『──智春!』
操緒の叫び声が聞こえてきた。
朝礼中の居眠りを体育教師に叩き起こされたときのように、僕は一瞬で正気に戻った。
巫女もどきの腕を振りほどいて、跳びすさる。
彼女は僕を追わなかった。
廊下の天井をすり抜けて、操緒がふわりと舞い降りてくる。巫女もどきはその光景を、信じられないというふうに表情を凍りつかせて見つめていた。
黒と緑の双眸が、驚愕に見開かれて揺れている。
「あ……ああ──っ!? 射影体……!?」
声を裏返らせて巫女もどきが叫んだ。
『え!? なに? 誰!?』
彼女の過剰な反応に、操緒のほうがびっくりしていた。
これまで、操緒を見て驚いた人間は誰もいなかったのだ。そもそも僕以外に操緒が見える人間がいなかった。昨夜の黒ずくめ女に次いで二人目だ。
操緒が困ったような顔で僕のほうを振り返る。しかし、そんなふうに見られても困るのだ。
巫女もどきの女も僕を見ていた。しかもなぜか今にも泣きだしそうな顔をしている。こんな綺麗な子に、そんな顔をされたのはもちろん初めての体験で、いくら相手が化け物とはいえ、それだけで僕はショックを受けた。
無限とも思えるほど長い一瞬が過ぎた。
ばっ、と巫女装束の袖で空気を叩いて、女が身体を翻した。
床板を踏み鳴らしてリビングに飛びこむと、彼女は閉めきった窓に向かって突進した。そして窓ガラスに激突すると思われた刹那、夜目にも白い左手を一閃する。
彼女の指先から伸びた爪が、薄闇の中に真紅の軌跡を描いた。
次の瞬間。
「うわっ!?」
突然の閃光と爆音に、僕は頭を抱えてうずくまった。びっくりした。
地鳴りのような震動で鳴桜邸のボロい建物が軋む。吹きこんできた生暖かい風が、寝乱れた僕の前髪を揺らした。ひび割れた壁の漆喰が、ぱらぱらと廊下に降り積もる。
『なに……今の?』
やがて震動が収まったころ、操緒が目を丸くして訊いてきた。
僕は黙って首を振った。
リビングの窓ガラスがすっぽりと消滅し、うっすら白み始めた明け方の空と、舞い散る桜がよく見えた。巫女もどきの姿は消えている。
僕はずるずると床に座りこんで、けほ、と軽く咳きこんだ。彼女の腕に押さえつけられていた場所が、うっすらと赤く、細い指の形に熱を持っている。
夢ではなかった。
鼻の奥には彼女の髪の甘い香りが、耳の奥には彼女の声が、今も残っているような気がした。
アスラ・マキーナ。イクストラクタ。射影体。
『ねえ、智春、なんで今の子と抱き合ってたの?』
操緒の声が、僕の頭の中に小さく響いてくる。
やっぱりあれは抱き合っているように見えたんだな、と僕は思った。もう少しで窒息させられるところだったんだ、とはやはり言えなかった。言っても信じてもらえそうになかったし、よけいに操緒を怒らせてしまいそうだ。微妙に貧乳気味なことを、操緒はけっこう気にしているのだ。べつにいいのに。幽霊なのに。
どうやって誤魔化そうかと僕が悩んでいると、操緒がからかうような口調で訊いてきた。
『──気持ちよかった?』
しかし口調とは裏腹に、操緒の目つきは不機嫌そうに細められており、拗ねたような仕草で僕の背中をつついている。
僕は、黙ってため息をついた。
*
兄が残していった自転車は、放置されていた二年足らずの間に、塩酸にでもぶちこんだのかと疑いたくなるほど完全に錆びきっており、おかげで僕は、予定より三十分も早く家を出て遅刻ギリギリに学校に着くという、出遅れ感いっぱいの新学期を迎える羽目になった。
学校の名前は、洛芦和高校という。
ラ・クロアというのはフランス語で十字架を指すのだそうで、だからといって無理に学校名を漢字に直す必要があったとは思えないのだが、とにかくミッション系の共学校である。
それほど大きな学校ではない。学区内ではいちおう進学校だといわれているが、受験指導に特別熱を入れている様子もない。ミッション系とはいうものの聖書朗読の授業があるわけでもなく、まあ普通の高校である。強いていえば教会が援助してくれているので、私立のわりには学費が安いということと、制服のあちこちに十字架の紋章が縫いこまれていることくらいか。下校中に吸血鬼に襲われるような機会があれば、きっと役に立つと思われる。
僕の成績では偏差値がぎりぎりだったので、受験のときにはけっこう苦労した。合格発表のあとで報告に行ったら、よかったなあ、と中学時代の担任が涙を浮かべていたくらいなので、実はそうとう危なかったのだと思う。
そんな苦労をしてまで洛高にこだわったのは、ここが兄貴の出身校だからである。
兄貴と同じ大学に入るのは僕の頭では間違いなく不可能で、僕もそれについてはすっぱり諦めているのだが、なにしろ田舎の小さな町なので、高校まで格下だとご近所がうるさい。
アホな弟と呼ばれてバカにされるくらいならまだマシで、バイト先を訪れた見知らぬ客から「気を落とさずにがんばれよ」などといわれつつ、パチンコの景品のチョコをもらったりした日には、いくら僕でもへこむのだ。
『んー、被害妄想だと思うけど……でも、よかったよね。制服、可愛いし』
厳めしい鉄製の校門をくぐりながら、操緒が言う。
今朝の彼女は、真新しい洛芦和高校の制服に身を包んでいる。僕と二人で歩いている姿を誰かが見たら、仲のいい高校生カップルだと思うだろう。しょせん片割れは幽霊で、誰にも見えはしないのだが。
入学式の朝に幽霊と登校。さすがに少し気が滅入る。どうせこれからしばらくは、幽霊憑きの噂を聞きつけた先輩やよその中学の出身者に興味本位で声をかけられることになるのだろう。幸いというかなんというか、操緒はそういうのをまったく気にしない。むしろちょっとぐらい気にして欲しい。
洛高の女子の制服は、植民地時代の修道女だか聖歌隊だかの衣装をイメージして作られているらしく、レトロでゴス調な雰囲気がなかなか操緒に似合っている。とはいえ、こんなスカートの短い修道女がいるとも思えないが。
「操緒、その制服どうしたの?」
どこから持ってきたのか、というか。どういう仕組みになっているのだろう。操緒はいつも流行の可愛らしい服を着ているし、髪型だって服に合わせて変わる。これまではあまり気にしてなかったのだが、考えてみるとけっこう不思議だ。
操緒は、ふふ、と少し得意げに微笑み、
『ないしょ』
と言った。まあ幽霊だしべつにいいけど、と昨日までは深く考えることもなかったのだが、今朝は妙にそんな些細なことが気になった。
操緒のことが見える(らしい)、あの変な恰好の女たちのことを思いだす。
今朝の巫女もどきは、操緒のことを「射影体」とか呼んでいたか。そんな言葉は知らないと操緒は言っていたけれど。
「──おはよっ、智春!」
ループに入りかけていた僕の思考を断ち切ったのは、朝っぱらからやけにテンションの高い女子の声だった。杏だ。僕を見つけて、わざわざ校舎の中から走ってきたらしい。
「遅いよ、智春。クラス分け、見てないでしょ? 七組だよ。あたしと一緒」