アスラクライン

一章 ⑥

 ええっ。トランクを握る僕の指先がふるえた。するとやはりこれって盗品なのだろうか。

 がくぜんとして彼女の顔を見つめ返す。

 かすかな違和感。

 せんが合わない。

 赤いセルフレームの眼鏡めがねの下のひとみは、僕の肩ごしにてんじようのほうを見上げている。

 その先にいるのは──


、この人──』


 みさが声をふるわせた。黒ずくめの女のせんは、迷いなくぐに操緒のほうへと向けられていた。僕以外のだれにも見えないはずの操緒へと。


「それは最初からのものよ」


 きっぱりと宣言して、彼女は僕たちに背中を向けた。コートのすそじよのマントのようにふわりとひるがえった。僕と操緒は、ぼうぜんと彼女の後ろ姿を見送った。

 あとにはぎんいろのトランクだけが残された。


    *


「ねえっ、今の人なんだったのっ?」


 リビングに戻ってきた僕に、ソファの上に正座したあんいてきた。

 きようしんしんといった感じで、くりくり動くひとみはいつもと同じ。ただどことなく不安そうな表情を浮かべている。


「すげえ美人だったな。何者だ、あれ?」


 同じくぐちも、欲望に目をぎらつかせながら訊いてくる。部屋からのぞいていたらしい。


「ねえねえっ、その荷物どうしたのっ。中身なに?」

「開けてみようぜ。べつにいいんだろ?」


 ばやに飛んでくる二人の質問を、僕はぼんやりと聞き流した。自分がなにひとつ答えられないことに気づいて、少しショックを受ける。そういえば彼女の名前を訊くのも忘れていた。兄貴の知り合いだという話は本当だろうか。

 兄貴の知り合い。いやひびきだ、と僕は暗い気持ちで思い出す。

 中学生になったばかりのころ愚かにも、なおたかに操緒のことを話してしまったことがある。

 翌日、直貴はりんしよう心理学専攻の学生だという女子大生を三人ばかり連れてきた。彼女たちは僕を素っ裸にひんいたあげくに、改造手術に使うみたいなベッドにしばりつけ、全身の穴という穴にきんぞくの器具を突っこんで電気を流しながら、全部「いいえ」で答えなければならない質問を五百個くらい訊いていた。僕はそれから半年くらい重度の女性恐怖症におちいった。

 さらにその翌年、僕がイジメにったと聞いて直貴が連れてきたのは、名も知れぬあやしげな武術の達人だというおっさんだった。初伝とやらを習っている最中に十メートルほどぶっ飛ばされて、僕はそのあと三日間くらいのおくがない。

 とにかく昔から直貴の知り合いだと名乗る人物と出会って、僕がいい目を見たことは一度もないのだった。

 あんたちにかされて、僕はクソ重いトランクをリビングのゆかに投げだした。

 見れば見るほどあやしげなトランクだ。アポロ11号が月の石を持って帰るときに使ったやつに似ている。でも見た目がもっとゴテゴテしている。


「細菌兵器とか入ってんじゃねえだろうな?」


 じようだんめかした調ちようぐちが言うが、僕にはまったく笑えなかった。

 いちおうトランクにはほうしやせんだのバイオハザードだのの記号は入ってないようだが、それだけで安心してもいいものかどうか。たった今、らんぼうに投げ落としてしまったことがやまれる。


「ねえ、これってどうやって開けるの?」


 ばんばん、とトランクをたたきながら杏がく。

 そんな手荒に扱わないほうがいいと思うのだが、それを口にしてしまうと悪い予感が現実になってしまいそうで、僕はなにも言えなかった。

 しかし杏の疑問はもっともな話で、のっぺりとしたトランクの表面には、ロックを解除するための金具やスイッチのようなものがどこにも見あたらなかった。かぎあなや、さんけたの数字がグルグル回るダイヤルなんかもない。


「開閉するためのリモコンかなにかがあるんじゃねえの?」


 無責任な口調で樋口が言う。杏があきれたように笑い声を上げ、


「そんなカバンなんて聞いたことないよ。ばくだんじゃあるまいし──」


 ちゆうでその笑い声が小さくかすれた。

 そういえば以前ニュースでやっていた。かくこうげきで本当に恐いのはミサイル攻撃なんかじゃなくて、スーツケースほどのサイズの戦術核をテロリストが国内に持ちこむことだとかなんとか。


「…………」


 白々としたちんもくが流れて、だれもがしきにトランクから視線を外した。

 僕はちらりとみさを見上げた。ゆうれいである彼女なら、密閉されたトランクの中をちょっとのぞきこむくらいかんたんにできるのではないかと思ったのだ。


『だめ』


 しかし操緒はふるふると首を振る。どうやら操緒でも、このトランクの中には入れないようになっているらしい。それとも中がくらで、のぞきこんでもなにも見えなかったのか。

 僕は深くため息をついた。


「今度、兄貴から電話があったら聞いておくよ。なにが入ってるのか」


 いつになるかわからないけどね、とは言わなかった。

 中身がなまものでなければいいけど、と思う。南米あたりの特産品のフルーツとか。腐ってしまうときつそうだ。あとは使用済みの兄貴の着替えとか。ある意味、それは核爆弾よりもイヤかもしれない。

 いつまでもなぞのトランクを眺めているのがゆううつになって、僕は再びそれをリビングから運びだすことにした。物置がわりに使う予定の北向きの部屋に運びこみ、役目を終えた引っ越し用段ボールのとなりに立てかける。

 そのとき間延びしたドアチャイムが鳴った。三軒目の新聞屋。

 物置部屋のドアを閉めると、その風圧でたたんであった段ボールが一個転がり落ちた。


「みかん」と書かれたそのはこがトランクをおおかくし、僕はそのことにさえも気づかないまま、玄関へと向かった。窓の外はすでに暗い。春休み最後の一日が、間もなく終わりをげようとしている。しかし今の僕は、自分の平凡な人生の最後の一日が終わろうとしているのだとは夢にも思っていない。今はまだ。

 けれどたいかくじつに動き始めていた。