好きだった子をメイドにしたら、俺の部屋でこっそりナニかしている

1 プロローグ

 ただそこにいるだけで、空気を変えてしまう人間が存在する。

 私立そうしゅうかん学院――

 その高等部に通う一年生、さかはまさにそういう人間だ。


「どうかしたの?」

「いや、別に」


 ある日の休み時間。

 教室の窓際の列、一番前の席に俺、その隣に氷坂。

 高等部進学と同時に定められた席順だ。

 普通なら五十音順に並ぶところだが、総秀館は普通の学校ではない。

 総秀館は良家の子女ばかりが通う学校で、昔は家同士が対立したり時には殺し合いまでして、強い因縁があったりもする。

 席順一つ取っても、学校側になんらかの意図があって決められる。

 俺と氷坂が隣同士にされた理由は知らないし、想像もつかないが。

 氷坂清耶香は、薄い茶色のロングヘアに、整った美貌の持ち主だ。

 黒縁のごつい眼鏡をかけているが、少しもその美貌を損なっていない。

 つい目を奪われ、眺めたくなってしまう。

 今のように、眺めすぎて氷坂に不審に思われることもたまにあるが。


「氷坂、ちなみになにを読んでるんだ?」

「ミステリーよ。唐突に人が殺されて、探偵が犯人を暴こうとしてるわ。容疑者に粘着して、しつこく人の秘密を白日の下に晒そうとするなんて、探偵のこの情熱はどこから来るの?」

「知らねぇよ」


 ミステリーのお約束ってヤツを深読みしてどうする。


「というか、氷坂はよく知らないミステリーを買ったのか?」

「古本屋さんで三十円で売ってたのよ」

「道理で年季の入った本だと思った」


 カバーもついてないし、紙も日焼けしていて全体にボロボロだ。

 ただ、氷坂が読んでいるとボロい古本も、希少な古書のように見えるから不思議だ。


「美人は得だよなあ……」

「え?」

「いや、なんでもない。気にしないでくれ」

「そう」


 氷坂はつぶやいて、本に目を戻す。


「美人だろうと顔を売り物にしなければ、七百円の文庫本も買えないほど困窮するのよ」

「聞こえてるんじゃねぇか。というか、困窮してるのか……?」

「私、この学校の特待生よ? 家にお金があったら申請すらできないから」

「そ、そうか」


 俺たちが通う総秀館学院は、“お金持ち学校”とも言える。

 生徒の家庭にはそれなりの経済力が要求され、学費は馬鹿みたいに高い。

 我が清宮家も大昔は京都の貴族で、今でも資産家なので高い学費も軽く払える。

 この学校は初等部から大学までのエスカレーター式で、俺も既に九年以上通っているのだが、特待生のシステムがあるとは知らなかった。


「でもまあ、氷坂は一年前に転校してきてずっと学年首席だもんな。その頭脳があれば、将来は稼げそうだな」

「すぐにお金のことに結びつけるのは上品ではないわね」

「最初に金の話を持ち出したの、氷坂じゃなかったっけ?」


 自分を棚に上げて俺をゲス野郎扱いされても困る。


「あ」

「ん? どうかしたのか?」

「ねえ、このミステリー、今後読む予定はある?」

「いや、全然。小説はあまり読まないし」


 俺が答えると、氷坂は手にしていた文庫本を差し出してきた。


「あ」


 氷坂と同じような声を漏らしてしまう。

 彼女が開いていたページには、“間野”という名前が書かれており、ピンクの蛍光ペンでマーキングされている。

 その横に赤ペンで矢印が書かれ、さらにご丁寧に“犯人!”とまで書かれている。


「これは最悪だな。まだ前半なのに」

「三十円の価値もなかったわ……返品してお金返してもらってくる」


 氷坂は立ち上がり、机の横にぶら下げていた通学バッグを持った。


「待て待て! 気持ちはわかるが、三十円でそこまでしなくても!」

「お金の問題じゃない、プライドの問題よ。私にこんなものを掴ませたからには、許さない」


 氷坂はきっぱり言うと、カバンを掴んで立ち上がった。


「ま、待てって、氷坂!」

「きゃ」

「あっ」


 しまった……!


「…………」


 普段、クールな氷坂の顔が一瞬険しくなったのを見た。

 歩き去ろうとした氷坂に手を伸ばした瞬間、つい腰に手を回してしまった。

 濃紺のブレザーでわかりにくいが、こうしてこの手で触れてみると、氷坂の腰が驚くほど細いことがわかる。

 片手で触れただけでここまではっきりわかるとは……こいつ、本当に内臓が入ってるのか?


「ちょっと、清宮が氷坂さんにセクハラしてる……」

「うわっ、あれって痴漢じゃ? 先生に通報する?」

「さすがにクズすぎだよね……」


 俺は周りの女子たちの声に、我に返って、ぱっと氷坂の腰から手を離す。

 氷坂を止めるためとはいえ、確かにとんでもないセクハラだった。


「仕方ないわ。許してあげる」

「え?」


 意外にあっさりとお許しが出たな?

 と思ったら――


「お触りしたいなら、家に帰ってからですよ」


「…………!」


 俺は、思わず椅子に座ったまま転げそうになってしまう。

 突然、氷坂が身を乗り出して俺の耳元に口を寄せてささやいてきた。

 本当に近い――息が掛かるどころか、唇がくっつくほど近かった。


「もうチャイムが鳴るわ」

「あ、ああ」


 氷坂は何事もなかったように座り直すと、机から教科書やノートを取り出した。

 このお隣さんは特待生、そして優等生だ。

 考えてみれば、学校をサボって古本屋に怒鳴り込みに行ったりするはずがない。

 俺は、氷坂清耶香のてのひらで踊らされてる。

 教室でも――そして、家でも。