「俺の情報だと洛高の演劇部には今、男子部員が一人もいないらしい。苦労せず男役スターの座はいただきだ」
「駄目だよそんなの。智春に演技なんかできるわけないじゃん。王子役なんて絶対無理」
「王子じゃなくてもほかにもあるぞ。王女役とか死体とか」
「んー、王女様は見てみたいような気もするけどぉ」
絶対イヤだ。そもそも演劇部に入りたいなんて僕はひとことも言ってないのだが。
やはり陸上部だ、いや映研だ、などと勝手に言い争う樋口たちを無視して、僕が黙々と重箱の三段目に入っていたサンドイッチを食べていると、
『──智春』
操緒がふわふわと降下してきて、僕の肩に乗った。
『また誰か来たよ。なんだか変わった人』
「え……誰だろう?」
思わず声に出してつぶやいてしまい、樋口と杏が不思議そうに振り返った。彼らには操緒の声が聞こえていない。
幸い二人が怪訝に思うより先に、玄関から間延びしたドアチャイムが聞こえてきた。
「また新聞の勧誘かぁ? おい、大原」
「おまかせっ」
樋口に指名された杏が嬉々として立ち上がり、玄関に向かって駆けだしていく。操緒は、腕組みして考えこんでいる。
『んー、新聞屋さんには見えなかったけど……』
だったら牛乳配達か生命保険の人かもしれない。町内会の役員かも。悩むほどのことだとは思えなかったが──そういえば杏が妙に静かだ。
「……智春、ちょっといい?」
しばらくして杏が戻ってきた。狐につままれたような憮然とした表情を浮かべて、廊下から僕を手招きする。
「お客さんみたいなんだけど」
誰だろう? 僕が今日ここに引っ越してきたことを知っている人間は多くない。杏の親父と僕の母親と苑宮氏と──苑宮和葉。和葉が来てくれたのなら嬉しいが、しかしそれはあり得ない。彼女が訪ねてくる理由がない。それとも仲直りしにきてくれたのか──
やはり違った。
『うわあ……』
操緒が感心したように息を吐いた。
玄関口に立っていたのは、見たこともない若い女だった。
すらりと伸びた長身でスタイルがいい。踵のある靴を履いているせいで、たぶん僕よりも背が高い。
四月だというのに真冬のようなロングコートを着ている。コートの色は漆黒だ。肩あたりで真っ直ぐに切り落とした髪も黒いので、ほとんど全身黒ずくめである。魔女みたいだ。
彼女が身につけているもので唯一色がついているのは、美人OLがかけてそうな赤いセルフレームの眼鏡で、なんとなくその部分だけが周囲から浮いている。
そして眼鏡の下の彼女の顔立ちは、なんというか掛け値なしの美女だった。
『綺麗な人だねー……智春、ああいうの好きでしょう?』
図星を指されて僕はうろたえた。出来のいい兄に虐げられて育った反動なのか、僕は年上の綺麗なお姉さんっぽい人に弱かった。対抗心を燃やしているのか、操緒の口調は明らかに不機嫌だ。
たしかに美人というだけなら操緒も負けてないが、操緒の場合はお姉さんというよりは双子の片割れみたいなものだし。幽霊だし。それになんというか、操緒には彼女のようなしっとりとした色気はない。
「こんばんは──それとも初めましてと挨拶するべきなのかしら。念のため確認させてもらうけど、きみ、直貴さんの弟くん、だよね?」
黒ずくめの女が口を開いた。
僕は、浮かれていた気分が急速に沈むのを感じた。なるほど。この綺麗なお姉さんは兄貴の知り合いだったわけか。面白くもなんともないオチである。
「あの、すいません。兄貴はまだ留学先から戻ってきてないんですけど」
べつに悪いことをしたとは思わないが、いちおう謝っておくことにした。
僕がこの屋敷に引っ越してきたせいで、直貴が帰ってきたのだと期待させてしまったのなら、それは申し訳ないことだ。
しかしお姉さんは特に落胆した様子も見せず、にこやかに微笑みながら僕のことをじっと見つめていた。
居心地の悪い気分を感じて僕は途方に暮れる。
この人、美人だけどどこか変わっている。とっつきにくいというかペースがつかめないというか。
「──知ってるわ」
「は?」
「あたしもね、直貴さんの知り合いなの。だから今日はあの人に会うのが目的ではないの。きみに用があって来たのよ、夏目智春」
「え、俺ですか?」
驚きのあまり思わず普段使いなれない「俺」なんて言葉を使ってしまう。女はうなずき、
「直貴さんに頼まれていたの。もしあなたがこの屋敷に引っ越してくるようなことがあったら、これを渡してくれって」
「はあ」
渡す。なにを。訊き返そうとして僕は気づいた。
黒ずくめのお姉さんの足元に、見慣れない銀色のトランクが置かれている。
旅行用のスーツケースくらいの大きさで、表面が独特の金属光沢を放っている。
「はい」
彼女はトランクを持ち上げて、困惑する僕の前に差しだした。
「あ、あの……うわ!?」
反射的にトランクを受け取って、僕はたまらずバランスを崩した。
お姉さんが軽々と扱っていたので油断していたが、めちゃくちゃ重い。両手でもぎりぎり持ち上げるのが精いっぱいだ。酒屋のバイトで鍛えているので、体力には自信があったのに。
「たしかに渡したわ。大事にしてね」
涼しげな口調でお姉さんが言う。僕はどうにか無事にトランクを足元に降ろして、
「ちょっと待って。これ、なんなんです? それにあなたは? 兄貴に頼まれたっていうのはいつの話なんですか?」
僕が知っている限り、直貴は一昨年の夏に日本を出て、それから一度も戻ってないはずだ。
その間、彼女はずっとこの荷物を預かっていたというのだろうか。それとも兄は戻って来ているのか。だったらどうして僕に直接手渡さずに、彼女に預けたりしたのだろう。
「それを絶対に手放してはだめよ。とても大切なものだから。それが、きみ自身のためにもなるからね」
僕の質問はきっぱり無視して、彼女は一方的にそう告げた。
そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない。
渡されたトランクはただ重いだけではなく、ものすごく頑丈に作られていた。本体も取っ手も金属製で、ちょっと見ただけでは継ぎ目がわからないくらい、きっちり閉じ合わされている。
外観はメカニカルだが、ぶっといボルトを打ちこんだ表面にはうっすら錆びが浮いていて、あちこち茶色く変色している。いつごろ作られたものなのかさっぱりわからない。
ひとつだけはっきりしているのは、ものすごく高価そうということだけだ。中に札束が詰まっていたとしても驚かない。むしろその程度で済んでくれたらありがたい。この中身が拳銃や、危険な白い粉末だったらどうしようと想像して、僕は急に恐くなった。わざわざ海外に出かけてなにをしているのだろう、あの兄貴は。
「あの……ごめんなさい。やっぱりこれ返してもいいですか?」
おそるおそる訊いてみたのだが、
「だーめ。それはあなたが持っていなければ意味がないの」
そう言って少し恐い顔で睨まれた。
僕はますます混乱する。意味がないとはどういう意味なのだろう。ただ持っていればそれでいいのだろうか。つまり──時効が成立するとか。ほとぼりが冷めるとか。
「あの……これって、ほんとに兄貴のものなんですよね?」
僕はしつこく訊き返した。あまりにも情けない表情をしていたのだろう。お姉さんが、ふふっと口元を緩めた。笑ったのだ。
「違うわ」