ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第一幕 ②

 眼球は優れた記憶媒体だ。視覚情報のみならず、五感情報や心理情報までも、あの小さな球体にぎっしりとメモリーされている。僕はなぜか小さい頃から、目と目をすることで、それを再生することができた。まるでパソコンがドライブからデータを読み出すみたいに。

 早く救出に向かわないと……!

 接続を切ろうとすると、ふいに、視界が切り替わった。


 女の子の部屋だった。

 大きな本棚とわいらしい小物がある、きれいな部屋──


 砂嵐がんだような感じがした。眼球から読み出した光景には、ノイズが混じっているのが普通だ。しかし、いま目にしている部屋はとても──静かだった。なめらかな沈黙と、なめらかな光がそこにあった。まるで本当にその場にいるみたいに。


 女の子が、こちらを見ていた。

 マロンベージュの髪色をした、ボブカットの子だ。大きな目を不安げに、いっぱいに見開いている。ヘーゼル色というのだろうか、グリーンの混じったライトブラウンの、鉱石のような色合いのれいな瞳──。僕はぽかんと口を開け、目を奪われた。

 彼女は突然、さけんだ。


! !」


 直後、バキッ! とすさまじい音を立て、手すりが崩落した。

 隣家のれん塀を破壊し、盆栽を粉々にする。

 僕は間一髪、ベランダにしがみついていた。

 自粛生活ですっかり体がなまっていて、ぶら下がるだけでもやっとだった。じりじりと重力に引っ張られる……。歯を食いしばり、ありったけの力でどうにかよじ登った。つんいのままゼイゼイと息をする。女の子が警告してくれなかったら危ないところだった。

 ──と、ようやくおかしなことに気がついた。

 眼球が再生するのは、過去の事象だ。

 ──?

 猫は何事もなかったかのようにおなかをなめていた。心臓が猛烈に胸をたたいている。恐るおそる手を伸ばす……猫がサッと起き上がり、僕はビクッと手を引っ込めた。猫はいちべつをくれるとそのまま仕切り板をくぐって、僕の部屋の方へと消えた。


「……とにかく」


 喉がカラカラだった。とにかく、助けないと。

 なんとか立ち上がり、掃き出し窓の網戸をギシギシきしませて開ける。まるで目の粗いストッキングを脱がせたように、不気味に白い素足から、影が取り去られる……。意味もなく足音を殺して部屋に入った。まだ新鮮な血の臭いが鼻をついた。

 両手で顔を覆い、絞り出すように息を吐いた。

 どう見ても、即死だ……。

 玄関へ逃げようとしたのを、背後から頭部を撃たれ、前のめりに倒れたのだろう。

 僕と同い年くらいの女の子だ。ブラウスと、長い脚を強調するようなショートパンツを穿いている。顔は左横を向いている。美人だった。形のいい鼻と、とがった顎が、きれいなEラインを形成している。


「今ならまだ、かも……」


 僕は震える体にむちって、死体のそばに立った。そして、身をかがめ、まりを避けるようにして左頰をフローリングにつけ、目と目を合わせた。長いまつ毛に縁取られた大きな瞳が、いまは底無しの井戸だった。涙にれているが、その奥は涸れ果てている。脳天には弾丸の貫通した穴がぽっかりと穿うがたれていた。僕は吐き気をこらえた。

 人間が死ぬと、眼球に蓄えられた記憶は急速に失われていく。まるで魂が抜け出してしまうみたいに。死亡直後の今ならまだ、犯人の手がかりが得られるかもしれなかった。

 僕は瞳をのぞき込み、眼球と眼球をする。

 赤黒い死の感触とともに、記憶が流れ込んでくる。

 記憶はもうだいぶ崩壊しつつある。映像が乱れ、音声が乱れ、時間が乱れる──


 悲鳴。

 ガラスの割れる音。

 鏡に網目状に走るひびと、恐怖にゆがんだ顔。

 振り向くと拳銃──『M360J SAKURA』。

 銃口を死に物狂いで振り払い逃げ出す。

 心臓がバクバクと鳴る。

 長い髪が視界にからまる。

 強烈な痛みと、極彩色の花がさくれつする。弾丸が後頭部の視覚野を破壊して咲いたバグの花。

 おしべとめしべの位置に真っ暗な穴が空き、その明滅する花びらを一瞬のうちに吸い込み、まるで渦巻くブラックホールみたいに、やがて世界のすべてをみ込んでいく……。

 僕までもその闇に消えていくように錯覚し、悲鳴をあげた。〝死の感触〟をおぞましいほどクリアに感じた。絶対零度の冷気が魂の奥の奥まで浸食してくる。まるで凶暴な波のように寄せては返しながら、刻一刻としていく自分をバラバラに、どうしようもなくさらっていく。

 僕は接続を切ろうとするがくいかない。まるで悪夢からく目覚められないみたいに。歯を食いしばり、思い切りに力を入れる──


 僕はハッと我に返った。

 目の前に、死者の顔があった。まるでその脳天に空いた穴からしてきたような感じだった。異常な苦痛に胸をかきむしる。喉に詰まったピンポン玉を吐き出すみたいにき込み、ようやく息ができた。こんなにはっきりと〝死の瞬間〟を体験したのは初めてだった。全身が石棺のように冷たく、心臓だけ燃えている。えずいたが、胃は空だった。

 よろよろと立ち上がる。

 化粧台の鏡に銃弾が突き刺さり、ひび割れていた。

 足元に口紅が転がっている。死体の唇は、下半分だけが赤く塗られていた。

 僕はぼんやりと思考する。つまり、こういうことだろう。被害者は化粧中に背後から銃で襲われた。初撃は外れ、逃げ出した被害者を第二撃で殺害した……。

 けれど、そんなことは現場を見れば誰にでもわかる。

 結局、僕の能力は何の役にも立たなかったということだ。


 ──警察の事情聴取を終え、ようやく自分の部屋に帰ったときには、もう夜の七時だった。隣室にはまだ警官が出入りしている気配がある。ほとんど引きこもりのような生活から急にこんなことになって、クタクタに疲れていた。

 抗不安薬を飲んで、ベッドに倒れ込む。額がひどく熱かった。目の奥に極彩色のバグの花がちらつく。死の冷たさが脳の奥深く、氷柱つららのように押し込まれている。

 大学に授業欠席の理由を報告しなければならない。が、どうにも体が動かない。もうこのまま眠ってしまおうか。ひょっとしたらグリム童話の『こびとの靴屋』みたいに、夜中に小人たちがやってきて、僕の体に栄養点滴を打っておいてくれるかもしれない。

 生ぬるいまどろみが僕をひたし始めた、その矢先だった。

 ──にゃあん。

 かすかに猫の鳴き声が聞こえた。

 僕はベッドから跳ね起きた。

 まだカーテンも閉めていなかった掃き出し窓のむこうに、トラ猫が一匹、部屋の明かりを受けてうずくまっていた。

 僕はすこし考えると、皿を床に置いてミルクを注ぎ、窓をそっと開けた。

 猫はまるで日課のような自然さで部屋に入り、食事を始めた。


「お前のこと、すっかり忘れてたよ……」


 首のうしろをでてやると、うれしそうに目を細めて尻尾を立てる。

 皿が空になると、僕は猫を抱きあげた。にしてはひとれし過ぎている。かといって、現在進行形で飼われているわけでもなさそうだ。首輪もしていない。

 猫の瞳のなかにた女の子のことを思った。彼女はなぜ、過去から僕にむかって話しかけられたのか。そしてなぜ、手すりがことを警告できたのか?

 ──ひとつ、シンプルな回答が思い浮かんだ。しかしそれは、あまりにも常識からかけ離れている。おいそれとは信じられない。やはり、本人に確かめるしかないだろう。

 僕は猫の瞳をのぞき込む──

 さっきた光景が、再び展開される。