がらんどうイミテーションラヴァーズ

──僕らはプールサイドの人生から飛び込む ①

 次の日。晴天。夏休み。

 オレは学校近くのバス停であやのことを待っていた。

 あやがプールの場所を知らないというので、一緒に向かうことを提案したのだ。


「…………あつい」


 ──ポタリ──ポタリ──。

 夏の日差しに当てられて溶けていく棒アイスがアスファルトにシミを作る。

 もったいないと一口に押し込むと、あのキンとくる痛みがこめかみに昇ってきた。


「────ツゥ……」


 眉間を押さえてじっと痛みが引いていくのを待つ。

 顔を上げると、遠巻きにこちらを見て笑う二人組の男子を見つけた。

 制服を着ているから同じ学校の生徒だと思う。

 部活だろうか? 休みの日までご苦労なことだ。


「炎天下で棒アイス食うのはバカだってか?」


 オレが視線を向けると、二人はさっと笑みを消してなんでもない顔を繕った。

 そしてそのまま無関心の仮面をかぶってオレの横を早足で通りすぎていく。


「…………オレのことが滑稽でおかしいなら、ちゃんと隠さず笑えばいいのに」


 そうつぶやいてすぐ、首を横に振って鬱屈とした思考を払い落とす。

 ──オレはこうろうになると決めたんだ。

 こうろうならきっとこんなことは思わない。

 彼らがこそこそ笑っていたことも、真相を隠す仮面をかぶったことも、大らかな心で許してみせるはずだ。


「──アミーゴ!」


 オレは振り返り、大きな声で二人に手を振った。

 二人はびくりと肩をすくませて、そのまま逃げるように走り去っていった。


「…………まだオレはそんなに怖い顔してるのかよ」


 ふてくされて手を下ろそうとすると、二人組の向こうから歩いてくる人影を見つけた。

 けっこう距離はあるけれど、それがあやであることはすぐにわかった。

 ダンゴムシみたいに背筋を丸めたままふらふらと向日葵ひまわり色の頭を揺らしている。

 着ている上下紺のスウェットにはまったく季節感がない。まあ、セットジャージのオレに言えたことではないが。

 オレたちの人生には「オシャレ」という概念が不足している。


「おそいぞ、あやさん!」

「寝すぎたー」


 あくび交じりに声を放るあやだったが、バスがやってきたのを見ると慌てた様子で駆けてくる。


「ったく」


 オレは先に停車したバスの中へと乗り込む。

 エアブレーキの音がして、ドアが閉まる直前であやがドタドタと駆け込んできた。


「っぶねぇー!」


 大きな息を吐いて、ドスンと。彼女はオレの隣に腰を下ろす。


「あのなあ……」


 既に何十にも及ぶとのちがいを指摘しようと、オレはあやのほうに顔を向ける。

 そして、おどろきのあまり言葉を失ってしまった。


「…………だ、だれだ? おまえ」


 あやの目の下にあったラクガキみたいな大きなクマが、キレイさっぱりなくなっていた。

 変化といえばそれだけだ。

 相変わらず髪はボサボサ。服はシワシワ。それなのに。

 目の下のクマがなくなった──たったそれだけで、見た目の印象はガラリと変わっていた。

 不健康さをきわたせていた肌の白さは美のあかしへと様変わりし、車窓の日差しはまるで彼女の容姿をたたえるようにきらめく光となっていた。


「化粧でもしてるのか?」

「仕方がわからん」

「じゃあ、あのクマはどこにいったんだよ?」

「あー。ぐっすり寝たら消えた」


 足を前に出したら歩けた、くらいあたりまえのことを言うようにあやは答える。


「不安がなくなって、ひさしぶりによく眠れた」

「不安って?」

こうろうに拒絶されたらどうしようって不安」

「……おまえ、じつはけっこう繊細なんだな」

「うるさい」


 動き出したバスが向かうほうだけを見つめながらあやは言う。


「なにをすればいいかわかるだけで、心は軽くなるもんだな」


 なにをすればいいか。他人に──ももに成り代わってしまえばいい。

 一日経って、あやの顔にもう迷いはなくなっていた。


ももめ。今に見ておけ。すぐにわたしがおまえからこうろうを奪ってやるぞ。ガハハ!」

はそんな笑い方しない」

「ああ、そうだった」


 こほんとせきばらいをひとつして、あやは目の前に手をかざす。

 そうして小さな手のひらで自分の顔を覆った。


「なにやってるんだ?」

「儀式」

「儀式?」


 手をかざし、顔を覆って、世界と自分の間に隔たりを作る──それはいかにも、仮面をかぶる仕草と似ている。


「よし」


 と、かざした手を口のところまで下ろして、丸めて。彼女はもう一度笑い直す。


「くすくす。あー、おかしいったらない」


 そうやって控えめに笑う姿は、たしかにの面影を感じさせた。

 話し方だけじゃない。まとう雰囲気というか、存在の根底ごと移り変わったように。

 あやの「がさつさ」がの「おくゆかしさ」によって見事に覆い隠されている。


「……」


 意外にも演技派らしい。

 作り物の表情なのに、不思議と本物めいている。

 ──一瞬、本気でかわいいと思ってしまった。

 昨日は気づきもしなかったけれど、あやはちゃんとすればずいぶん整った顔立ちをしている。

 素材は決して悪くない。

 悪くない素材を、彼女の生き方が台無しにしていたのだ。

 これは本当に、化けるかもしれない。


「どうしたの、そうくん? さっきからずっとわたしのことを見て」


 クマが消えて澄んだ目で、あやがオレの顔をのぞき見る。


「あー。わかったぞ。さてはわたしにれてるなー?」


 自信ありげなほほみを浮かべてあやが肩をつついてくる。

 ずいぶんと調子に乗っているようで、ムカついた。

 けれどそれをそのまま伝えてもおもしろくないと、オレは顔のまえに手をかざす。

 手をかざし、顔を覆って、世界と自分の間に隔たりを作る。



 そうして仮面をかぶり、こうろうになりきって返事をする。


「ああ。キミがあんまりキレイだから、つい」


 さわやかな笑みを浮かべながら親指を立ててあやのことを見つめ返す。

 あやはポカンと口を開けていた。

 どうだ、と鼻を鳴らしてやろうとして、オレは彼女の顔がだんだん赤くなっていることに気づく。


「…………う、うん」


 恥ずかしそうに視線を泳がせて、あやは照れていた。

 昨日、名前を呼ばれたときみたいに。また本物のこうろうをイメージしてしまったのだろう。なんとも想像力が豊かで、それ自体はいいことなのだろうけど。

 そうやって本気で照れられると、なんだかこっちまで恥ずかしくなってきて。じわじわと心拍数が上がってしまう。

 こんな会話は、ただの冗談なのに。


「…………ありがと」


 きこえるかどうかの声で、彼女はそうつぶやいた。

 オレに褒められたでも、あやの仮面をかぶればちゃんと感謝の言葉を口にできるようだった。


「どういたしまして」


 オレはオレで、軽々しくこんなセリフを言えるのはこうろうの仮面をかぶっているからだった。

 苦しいことばかりだと思っていたけれど、自分のままでいたらとても言えないようなことをこうして他人の顔を借りて口にするのは妙な感じで、すこしだけしくもあった。

 なんだか三文芝居をしているみたいで、笑えてくる。

 だからオレもあやも、いつのまにか自然と笑みをこぼしていたのだった。