アスラクライン

二章 ①

 時計の針が十二時を回り、日付が変わった。

 四月最初のきんよう──明け方近くになって僕はふと目を覚ました。

 窓の外はまだうすぐらい。安物のカーテン越しにしこんでくる街灯の光が、古びた部屋の中をうっすらと照らしている。

 僕のみぎどなり。ベッドの上空三十センチほどの空間に横たわり、みさは安らかな寝息を立てていた。操緒が持っている数少ないゆうれいらしい能力のひとつが自由に姿を消すことで、僕が彼女の寝顔を目にするかいはあまり多くない。それでも、たまに操緒の気がゆるんだときなどには、こんなふうに無防備な寝姿をさらすことがある。

 眠っているときの操緒は、たいてい布を巻きつけただけのような白くて薄っぺらい服を着ている。今もそうだ。どうやらそれが彼女の本来の姿デフオルトらしい。

 操緒が呼吸するたびに柔らかなきよくせんを描く胸がふくらみ、あらわになったはいきんけんこうこつが角度を変える。胎児のように背中を丸めて眠っているので、脚の付け根あたりまで白いふとももき出しになっており、ものすごくエロい。

 眠れない。

 やみの中でぼんやりと光るアナログ時計の針は、三時半をさしている。くさも眠るうしつ時。どうしてこんな時間に目が覚めてしまったのだろうとに思う。

 ミシ、とてんじようのあたりで音がした。

 とにかく古い建物なので、ちょっとした湿度や気温の変化で木材がきしむのだ。それはわかっているのだが、れていないのでけっこう怖い。まるでだれかの足音みたいだ。


『ん……』


 みさが息を吐いてふわりと寝返りを打つ。くっきりしたこつと胸の谷間が、僕の視界に飛びこんでくる。うすっぺらい布ごしに彼女の身体からだりんかくが浮かび上がっている。その下にはなにも身につけてないのではないかと思う。

 こんなんで眠れるわけがない。

 トイレに行くことにした。

 昨夜ゆうべ届いたばかりの新品の布団からい出して、僕はそっと廊下に出た。

 僕が自分の部屋として使っているのは、東南に面した二階の角部屋で、屋根裏部屋っぽい雰囲気が気に入っている。なんをいえばトイレが遠いことだ。眠い眼をこすりながら傾斜のきつい階段を降りていく。

 四月とはいえ夜はまだ寒い。開けっ放しのリビングのドアから夜明け前の月光がしこんで、冷え冷えとした廊下を照らしている。

 そのぎんいろの淡い光の中を、見知らぬ何者かのかげが音もなく横切った。


「……え?」


 声帯が間の抜けた声を吐き出すよりも先に、僕は勢いよくかべに叩きつけられていた。

 声が出ない。身体も動かせない。これってかなしばりなのかな、と寝ぼけた頭でぼんやり考える。

 ゆうれいかれているわりには僕には霊感などじんもなく、金縛りをたいけんするのも実は初めてだったのだが、まさかこれほど強烈なものだとは思ってもみなかった。

 息ができないし、壁にぶつけた後頭部も痛い。しかしこれは間違いなく金縛りだ。

 そのしように僕の目の前には、若い女の幽霊が立っている。

 操緒に少し雰囲気が似ている。

 そのせいかあまり怖くない。

 だが操緒ではない。別人だ。操緒がこんな怖ろしいひとみで僕をにらみつけるはずがない。

 闇の中に浮かぶ幽霊の瞳は、左右で色が違っていた。しつこくと、翠緑玉エメラルドの底のようなみどり。闇の中でなければ気づかないほどのわずかな差だが、はっきり普通とは異なっている。

 やはり人間ではないのだなあ、と妙になつとくする。

 それにしても──さすがにものだけあって、でたらめにれいな幽霊だ。操緒はどちらかといえばバタくさい感じの美少女なのだが、こちらは純和風だ。鼻筋がすっきりと通って、まつが長くて和服を着ている。白衣にばかまはつもうでのときに神社で見かけるさんのような──

 巫女しようぞく

 なんだか、ものすごい違和感がある。

 なにゆえ洋館に巫女さんのゆうれいが出てくるのだ。

 忘れかけていた恐怖が、じわり、と僕の背中をい上ってくるのを感じた。

 たしかにめいおうていは古い洋館なので、幽霊が出てもではない。その手の雑誌に紹介されたこともあるらしい。桜の木の根本には死体が埋まっているのかもしれないし、秘密の地下室にはかいぶつが飼われているのかもしれない。だがしかし、巫女装束はどう考えても場違いだろう。


「……アスラ・マキーナは……どこ?」


 その巫女姿の幽霊が、ぐい、と僕をかべに押しつけながらいてきた。

 なにを言われたのかわからなかった。アスラマキーナ。初めて耳にする言葉だ。どこかの土地の名物料理だろうか。キーマカレーとかサータアンダギーとかそんな感じの。

 それよりもおどろいたのは、彼女の腕から伝わってくる強烈な圧迫感だった。

 巫女もどきの細い指先が、信じられないほどの力で僕ののどもとめ上げている。あまりの握力で、身動きがとれない。かなしばりだと勘違いしたのもそのせいだ。

 腕。握力。

 さんけつ気味の大脳皮質の表面に、ちかちかとけいこく信号がともる。

 僕の身体からだに彼女の腕が触れている。

 彼女は実体だ。

 幽霊では、ない。


「う、うわあああっ!?」


 僕はなさけない悲鳴を上げた。寝ぼけていたしきが一気にかくせいした。話が違う。僕がれているのは幽霊であって、そのほかのもの一般には免疫がないのだ。

 みさ以外のものに出会うのは初めてだったし、そんなものにそうぐうしているという現実が、そもそも信じられなかった。もうまったくワケがわからない。完全なパニックじようたいだ。


「イクストラクタを渡してください……あれは危険な存在です。危ないから持ってたらダメです」


 なにを言われているのかさっぱり理解できなかった。

 無数の疑問だけが頭の中をぐるぐると渦巻いている。この女は何者なのか。どこから入ってきたのか。なんでこんなかつこうをしているのか。目的は──……

 考えているうちに意識がうすれて目の前が暗くなってきた。酸素が足りない。僕の脚から力が抜ける。


「ああっ……あー……」


 ぶっ倒れそうになった僕にようやく気づいて、もどきがあわてて左腕をはなした。

 僕の全身をからめとっていた圧迫感が、ふわり、と音もなく消滅した。とっさに僕は逃げようとしたが、脚がもつれて歩けない。

 そのままうつ伏せに倒れそうになった僕を、巫女もどきが抱き止めた。

 ほおに柔らかな感触が伝わってきた。

 服装のせいでまったく目立たなかったが、この女、はんじゃなく胸がでかい。ほっそりして見えたのに。しかし残念ながら今の僕にその感触を楽しむ余裕はなかった。むしろ余計に窒息してしまいそうだ。そして彼女のほうは、まさか僕がそんな形できゆうおちいっているとは気づいていない。


「アスラ・マキーナは……どこですか?」


 まだ言うか。

 僕よりも体温が低いのか、彼女の身体からだはひんやりとしていて、それでもじわじわと心地ここちよいぬくもりが伝わってくる。彼女の髪は、も言われぬいいにおいがした。さんけつのせいで頭の回転がにぶっている。もしかしたら、自分は夢を見ているのかもしれないと思う。真夜中に巫女しようぞくの美少女が突然やってきて彼女の胸に顔を埋めて窒息なんて、あまりにもごうがよすぎる。いかにも思春期の男子が見そうな夢だ。

 このまま眠りについたら、さぞ気持ちいいだろうと思う反面、非常にまずいという気もする。

 明日あしたの朝、みさにバレれないうちに起きだして、一人でこっそりパンツを洗わなければいけなくなりそうな──