いかにもすごい偶然みたいな口調で杏は言うが、彼女と僕は芸術などの選択科目がまったく同じなので、一緒のクラスになるのもイカサマ賭博ぐらいの必然でしかない。
「なんか元気ないねえ?」
リアクションの薄い僕の顔を、杏が不満そうにのぞきこむ。
「寝不足なんだよ。杏は元気だな」
「べつに普通だけど。寝不足ってどうしてっ? やっぱりなんか出たの、あのお屋敷?」
しょせん他人事だと思って、ものすごくうれしそうな顔で杏が訊いてくる。しかし彼女も、まさか僕が本当に、謎の巫女もどき女に殺されかけたとは想像していまい。
あまりにも荒唐無稽な出来事だったので、実は警察にもまだ届けていないのだ。被害らしい被害といえるのは窓ガラスが一枚きりで、なにも盗られていなかったということもあるのだが。
「じゃあ、友達を待たせてるから行くねっ。またあとで教室で」
杏は一方的にそう告げると、再び校舎へと駆け戻っていった。
『可愛いね、杏ちゃん』
操緒が微笑しながら言う。たしかに人懐こい小動物みたいではある。
洛高の特徴といえば植木だの芝生だのの緑がやたらに多いことで、新入生の僕には、校舎の位置関係が今ひとつわかりづらい。本当なら、校内のどこかに張りだされているというクラス分けの表を確認しておきたかったのだが、登校してくる新入生や父兄の集団にまぎれているうちに、いつの間にか昇降口までたどり着いていた。
仕方なくもそもそと靴を履き替えていると、背後からいきなり首を絞められた。
「智春!」
樋口だった。黙っていればそれなりにハンサムな顔に品のないニヤニヤ笑いを浮かべ、
「喜べ。また同じクラスだ」
もちろんこの男も選択科目が同じである。二人してなるべく楽そうな科目を選んでいったら、完全に被ってしまったのだ。
「佐伯や嵩月もいるぞ。あと大原のやつも」
「え……誰?」
僕は困惑して訊き返した。杏が一緒なのはわかっているが。
「佐伯玲子だよ。中二のときに同じクラスだったろ。去年、文化祭のミスコンで優勝した──」
知っている。樋口が過去に三回ぐらいアタックして、まったく相手にされなかった子だ。
「そうじゃなくて、もう一人の」
「ああ、嵩月か。北中出身のやつだよ。嵩月奏。こいつもすげぇ美人だぞ」
「……なんで北中の子を知ってるのさ?」
僕が訊くと、樋口は自慢げに唇を吊り上げ、
「情報網があるんだよ」
「ああ。写真部の……」
「おう」
納得がいった。
オカルト以外の樋口の唯一の趣味は写真撮影で、将来はプロのカメラマンになると豪語している。たまに写真雑誌のコンテストにも入選しているので、それなりに実力もあるのだろう。
意外なことに樋口が撮るのは主に都市の景観などで、女の子の写真は撮らない。樋口なりに、そのあたりはこだわりがあるらしい。しかし樋口の写真仲間には、女の子の隠し撮りを専門にしているやつらもいて、機材の貸し借りなどでそういう連中とも付き合いがあるという。
「でな──見ろよ。とっておきの情報だぜ」
そう言って、樋口は制服の内ポケットから一枚の写真を取りだした。
下校途中らしい女子高生が映っている。背景に映っているのはバス停だろう。季節はたぶん去年の秋ごろ。被写体の少女は洛芦和高校の制服を着ている。
『智春──この人!』
写真をのぞきこんでいた操緒が、声を高くして叫んだ。
「あ!」
僕も驚いた。少女の顔に見覚えがある。
モデルみたいな長身。肩のあたりで潔く切り落とした黒髪。整ったシャープな目鼻立ち。
昨夜、僕にトランクを持ってきた黒ずくめのお姉さんだ。眼鏡はかけていないが、間違いない。
「あんだけの美人だからな。訊いたら絶対に知ってるヤツがいると思ったんだよ。調べてみて正解だっただろ」
樋口が偉そうに胸を張る。しかし威張るだけのことはあった。たしかにすごい情報だ。もう二度と会えないかもしれないと思っていたのに。
「うちの学校の人だったんだ……まだいるのかな?」
「ああ。去年の新入生だっていうから、一コ上だな。今は二年にいるはずだ」
『……高校生だったんだね』
操緒が驚いたように言う。昨日会ったときは、もっと大人びて見えたのに。しかしこうして制服を着ていると、ちゃんと高校生に見えるから不思議だ。
「名前は黒崎朱浬。家は綾島のほうらしい。それ以上のことはよくわからんかった。悪いな」
「いや。すごいよ樋口」
僕は素直に礼を言った。
これは大きな手掛かりだ。いつになるかわからない兄の連絡を待つよりは、彼女に直接会ったほうが、間違いなく有益な情報が手に入る。あの銀色のトランクの中身や、兄貴と彼女の関係。それに操緒のこと。もし本当に彼女にも操緒が見えるのなら、訊きたいことがたくさんある。
「入学式が終わったら、二年の教室を回ってみようぜ。おまえなら話しかけても不自然じゃないだろ。あんな美人とお近づきになるチャンスはそうそうないからな」
樋口が真面目くさった顔で言う。
「え? 樋口も来るの?」
「あたりまえだ。なんのためにわざわざ写真までもらってきたと思ってるんだよ!?」
なんだ。結局それが目的か、とは思ったが、まあいいだろう。樋口がめずらしく役に立った事実に変わりはない。
その樋口が、ふと真面目な表情を浮かべて小声で囁いた。
「あとな、智春。気をつけろ」
「え?」
意味がわからない。
「気をつけるって、なにに?」
「わからん」
樋口も首を振る。そして僕の手から、すっと写真を奪い返しながら彼は続けた。
「この写真をくれたやつに、そう忠告されたんだよ。気をつけろ。深入りするなってな」
はあ。
なんだそりゃ。
僕は操緒と顔を見合わせ、二人で首を傾げる。
写真の中の黒崎朱浬は、なにも答えず、僕たちを優雅な微笑みで見つめている。
*
栄えある高校の入学式を、僕はほとんど寝て過ごした。壇上から、ごっつい顔の女性教師が睨んでいるのは気になったが、なにしろ眠い。化け物に襲われた直後に熟睡できるほどの図太い神経の持ち合わせはなかったので、今朝はあれから寝ていないのだ。
操緒もやはり寝不足だったのか、校長の退屈な訓辞が始まると同時に姿を消して昼寝を始めてしまった。幽霊のくせに寝不足というのも考えてみれば奇妙な話だが。しかしちょっとうらやましい。
校長と理事長とPTA役員と地元の議員とあと何人かの知らないおっさんの長い挨拶が終わっても、僕はまだ寝ぼけていた。途中、生徒会長と名乗る人間が三人くらい出てきたような気がしたが、夢を見ていたのかもしれない。
さすがにミッション系の学校だけあって、入学式の途中で賛美歌が流れたりする。小学生のころにお呼ばれした親戚の結婚式みたいだと思う。賛美歌を歌っている聖歌隊の上級生は、なかなかの美人揃いだったが、その中に黒崎朱浬はいなかった。
入学式が終わって、生徒たちはぞろぞろと教室に移動する。
その途中、樋口がトイレに行こうと言いだした。