アスラクライン

一章 ④

 みさが、僕の耳元でささやいてくすくすと笑う。僕はいやな顔をして彼女を見上げた。だからそういうことを言うのはやめろって。ただでさえおまえはゆうれいなんだから。

 杏は特に恐怖を感じているようもなく、時折「うわー」とか「ひゃー」とか声を上げながら廊下を進み、リビングをのぞきこんで、おや、という顔をした。


「あれっ、ぐちじゃん! あんたもいたの?」

「んあ?」


 ぐちもむくりと上体を起こして、特にかんがいもない調ちようで、


「なんだ、おおはらか。今ごろなにしに来たんだよ。お子ちゃまは家に帰る時間だぞ」


 こんなふうに意中の女子以外にはひたすらとんちやくなところも、樋口が今イチもてない原因のひとつだと思う。


「なにそのたい! 人がせっかく食料の配給に来てあげたのにっ!」

「え、まじで──でかした大原。おまえ最高」


 あざやかなくらい態度をひようへんさせて、樋口はソファから飛び降りた。僕はそのままリビングのテーブルに食事を並べる。食堂はまだ掃除が済んでいないのだ。


「コップってあったっけ?」


 樋口たちに聞こえないように、小声でく。みさが、んー、とくちびるに手をあてて、


『コップは知らないけどビーカーなら見たよ。となりで』


 ビーカーか。たしかにコップのかわりにならないこともない。変な薬品が入っていたやつでなければいいけど。


『だいじょうぶ。操緒がついているよ』


 なんだそれ。理由になっていない。それに操緒は、ついててくれてるわけではなくて、いてる、の間違いなんじゃないだろうか。

 操緒は昔からこんな性格なので、判断に迷ったときの僕は、たいてい彼女の意見に引きずられる。それで失敗して痛い目を見るのは自分だとわかっているのだが、一度固定してしまった役割を変えるのはむずかしい。あたしがついてるからと操緒に言われて、これまでに何度ひどい目にあったことか。そんなことを口の中でぼそぼそとつぶやきながらも、僕はりんしつに向った。

 そこは、兄がしゆの工房として使っていた部屋らしかった。

 殺風景な室内に本格的な工作かいや工具が置かれていて、かべの薬品棚には操緒の言うとおり大小さまざまなビーカーが並んでいる。そういえば兄はよくここで組み立てたラジコンヘリやここで改造したエアガンを持ちだしてきて、幼い僕をばくげきしたり狙撃したりしていた。最悪だ。

 僕は使い勝手のよさそうな中くらいのビーカーを、三個えらんで取りだした。そのままリビングに戻ろうとして、ふと気づく。

 工房のゆかめんに奇妙なふたがある。なんだろう、と少しきようかれた。埋めこみ式の取っ手の下にはかぎあなのようなものが空いていて、蓋というよりはとびらのようにも見える。


『んー、地下室、かな?』


 操緒が軽い調ちようで言う。僕はだまって首をかしげた。そんなものがあるなんて聞いてない。

 特に理由はないのだが、ものすごく気になった。ただの物置ならいいのだが、ほんとに死体なんかが埋まっていたらどうしよう。または夜中にかいぶつうなり声が聞こえてきたりしたら。ものもくげき情報がある、という樋口の話は、いくらなんでもガセだと思うが。


、なにやってんの? 早く来ないと全部食べちゃうよっ!」


 リビングからあんの声が聞こえてきた。

 杏も女にしてはよくうほうだが、ぐちえた馬車馬のように飯を喰う。二人を放っておくと本当に僕のぶんまで食べ尽くされるかもしれない。僕への差し入れではなかったのか。


「待てよ! ほんと、なにしに来たんだおまえら?」


 僕はビーカーを抱えたまま、あわてて廊下へとけだした。みさは無言でしばらく足元のとびらを見下ろしていたが、やがて軽く肩をすくめて僕を追ってきた。


    *


 それから三十分ほどの間に、新聞屋が二軒来た。

 応対してくれたのは杏だった。商売している父親の背中を幼いころから見て育ったせいか、杏はこの手の交渉事がおどろくほどい。ひとなつこい声で一方的にしやべり続けたあげくに、洗剤と野球のチケットだけをぶんどって、あっさりとかんゆういんを追い返してしまった。これも立派な才能だと思う。

 杏はおおはら酒店の自称・看板娘だ。僕とは同級生であると同時に、バイト先のどうりようという間柄になる。

 無敵の体力を誇る大原の親父も、過去に一度だけぎっくり腰をやってしまったことがあり、そのときに杏に頼まれて以来、僕は大原酒店で週に三日ほど働いている。中学生が酒屋でバイトというのもどうかと思うが、同級生の実家の手伝いということで教師たちも大目に見てくれていたらしい。


「でも、がなにか部活始めるのなら、店のことは心配しなくていいってお父さん言ってるよ。せっかく高校生なんだから、高校でしかできないことをやっとけって」


 鳥のからげをむぐむぐとごうかいほおばって、杏が言う。


「部活かぁ」


 僕はアスパラベーコン巻を口に運びながら、うーん、と考えこんだ。コショウがいていてなかなかい。


、部活なんかやんの?」


 樋口がそうにいてきた。その横から杏が、


「あ、その卵焼き作ったのあたし。しい?」

「ちょっと甘すぎるかも……べつに入りたいクラブがあるわけじゃないけど」


 しかし僕はしゆなので、部活ぐらいやってないとバイトのない日に退屈を持てあますことになる。つき合っている彼女がいるわけでもないし。遊びに行くほど金もないし。

 そして操緒は退屈するのがなにより嫌いなのだ。

 僕にいているゆうれいなのだから当然といえば当然なのだが、ヒマを持てあましたみさは自動的に僕にちょっかいを出してくる。無視しているともちろん怒りだす。操緒は力の弱い幽霊らしく、騒霊現象ポルターガイストあばれたり、たたったりということはできないのだが、そのかわり昔の僕のずかしい失敗などをよく覚えていて、そのことをさりげなく耳元でささやいたりしてくるのだ。できればそういうたいは避けたかった。


「なんでもいいんだったら、あたしといつしよに陸上部入ろうよっ。、足速いじゃん!」


 まあ足だけは。僕が兄に張り合える数少ない得意分野のひとつだ。


「やめとけ、あんなあせくさいの。帰宅部でいいだろ、せっかくの一人暮らしなのにもったいねえ」

「こんなボロ家に一人でもってるのはヤバいよ。けんこうだよ。古井戸の中の女とか、ベッドの下の男とかに殺されちゃうよ」

「ばっか、おめ。それがいいんじゃねえか。もともとには幽霊が憑いてんだから、今さらものの一匹や二匹増えてもどうってことねえって」


 そんなわけあるか、と僕は思う。操緒が、イー、と白い歯をいてぐちに怒る。


「それって樋口が言ってるだけでしょ」


 漬け物をみながら、あんが言う。杏は幽霊否定派だ。

 しゆれいといいつつ操緒には幽霊らしい能力がほとんどない。他人にひようしたり、のろったりなんてことはもちろん無理。たぶん彼女の性格的な問題だと思う。そういう湿っぽい行為とはあいしようが悪いのだ。

 ただ、ごくまれに写真やビデオには写ってしまうことがあって、僕が幽霊憑きだとうわさになったのも直接的にはそのことが原因だった。どのみち根拠としてはその程度なので、僕は幽霊憑きとしては人畜無害なタイプに分類されており、杏のように幽霊の存在そのものを否定する友人も多い。


「だったらえんげきにしろよ、


 なんの脈絡もなく突然そんなことを言いだす樋口。