ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第一幕 ③

 銃声、網戸のむこうに倒れている誰か、床にひろがるまり……。

 僕の能力には、法則がある。瞳をのぞき込んだとき、ふつう最初にえるのは、直近の〝強い感情〟に結びついた記憶だ。だから今回も、ついさっき〝驚いた〟ときの記憶がえたのだ。

 それから、を始める。ネットで言葉を検索できるように、ある程度視たい時間を選ぶことができる。やはりこれも眼球の持ち主の感情などに左右され、しばしばコントロールを失う。

 まるで海のなかを波にまれるみたいに、記憶のなかをさまよう……。

 やがて、と、これまでに感じたことのない謎の引力めいたものが僕をまねき寄せた。


 気がつくと、あの女の子が目の前にいた。

 大きな本棚と、わいらしい小物に囲まれた部屋。

 彼女の目が一瞬、潤んだように見えた。その瞳に、その頰に、なにか悲しみに似た夕暮れ色の感情が満ち、ゆらめいたような気がした。しかし次の瞬間にはそれはしんろうのようにかき消え、女の子はにっこりと笑った。


「よーくんにとっては初めましてだね。わたしはゆずの。字は、ゆずの葉っぱに、美しい里」


 やっぱり、過去から未来へ向かって話しかけてくる……! 僕は震える声でく。


「よーくん……?」

「未来のよういちくんが、そう呼んでいいって許してくれたんだよ。わたしが、満開の桜のしたで、初めてよういちくんと出会ったときに」

「未来の僕……。ああ、やっぱり、そうなんだ。きみは──」


 猫の瞳のなかの女の子は、こくりとうなずいた。


「わたしには──未来がえる」



 背後で電車の扉が閉まった。ソーシャルディスタンスを保っていることを確認し、深呼吸する。コロナが落ち着いているとはいえ、やはり車内は息苦しかった。他人のせきが恐ろしく、ついつい息が浅くなる。両手にはたかだののペットショップで買ってきたキャリーバッグやトイレ、キャットフードなどをいっぱいに提げていた。

 手荷物の多さに改札で苦労しつつ駒込駅を出ると、マスクを下げる。初夏の爽やかな匂いがする。なんとなく、子供の頃のことを思い出した。匂いと記憶は強く結びついている。そのせいか、コロナ時代になってマスクをし始めてから、あまり記憶がない。

 自宅アパートには徒歩十数分で着いた。ぜいのある外階段をのぼり、薄汚れた廊下を通る。204号室を出入りする警察官に目礼し、奥から二番目の203号室へ。僕が〝青汁色〟と呼んでいる渋い色のドアを開ける。玄関で靴を脱いでいると、新しい同居人が迎えにきた。


「ただいま、サブロー」


 にゃあん、との返事。前の飼い主だった瞳のなかの女の子がつけた名前だった。

 トイレを準備するやいなや、サブローが用を足した。我慢していたのかもしれない。なかなか礼儀正しい猫である。キャットフードを皿に盛ってやると、目を糸みたいにして幸せそうに食べた。背中をでると、うれしそうにしっぽを泳がせる。

 食事が終わると、僕はサブローを抱きあげ、瞳をのぞき込む──


 クッションに座る女の子が、にこにこしながらぱたぱたと両手を振っていた。相変わらず、視界の解像度は不思議なくらい高い。ノイズが全然入らない。


「よーくん、こんにちは。昨日はよく眠れた?」

「僕のおなかにこびとが城を建てる夢を見たよ」

「お城?」

「朝起きたら、サブローがおなかのうえで寝てた」


 女の子は花がほころぶように笑った。


ゆずのさんはよく眠れた?」

「ミリって呼んで。こっちでは、さっきよーくんと話してから十分くらいしかってないよ」

「えっ──?」僕はぽかんとした。「……ああ、そうか、過去と未来の〝ある時点〟同士がつながって話しているから、同じ時間が流れているわけじゃないのか」


 そういえば彼女は昨日と同じく、白いシャツとカナリア色のスカートを着ている。

 では時間の流れが違う──たとえばいま接続を切り、再び接続したとすると、つながる先は三秒後のミリかもしれないし、三日後のミリかもしれないのだろう。

 僕は『こびとの靴屋』の第二部を思い出した。とある女中がこびとの名づけ親となり、そのすみで三日間だけ過ごす。しかし人里に戻ってくると、こちらでは七年も経過している……。


「そっちは何年前なんだろう?」

「三年くらい前だよ。こっちのサブローは、まだ子猫なの」


 ミリはそう言って、サブローの頭を左手で優しくなでる。その感触の〝記憶〟を僕は感じる。まるで自分が子猫になってなでられたみたいで、どぎまぎしてしまう。ふかふかの毛につつまれたちいさな頭と、人間とは違う位置にある敏感なふたつの耳と、ミリの繊細な指……。


「指、どうしたの?」

「えっ? ああ、昨日アボカドを切ってるときに、包丁で」


 ミリの左手の人差し指に、ばんそうこうが巻かれていたのだった。


「わたし、ドジだから」彼女は恥ずかしそうに言った。「ちっちゃいのに、頭もあっちこっちぶつけるの。そのくせ痛いのはすごく苦手だから、そのたびに涙目になってる」

「そうなんだ」思わず笑って、緊張がほぐれた。「じゃあ、ピアス、大変だったでしょ?」

「ううん、これ、イヤリングなの」耳から外してみせた。「ピアスは怖くて。でも、イヤリングは種類が少ないから、なかなか気に入るのが見つからなくて困っちゃう」


 ミリはそう言って、眉をなだらかな八の字にして笑った。わいい子だな、と僕は思った。

 一通り雑談すると、短い間があった。

 なんとなく、空気が緊張するのがわかった。サブローも耳を立てた。


「あのさ」僕は言った。「これって、どういう仕組みなのかな? 僕は眼球を通して、そこに蓄積された記憶をることができる──けど、そんなに上手にコントロールできるわけじゃない。偶然に左右されたり、強い感情に結びついた記憶に引っ張られたり……。だからこんな風に、日常の一コマを狙ってるみたいなことは難しいんだよ。なのに、まるで何かに引っ張られるみたいに、僕はまたミリと会話できた……」


 するとミリは、こちらを真剣な目で見つめて、言った。


「よーくんは、運命って信じる?」

「運命──?」予想外の言葉に少し面食らった。「少なくとも朝の星座占いは信じてないな」


 ミリは笑わなかった。


「信じると信じざるとにかかわらず、運命は存在する。わたしにはその姿──あるいはその影のようなものがえる」

「……ミリが言うなら、信じるよ。運命は本当にあるんだろうと思う」

「ありがとう」そしてミリはすこし間をおいて「運命はどんなかたちをしていると思う?」


 運命のかたち……? 僕は真面目に考えて、最終的にはすこし冗談っぽく答えた。


「コーヒーカップの底のみ」

「なんだかすごく、好きな答え」ミリはうれしそうに言った。「もしかしたら、角度によってはそうえるのかも。壁掛け時計が横から見るとただの直線に見えるみたいに」

「ミリの角度からは、どう見えるの?」

「わたしからは──電車の窓を伝い落ちる雨粒みたいに見える」ミリの瞳が、深みを増した気がした。「わたしたちひとりひとりが水分子みたいに、時間の流れのなかで出会ったり別れたりしながら、それぞれの道を辿たどるの。他の分子だったり、水滴だったり、風だったり、電車だったり、地球だったり、より大きいものの影響をどうしようもなく受けながら……。わたしには、それがえる。えるということは、干渉できるということでもある。電車を自由自在に操縦したりはできないけど、あるポイントで分岐器みたいに進路を切り替えることはできる」