アスラクライン

一章 ⑤

おれの情報だとらくこうの演劇部には今、男子部員が一人もいないらしい。苦労せず男役スターの座はいただきだ」

だよそんなの。に演技なんかできるわけないじゃん。王子役なんて絶対無理」

「王子じゃなくてもほかにもあるぞ。王女役とか死体とか」

「んー、王女様は見てみたいような気もするけどぉ」


 絶対イヤだ。そもそも演劇部に入りたいなんて僕はひとことも言ってないのだが。

 やはり陸上部だ、いや映研だ、などと勝手に言い争う樋口たちを無視して、僕がもくもくじゆうばこの三段目に入っていたサンドイッチを食べていると、


『──


 操緒がふわふわと降下してきて、僕の肩に乗った。


『まただれか来たよ。なんだか変わった人』

「え……誰だろう?」


 思わず声に出してつぶやいてしまい、ぐちあんそうに振り返った。彼らにはみさの声が聞こえていない。

 幸い二人がげんに思うより先に、玄関から間延びしたドアチャイムが聞こえてきた。


「また新聞のかんゆうかぁ? おい、おおはら

「おまかせっ」


 樋口に指名された杏がとして立ち上がり、玄関に向かってけだしていく。操緒は、腕組みして考えこんでいる。


『んー、新聞屋さんには見えなかったけど……』


 だったら牛乳配達か生命保険の人かもしれない。町内会の役員かも。悩むほどのことだとは思えなかったが──そういえば杏が妙に静かだ。


「……、ちょっといい?」


 しばらくして杏が戻ってきた。きつねにつままれたようなぜんとした表情を浮かべて、廊下から僕を手招きする。


「お客さんみたいなんだけど」


 誰だろう? 僕が今日きようここに引っ越してきたことを知っている人間は多くない。杏の親父と僕の母親とそのみや氏と──苑宮かず。和葉が来てくれたのならうれしいが、しかしそれはあり得ない。彼女が訪ねてくる理由がない。それとも仲直りしにきてくれたのか──

 やはり違った。


『うわあ……』


 操緒が感心したように息を吐いた。

 玄関口に立っていたのは、見たこともない若い女だった。

 すらりと伸びた長身でスタイルがいい。かかとのあるくついているせいで、たぶん僕よりも背が高い。

 四月だというのに真冬のようなロングコートを着ている。コートの色はしつこくだ。肩あたりでぐに切り落とした髪も黒いので、ほとんど全身黒ずくめである。じよみたいだ。

 彼女が身につけているものでゆいいつ色がついているのは、美人OLがかけてそうな赤いセルフレームの眼鏡めがねで、なんとなくその部分だけが周囲から浮いている。

 そして眼鏡の下の彼女の顔立ちは、なんというか掛け値なしの美女だった。


れいな人だねー……、ああいうの好きでしょう?』


 ぼしを指されて僕はうろたえた。出来のいい兄にしいたげられて育った反動なのか、僕は年上のれいなおねえさんっぽい人に弱かった。対抗心をやしているのか、操緒の調ちようは明らかにげんだ。

 たしかに美人というだけならみさも負けてないが、操緒の場合はおねえさんというよりは双子の片割れみたいなものだし。ゆうれいだし。それになんというか、操緒には彼女のようなしっとりとした色気はない。


「こんばんは──それとも初めましてとあいさつするべきなのかしら。念のためかくにんさせてもらうけど、きみ、なおたかさんの弟くん、だよね?」


 黒ずくめの女が口を開いた。

 僕は、浮かれていた気分が急速に沈むのを感じた。なるほど。このれいなお姉さんは兄貴の知り合いだったわけか。おもしろくもなんともないオチである。


「あの、すいません。兄貴はまだ留学先から戻ってきてないんですけど」


 べつに悪いことをしたとは思わないが、いちおうあやまっておくことにした。

 僕がこのしきに引っ越してきたせいで、直貴が帰ってきたのだと期待させてしまったのなら、それはもうわけないことだ。

 しかしお姉さんは特に落胆したようも見せず、にこやかに微笑ほほえみながら僕のことをじっと見つめていた。

 心地ごこちの悪い気分を感じて僕はほうに暮れる。

 この人、美人だけどどこか変わっている。とっつきにくいというかペースがつかめないというか。


「──知ってるわ」

「は?」

「あたしもね、直貴さんの知り合いなの。だから今日きようはあの人に会うのが目的ではないの。きみに用があって来たのよ、なつともはる

「え、おれですか?」


 おどろきのあまり思わず普段ふだん使いなれない「俺」なんて言葉を使ってしまう。女はうなずき、


「直貴さんに頼まれていたの。もしあなたがこの屋敷に引っ越してくるようなことがあったら、これを渡してくれって」

「はあ」


 渡す。なにを。き返そうとして僕は気づいた。

 黒ずくめのお姉さんの足元に、れないぎんいろのトランクが置かれている。

 旅行用のスーツケースくらいの大きさで、表面が独特のきんぞくこうたくを放っている。


「はい」


 彼女はトランクを持ち上げて、こんわくする僕の前に差しだした。


「あ、あの……うわ!?」


 反射的にトランクを受け取って、僕はたまらずバランスをくずした。

 お姉さんが軽々と扱っていたのでだんしていたが、めちゃくちゃ重い。両手でもぎりぎり持ち上げるのが精いっぱいだ。酒屋のバイトできたえているので、体力には自信があったのに。


「たしかに渡したわ。大事にしてね」


 涼しげな調ちようでおねえさんが言う。僕はどうにか無事にトランクを足元に降ろして、


「ちょっと待って。これ、なんなんです? それにあなたは? 兄貴に頼まれたっていうのはいつの話なんですか?」


 僕が知っている限り、なおたか一昨年おととしの夏に日本を出て、それから一度も戻ってないはずだ。

 その間、彼女はずっとこの荷物を預かっていたというのだろうか。それとも兄は戻って来ているのか。だったらどうして僕に直接手渡さずに、彼女に預けたりしたのだろう。


「それを絶対に手放してはだめよ。とても大切なものだから。それが、きみ自身のためにもなるからね」


 僕の質問はきっぱり無視して、彼女は一方的にそうげた。

 そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない。

 渡されたトランクはただ重いだけではなく、ものすごく頑丈に作られていた。本体も取っ手もきんぞくせいで、ちょっと見ただけではぎ目がわからないくらい、きっちり閉じ合わされている。

 がいかんはメカニカルだが、ぶっといボルトを打ちこんだ表面にはうっすらびが浮いていて、あちこちちやいろく変色している。いつごろ作られたものなのかさっぱりわからない。

 ひとつだけはっきりしているのは、ものすごく高価そうということだけだ。中に札束が詰まっていたとしてもおどろかない。むしろその程度で済んでくれたらありがたい。この中身がけんじゆうや、危険な白い粉末だったらどうしようとそうぞうして、僕は急に恐くなった。わざわざ海外に出かけてなにをしているのだろう、あの兄貴は。


「あの……ごめんなさい。やっぱりこれ返してもいいですか?」


 おそるおそるいてみたのだが、


「だーめ。それはあなたが持っていなければ意味がないの」


 そう言って少し恐い顔でにらまれた。

 僕はますます混乱する。意味がないとはどういう意味なのだろう。ただ持っていればそれでいいのだろうか。つまり──時効が成立するとか。ほとぼりがめるとか。


「あの……これって、ほんとに兄貴のものなんですよね?」


 僕はしつこく訊き返した。あまりにもなさけない表情をしていたのだろう。お姉さんが、ふふっと口元をゆるめた。笑ったのだ。


「違うわ」