操緒が、僕の耳元で囁いてくすくすと笑う。僕は嫌な顔をして彼女を見上げた。だからそういうことを言うのはやめろって。ただでさえおまえは幽霊なんだから。
杏は特に恐怖を感じている様子もなく、時折「うわー」とか「ひゃー」とか声を上げながら廊下を進み、リビングをのぞきこんで、おや、という顔をした。
「あれっ、樋口じゃん! あんたもいたの?」
「んあ?」
樋口もむくりと上体を起こして、特に感慨もない口調で、
「なんだ、大原か。今ごろなにしに来たんだよ。お子ちゃまは家に帰る時間だぞ」
こんなふうに意中の女子以外にはひたすら無頓着なところも、樋口が今イチもてない原因のひとつだと思う。
「なにその態度! 人がせっかく食料の配給に来てあげたのにっ!」
「え、まじで──でかした大原。おまえ最高」
鮮やかなくらい態度を豹変させて、樋口はソファから飛び降りた。僕はそのままリビングのテーブルに食事を並べる。食堂はまだ掃除が済んでいないのだ。
「コップってあったっけ?」
樋口たちに聞こえないように、小声で訊く。操緒が、んー、と唇に手をあてて、
『コップは知らないけどビーカーなら見たよ。隣で』
ビーカーか。たしかにコップのかわりにならないこともない。変な薬品が入っていたやつでなければいいけど。
『だいじょうぶ。操緒がついているよ』
なんだそれ。理由になっていない。それに操緒は、ついててくれてるわけではなくて、憑いてる、の間違いなんじゃないだろうか。
操緒は昔からこんな性格なので、判断に迷ったときの僕は、たいてい彼女の意見に引きずられる。それで失敗して痛い目を見るのは自分だとわかっているのだが、一度固定してしまった役割を変えるのは難しい。あたしがついてるからと操緒に言われて、これまでに何度酷い目にあったことか。そんなことを口の中でぼそぼそとつぶやきながらも、僕は隣室に向った。
そこは、兄が趣味の工房として使っていた部屋らしかった。
殺風景な室内に本格的な工作機械や工具が置かれていて、壁の薬品棚には操緒の言うとおり大小様々なビーカーが並んでいる。そういえば兄はよくここで組み立てたラジコンヘリやここで改造したエアガンを持ちだしてきて、幼い僕を爆撃したり狙撃したりしていた。最悪だ。
僕は使い勝手のよさそうな中くらいのビーカーを、三個選んで取りだした。そのままリビングに戻ろうとして、ふと気づく。
工房の床面に奇妙な蓋がある。なんだろう、と少し興味を惹かれた。埋めこみ式の取っ手の下には鍵穴のようなものが空いていて、蓋というよりは扉のようにも見える。
『んー、地下室、かな?』
操緒が軽い口調で言う。僕は黙って首を傾げた。そんなものがあるなんて聞いてない。
特に理由はないのだが、ものすごく気になった。ただの物置ならいいのだが、ほんとに死体なんかが埋まっていたらどうしよう。または夜中に怪物の唸り声が聞こえてきたりしたら。化け物の目撃情報がある、という樋口の話は、いくらなんでもガセだと思うが。
「智春、なにやってんの? 早く来ないと全部食べちゃうよっ!」
リビングから杏の声が聞こえてきた。
杏も女にしてはよく喰うほうだが、樋口は餓えた馬車馬のように飯を喰う。二人を放っておくと本当に僕のぶんまで食べ尽くされるかもしれない。僕への差し入れではなかったのか。
「待てよ! ほんと、なにしに来たんだおまえら?」
僕はビーカーを抱えたまま、あわてて廊下へと駆けだした。操緒は無言でしばらく足元の扉を見下ろしていたが、やがて軽く肩をすくめて僕を追ってきた。
*
それから三十分ほどの間に、新聞屋が二軒来た。
応対してくれたのは杏だった。商売している父親の背中を幼いころから見て育ったせいか、杏はこの手の交渉事が驚くほど上手い。人懐こい声で一方的に喋り続けたあげくに、洗剤と野球のチケットだけをぶんどって、あっさりと勧誘員を追い返してしまった。これも立派な才能だと思う。
杏は大原酒店の自称・看板娘だ。僕とは同級生であると同時に、バイト先の同僚という間柄になる。
無敵の体力を誇る大原の親父も、過去に一度だけぎっくり腰をやってしまったことがあり、そのときに杏に頼まれて以来、僕は大原酒店で週に三日ほど働いている。中学生が酒屋でバイトというのもどうかと思うが、同級生の実家の手伝いということで教師たちも大目に見てくれていたらしい。
「でも、智春がなにか部活始めるのなら、店のことは心配しなくていいってお父さん言ってるよ。せっかく高校生なんだから、高校でしかできないことをやっとけって」
鳥の唐揚げをむぐむぐと豪快に頰ばって、杏が言う。
「部活かぁ」
僕はアスパラベーコン巻を口に運びながら、うーん、と考えこんだ。コショウが効いていてなかなか美味い。
「智春、部活なんかやんの?」
樋口が不思議そうに訊いてきた。その横から杏が、
「あ、その卵焼き作ったのあたし。美味しい?」
「ちょっと甘すぎるかも……べつに入りたいクラブがあるわけじゃないけど」
しかし僕は無趣味なので、部活ぐらいやってないとバイトのない日に退屈を持てあますことになる。つき合っている彼女がいるわけでもないし。遊びに行くほど金もないし。
そして操緒は退屈するのがなにより嫌いなのだ。
僕に取り憑いている幽霊なのだから当然といえば当然なのだが、ヒマを持てあました操緒は自動的に僕にちょっかいを出してくる。無視しているともちろん怒りだす。操緒は力の弱い幽霊らしく、騒霊現象で暴れたり、祟ったりということはできないのだが、そのかわり昔の僕の恥ずかしい失敗などをよく覚えていて、そのことをさりげなく耳元で囁いたりしてくるのだ。できればそういう事態は避けたかった。
「なんでもいいんだったら、あたしと一緒に陸上部入ろうよっ。智春、足速いじゃん!」
まあ足だけは。僕が兄に張り合える数少ない得意分野のひとつだ。
「やめとけ、あんな汗臭いの。帰宅部でいいだろ、せっかくの一人暮らしなのにもったいねえ」
「こんなボロ家に一人で籠もってるのはヤバいよ。不健康だよ。古井戸の中の女とか、ベッドの下の男とかに殺されちゃうよ」
「ばっか、おめ。それがいいんじゃねえか。もともと智春には幽霊が憑いてんだから、今さら化け物の一匹や二匹増えてもどうってことねえって」
そんなわけあるか、と僕は思う。操緒が、イー、と白い歯を剝いて樋口に怒る。
「それって樋口が言ってるだけでしょ」
漬け物を嚙みながら、杏が言う。杏は幽霊否定派だ。
守護霊といいつつ操緒には幽霊らしい能力がほとんどない。他人に憑依したり、呪ったりなんてことはもちろん無理。たぶん彼女の性格的な問題だと思う。そういう湿っぽい行為とは相性が悪いのだ。
ただ、ごく稀に写真やビデオには写ってしまうことがあって、僕が幽霊憑きだと噂になったのも直接的にはそのことが原因だった。どのみち根拠としてはその程度なので、僕は幽霊憑きとしては人畜無害なタイプに分類されており、杏のように幽霊の存在そのものを否定する友人も多い。
「だったら演劇部にしろよ、智春」
なんの脈絡もなく突然そんなことを言いだす樋口。