ええっ。トランクを握る僕の指先が震えた。するとやはりこれって盗品なのだろうか。
愕然として彼女の顔を見つめ返す。
かすかな違和感。
目線が合わない。
赤いセルフレームの眼鏡の下の瞳は、僕の肩ごしに天井のほうを見上げている。
その先にいるのは──
『智春、この人──』
操緒が声を震わせた。黒ずくめの女の視線は、迷いなく真っ直ぐに操緒のほうへと向けられていた。僕以外の誰にも見えないはずの操緒へと。
「それは最初からあなたたちのものよ」
きっぱりと宣言して、彼女は僕たちに背中を向けた。コートの裾が魔女のマントのようにふわりと翻った。僕と操緒は、呆然と彼女の後ろ姿を見送った。
あとには銀色のトランクだけが残された。
*
「ねえっ、今の人なんだったのっ?」
リビングに戻ってきた僕に、ソファの上に正座した杏が訊いてきた。
興味津々といった感じで、くりくり動く瞳はいつもと同じ。ただどことなく不安そうな表情を浮かべている。
「すげえ美人だったな。何者だ、あれ?」
同じく樋口も、欲望に目をぎらつかせながら訊いてくる。部屋からのぞいていたらしい。
「ねえねえっ、その荷物どうしたのっ。中身なに?」
「開けてみようぜ。べつにいいんだろ?」
矢継ぎ早に飛んでくる二人の質問を、僕はぼんやりと聞き流した。自分がなにひとつ答えられないことに気づいて、少しショックを受ける。そういえば彼女の名前を訊くのも忘れていた。兄貴の知り合いだという話は本当だろうか。
兄貴の知り合い。嫌な響きだ、と僕は暗い気持ちで思い出す。
中学生になったばかりのころ愚かにも、直貴に操緒のことを話してしまったことがある。
翌日、直貴は臨床心理学専攻の学生だという女子大生を三人ばかり連れてきた。彼女たちは僕を素っ裸にひん剝いたあげくに、改造手術に使うみたいなベッドに縛りつけ、全身の穴という穴に金属の器具を突っこんで電気を流しながら、全部「いいえ」で答えなければならない質問を五百個くらい訊いていた。僕はそれから半年くらい重度の女性恐怖症に陥った。
さらにその翌年、僕がイジメに遭ったと聞いて直貴が連れてきたのは、名も知れぬ怪しげな武術の達人だというおっさんだった。初伝とやらを習っている最中に十メートルほどぶっ飛ばされて、僕はそのあと三日間くらいの記憶がない。
とにかく昔から直貴の知り合いだと名乗る人物と出会って、僕がいい目を見たことは一度もないのだった。
杏たちに急かされて、僕はクソ重いトランクをリビングの床に投げだした。
見れば見るほど怪しげなトランクだ。アポロ11号が月の石を持って帰るときに使ったやつに似ている。でも見た目がもっとゴテゴテしている。
「細菌兵器とか入ってんじゃねえだろうな?」
冗談めかした口調で樋口が言うが、僕にはまったく笑えなかった。
いちおうトランクには放射線だのバイオハザードだのの記号は入ってないようだが、それだけで安心してもいいものかどうか。たった今、乱暴に投げ落としてしまったことが悔やまれる。
「ねえ、これってどうやって開けるの?」
ばんばん、とトランクを叩きながら杏が訊く。
そんな手荒に扱わないほうがいいと思うのだが、それを口にしてしまうと悪い予感が現実になってしまいそうで、僕はなにも言えなかった。
しかし杏の疑問はもっともな話で、のっぺりとしたトランクの表面には、ロックを解除するための金具やスイッチのようなものがどこにも見あたらなかった。鍵穴や、三桁の数字がグルグル回るダイヤルなんかもない。
「開閉するためのリモコンかなにかがあるんじゃねえの?」
無責任な口調で樋口が言う。杏が呆れたように笑い声を上げ、
「そんなカバンなんて聞いたことないよ。爆弾じゃあるまいし──」
途中でその笑い声が小さくかすれた。
そういえば以前ニュースでやっていた。核攻撃で本当に恐いのはミサイル攻撃なんかじゃなくて、スーツケースほどのサイズの戦術核をテロリストが国内に持ちこむことだとかなんとか。
「…………」
白々とした沈黙が流れて、誰もが無意識にトランクから視線を外した。
僕はちらりと操緒を見上げた。幽霊である彼女なら、密閉されたトランクの中をちょっとのぞきこむくらい簡単にできるのではないかと思ったのだ。
『だめ』
しかし操緒はふるふると首を振る。どうやら操緒でも、このトランクの中には入れないようになっているらしい。それとも中が真っ暗で、のぞきこんでもなにも見えなかったのか。
僕は深くため息をついた。
「今度、兄貴から電話があったら聞いておくよ。なにが入ってるのか」
いつになるかわからないけどね、とは言わなかった。
中身が生ものでなければいいけど、と思う。南米あたりの特産品のフルーツとか。腐ってしまうときつそうだ。あとは使用済みの兄貴の着替えとか。ある意味、それは核爆弾よりもイヤかもしれない。
いつまでも謎のトランクを眺めているのが憂鬱になって、僕は再びそれをリビングから運びだすことにした。物置がわりに使う予定の北向きの部屋に運びこみ、役目を終えた引っ越し用段ボールの隣に立てかける。
そのとき間延びしたドアチャイムが鳴った。三軒目の新聞屋。
物置部屋のドアを閉めると、その風圧で畳んであった段ボールが一個転がり落ちた。
「みかん」と書かれたその箱がトランクを覆い隠し、僕はそのことにさえも気づかないまま、玄関へと向かった。窓の外はすでに暗い。春休み最後の一日が、間もなく終わりを告げようとしている。しかし今の僕は、自分の平凡な人生の最後の一日が終わろうとしているのだとは夢にも思っていない。今はまだ。
けれど事態は確実に動き始めていた。