アスラクライン

二章 ②

『──!』


 操緒の叫び声が聞こえてきた。

 朝礼中の居眠りを体育教師にたたき起こされたときのように、僕はいつしゆんで正気に戻った。

 巫女もどきの腕を振りほどいて、びすさる。

 彼女は僕を追わなかった。

 廊下のてんじようをすり抜けて、操緒がふわりとい降りてくる。巫女もどきはその光景を、信じられないというふうに表情を凍りつかせて見つめていた。

 黒とみどりそうぼうが、きようがくに見開かれてれている。


「あ……ああ──っ!? しやえいたい……!?」


 声を裏返らせて巫女もどきが叫んだ。


『え!? なに? だれ!?』


 彼女の過剰な反応に、操緒のほうがびっくりしていた。

 これまで、操緒を見ておどろいた人間は誰もいなかったのだ。そもそも僕以外に操緒が見える人間がいなかった。昨夜ゆうべの黒ずくめ女に次いで二人目だ。

 操緒が困ったような顔で僕のほうを振り返る。しかし、そんなふうに見られても困るのだ。

 もどきの女も僕を見ていた。しかもなぜか今にも泣きだしそうな顔をしている。こんなれいな子に、そんな顔をされたのはもちろん初めてのたいけんで、いくら相手がものとはいえ、それだけで僕はショックを受けた。

 無限とも思えるほど長いいつしゆんが過ぎた。

 ばっ、と巫女しようぞくそでで空気をたたいて、女が身体からだひるがえした。

 床板を踏み鳴らしてリビングに飛びこむと、彼女は閉めきった窓に向かって突進した。そして窓ガラスにげきとつすると思われたせつにも白い左手をいつせんする。

 彼女の指先から伸びたつめが、うすやみの中にしんの軌跡を描いた。

 次の瞬間。


「うわっ!?」


 突然の閃光とばくおんに、僕は頭を抱えてうずくまった。びっくりした。

 地鳴りのようなしんどうめいおうていのボロい建物がきしむ。きこんできた生暖かい風が、寝乱れた僕の前髪をらした。ひび割れたかべしつくいが、ぱらぱらと廊下にもる。


『なに……今の?』


 やがて震動が収まったころ、みさが目を丸くしていてきた。

 僕はだまって首を振った。

 リビングの窓ガラスがすっぽりと消滅し、うっすら白み始めた明け方の空と、い散る桜がよく見えた。巫女もどきの姿は消えている。

 僕はずるずると床に座りこんで、けほ、と軽くきこんだ。彼女の腕に押さえつけられていた場所が、うっすらと赤く、細い指の形にねつを持っている。

 夢ではなかった。

 鼻の奥には彼女の髪の甘いかおりが、耳の奥には彼女の声が、今も残っているような気がした。

 アスラ・マキーナ。イクストラクタ。しやえいたい


『ねえ、、なんで今の子と抱き合ってたの?』


 操緒の声が、僕の頭の中に小さくひびいてくる。

 やっぱりあれは抱き合っているように見えたんだな、と僕は思った。もう少しで窒息させられるところだったんだ、とはやはり言えなかった。言っても信じてもらえそうになかったし、よけいに操緒を怒らせてしまいそうだ。微妙に貧乳気味なことを、操緒はけっこう気にしているのだ。べつにいいのに。ゆうれいなのに。

 どうやってそうかと僕が悩んでいると、操緒がからかうような調ちようで訊いてきた。


『──気持ちよかった?』


 しかし口調とは裏腹に、操緒の目つきはげんそうに細められており、ねたようなぐさで僕の背中をつついている。

 僕は、だまってため息をついた。


    *


 兄が残していった自転車は、放置されていた二年足らずの間に、えんさんにでもぶちこんだのかと疑いたくなるほど完全にびきっており、おかげで僕は、予定より三十分も早く家を出て遅刻ギリギリに学校に着くという、出遅れ感いっぱいの新学期を迎えるになった。

 学校の名前は、らく高校という。

 ラ・クロアというのはフランス語で十字架を指すのだそうで、だからといって無理に学校名を漢字に直す必要があったとは思えないのだが、とにかくミッション系の共学校である。

 それほど大きな学校ではない。学区内ではいちおう進学校だといわれているが、じゆけんどうに特別ねつを入れているようもない。ミッション系とはいうものの聖書朗読の授業があるわけでもなく、まあ普通の高校である。いていえば教会が援助してくれているので、私立のわりには学費が安いということと、制服のあちこちに十字架の紋章がいこまれていることくらいか。下校中に吸血鬼におそわれるようなかいがあれば、きっと役に立つと思われる。

 僕のせいせきでは偏差値がぎりぎりだったので、受験のときにはけっこう苦労した。合格発表のあとで報告に行ったら、よかったなあ、と中学時代の担任が涙を浮かべていたくらいなので、実はそうとう危なかったのだと思う。

 そんな苦労をしてまで洛高にこだわったのは、ここが兄貴の出身校だからである。

 兄貴と同じ大学に入るのは僕の頭では間違いなく不可能で、僕もそれについてはすっぱりあきらめているのだが、なにしろ田舎いなかの小さな町なので、高校まで格下だとご近所がうるさい。

 アホな弟と呼ばれてバカにされるくらいならまだマシで、バイト先を訪れた見知らぬ客から「気を落とさずにがんばれよ」などといわれつつ、パチンコの景品のチョコをもらったりした日には、いくら僕でもへこむのだ。


『んー、被害もうそうだと思うけど……でも、よかったよね。制服、可愛かわいいし』


 いかめしい鉄製の校門をくぐりながら、みさが言う。

 の彼女は、真新しい洛芦和高校の制服に身を包んでいる。僕と二人で歩いている姿をだれかが見たら、仲のいい高校生カップルだと思うだろう。しょせん片割れはゆうれいで、誰にも見えはしないのだが。

 入学式の朝に幽霊と登校。さすがに少し気が滅入る。どうせこれからしばらくは、幽霊きのうわさを聞きつけたせんぱいやよその中学の出身者にきよう本位で声をかけられることになるのだろう。幸いというかなんというか、操緒はそういうのをまったく気にしない。むしろちょっとぐらい気にして欲しい。

 洛高の女子の制服は、植民地時代の修道女だか聖歌隊だかのしようをイメージして作られているらしく、レトロでゴス調ちような雰囲気がなかなか操緒に似合っている。とはいえ、こんなスカートの短い修道女がいるとも思えないが。


みさ、その制服どうしたの?」


 どこから持ってきたのか、というか。どういう仕組みになっているのだろう。操緒はいつも流行の可愛かわいらしい服を着ているし、髪型だって服に合わせて変わる。これまではあまり気にしてなかったのだが、考えてみるとけっこうだ。

 操緒は、ふふ、と少し得意げに微笑ほほえみ、


『ないしょ』


 と言った。まあゆうれいだしべつにいいけど、と昨日きのうまでは深く考えることもなかったのだが、は妙にそんなさいなことが気になった。

 操緒のことが見える(らしい)、あの変なかつこうの女たちのことを思いだす。

 今朝のもどきは、操緒のことを「しやえいたい」とか呼んでいたか。そんな言葉は知らないと操緒は言っていたけれど。


「──おはよっ、!」


 ループに入りかけていた僕の思考を断ち切ったのは、朝っぱらからやけにテンションの高い女子の声だった。あんだ。僕を見つけて、わざわざ校舎の中から走ってきたらしい。


「遅いよ、。クラス分け、見てないでしょ? 七組だよ。あたしといつしよ