卒業時点まで。なぜか彼女は僕とほぼ同じペースで成長を続けていた。このあたりからして、すでに世間一般の幽霊というイメージからズレている。

 成長する幽霊。なるほど、いいだろう。認めよう。

 きやつかんてきに見ても愛らしいお子様だったしゆれいさまは、成長して、とびきりの美少女になった。

 それが幸福なことかと問われれば、そうだともそうでないとも言える。

 たしかに操緒は可愛かわいらしい。そんな子がいつもそばにいて、自分だけに話しかけてくれるのはうれしいことだ。

 その一方で、どんなに手を伸ばしても触れられない場所に彼女がいるというのも事実で、ある意味これはものすごい不幸だと思う。

 すらりとした手足とか、それなりに深い胸の谷間とか、白くて細い首筋とか、形のいいくちびるとか。そういうものをフルタイムで目の前に見せつけられて手が出せない状況というのは、思春期の男子としてかなりつらい。ごうもんに近い。

 しかもみさは自分の性的りよくについてはかなりとんちやくで、なになくくちびるを寄せてきたり、入浴中の僕にくっついてフロ場に入ってきたり、見えそうで見えない角度でスカートをはためかせていたりするのだが──もしかしてわざとやってますか、おねえさん?

 そもそもゆうれいなんて実在せず、操緒の存在は僕が作りだしたもうそうだという解釈もある。事実、操緒の姿は僕にしか見えず、操緒の声は僕にしか聞こえないのだから。

 精神科医にそうだんしたら、分裂した僕の自我の一部が操緒という別の人格を作りだしたのだ、なんてそれらしい理屈をつけてくれるのかもしれない。

 それはそれで僕がかなりイタイ人間のような気もするが、残念ながら否定する根拠もない。

 ついでに言えば僕には霊感など欠片かけらもなく、操緒以外の幽霊には、生まれてこの方出会ったことがない。だから余計にそう思えるのだけれど──実際のところはどうなのだろう?


『んー、どうかなぁ?』


 そう言って操緒は、ほれほれ、という感じで、わざとシャツのえりもとを大きく開けてまえかがみに僕をのぞきこんだりする。実にエロい。だからやめろって。


『──がそれでなつとくできるのなら、それでいいんじゃない?』


 よくない。納得できない。そもそも僕は幽霊とかその手のオカルトや科学が大嫌いなのだ。それでなくても幽霊きだといううわさを立てられて、中学時代の同級生の一部は、いまだに僕のことを怖れて近寄ってこないのだ。このままでは高校に入学しても、まともな恋愛ひとつできないような気がする。

 仮に操緒が本物の幽霊で、彼女の本体はやはりあのこう事故で死んでいるのだとしたら、すでに彼女は三年間ものゆう期間を過ごしたのだ。そろそろじようぶつしてくれてもいいのではないのかと思う。そのほうが操緒のためになるのではないのかと。

 そんなことを思っていた。

 今夜──たちに出会うまでは。


    *


 昼間から始めた引っ越し作業は、夕方にはあらかた片づいていた。

 樋口が手伝ってくれたおかげという事実はまったくなく、とりあえず生活に必要な場所以外、掃除も片づけも後回しにすれば、という操緒の大雑把な助言に従ってみただけである。

 なにしろこのめいおうていは広いのだ。全部の部屋を開けて掃除なんかしていたら、一週間かけても終わらなかったと思う。


「──これで家賃いくらだって?」


 リビングに置かれた年代もののソファに寝そべって、ぐちいた。

 開けっ放しの出窓からゆうしこんで、かべぎわの柱時計を照らしている。

 とにかく古い建物なので掃除したといってもくたびれた印象はぬぐえなかったが、れれば心地ごこちは悪くなかった。十九世紀あたりのロンドンとかそんな感じ。探偵小説に出てきそうな雰囲気だ。またはかい小説に出てきそうな雰囲気ともいう。ほんとにものんでいそうだ。

 家賃は……さて、いくらだろう?


「そんなに高くないと思うけど、よく知らない。払ってるのは兄貴だから」


 留守中は勝手に使っていいと言われていたのだ。本気で僕が住み着くとは、兄貴も思ってなかっただろうけど。


「あー……の兄貴って今アフリカだっけ?」

「うん」


 うなずきかけて、僕はふと考えこんだ。


「いや、どうなんだろ……こないだインドから絵ハガキが来てたけど」

「なんだそれ? その前は南米から電話があったとか言ってなかったか?」


 頭を上げた樋口がいぶかしげにまゆを寄せて、


「……なんか、頭いい人の考えることはよくわかんねえなあ」


 うん。まったく同感だ。

 僕の兄のなつなおたかは、幼いころからとにかく頭が切れることで知られていた。

 中学生のころからすでにけんしようろんぶんに応募して何十万円だかのしようがくきんを受け取っていたし、大学生になってからは、それらを元手に株でもうけて家を飛び出し、あっさり海外に留学してしまったのだ。

 それ以来、時折ふらりと一方的にかかってくる国際電話以外に、兄貴と連絡を取る方法はない。もしかしたら母にはメールアドレスぐらい教えているのかもしれないが、僕は知らない。

 最初のころはそれをずいぶん不満に思ったものだが、最近は僕も少し考えをあらためた。

 もしかしたら天才に生まれついた兄貴は兄貴なりに、凡才の弟に気をつかっているのかもしれない。兄弟としてのきよの取り方を迷っているというか──いや、やっぱりそれはないか。あの男に限っては。


あんちゃん、来たよ』


 ぞうきんを握ったままぼんやりしていた僕に、みさが近づいてきて耳打ちした。少し遅れて妙に間延びした音でドアチャイムが鳴った。電池が切れかけているのかもしれない。

 雑巾をバケツに戻して洗面所で手を洗い、実家から持ってきたスリッパをパタパタと鳴らして玄関に向かう。ギギィとちようつがいきしませてドアを開けると、快活そうなショートヘアの少女がくちびるとがらせて立っていた。中学の同級生だったおおはら杏だ。


「遅いよっ、!」


 言いながら、あんは両手に持っていた荷物を僕の胸に押しつけてくる。おせち料理みたいな三段重ねのじゆうばことオレンジジュースのペットボトル。


「なにこれ。どうしたの?」


 受け取った重箱はずっしりと重い。


「お父さんが晩ご飯持っていけって。引っ越し終わったの?」


 まあいちおう、という僕の返事を待たずに、杏は勝手に家に上がりこんできた。

 廊下にともったキャンドル型の電球を見上げて、あは、と感動したように息を吐く。


「すっごいね。話には聞いてたけど、しよくそうぜんって感じ。めいおうていっていうんだっけ?」

「うん。兄貴はそう呼んでた」


 この洋館の名前である。そういえば中庭に一本だけ立派な桜の木があって、今も見事に花を咲かせている。


『──根元に死体が埋まってるのかも』