ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第一幕 ④

「つまり、僕たちがこうしてしやべれているのは、ミリの力だってこと?」

「わたしが、そういう未来を引き寄せてるの」


 僕は思わず首を横に振った。途方もない話だ……。


「そして今、どうしようもなく走り出した電車がある──」ミリは低い声で言った。「さっきの銃殺事件──これから、連続殺人になる」


 ぞくり、とかんが走った。


「連続殺人……?」

「誰かが──ううん、よーくんが行き先を切り替えない限り」


 一瞬、脳が理解を拒んだ。


「ちょっと待って……〝僕が〟って言った?」

「……うん」ミリはうなずいた。「この運命を変えられるのは、あなただけなの。よーくんが犯人を見つけなくちゃ、連続殺人は防げない」

「なんだよ、それ……」僕は思わず頭を抱えた。「いや、待った。ミリには未来がえるんだから、僕がこれからどういう選択をするのかもわかってるんじゃないの? それどころか犯人の正体も、僕が犯人を見つけられるかどうかも全部……」


 ミリは首を横に振った。


「限界があるの。未来視にも、運命への干渉にも。わたしには犯人が誰かわからないし、よーくんがそれを止められるかどうかもわからない」


 僕はごくりと唾を飲んだ。脳裏に、頭を銃で撃ち抜かれたときの〝死の感覚〟がよみがえる。極彩色の光が明滅する。眩暈めまいがする。鼓動が速くなる。冷たい汗が出る。体が震えだす……。

 怖い、と素直に思った。僕はそんなに勇敢な人間じゃない。


「僕にはムリだよ。事件を解決できるほど賢くないし、銃に勝てるほど強くもない。瞳から過去をるのだって、ちょっと変わったレコードプレーヤーくらいのもんだよ」

「そんなことないよ!」ミリは力強く言った。「よーくんはすごく賢いし、すごく強いよ」

「ミリに何がわかるんだよ」

「わたしには未来がえるから。さっきよーくんがわたしにいたことで、これだけはわかってる。──よーくんは、犯人をちゃんと見つけようとするよ」


 僕は首を横に振った。そして、接続を切った。

 解放されたサブローは床のうえで体をのばした。やれやれ長い通話でしたね、とでも言うように。ミリと会話しているあいだ、サブローは不思議とずっとじっとしていてくれる。

 いつの間にか外は雨が降り出していた。掃き出し窓のうえを、水滴が伝っている。僕はとあるひとつの水滴に目をめた。大きくて、いかにもぐに落ちていきそうだった。

 しばらく、じっと眺めていた。

 その水滴は、大きく横にそれながら、思いもかけない場所へと流れていった。



 ドアチャイムに眠りを破られた。明け方まで目がかっぴらいていて、抗不安薬と睡眠薬を多めに飲んでようやくとこに就いたばかりだった。

 つけっぱなしのテレビが、昨日の銃殺事件を報じている。見慣れたボロアパートと、深刻な顔のアナウンサー。スタジオでは、拳銃を紛失した警察への批判が展開される……。

 二度目のチャイム。ようやく体がぎこちない輪郭を取り戻す。時計を見た。土曜日の午前十時。インターホンなんてしやたものはこのアパートにはない。姿見の前に立ち、いちおう寝癖を整えようとした。チャイムがまた鳴る。「はいはいはい……」玄関でサンダルを突っかけ、鍵とストッパーを外し、扉を開ける。

 ──悲しげな顔をした男女が、立っていた。

 煙たい青墨混じりの灰色をした空気が、部屋のなかに侵入してきたような気がした。彼らはどちらも黒い服を着て、どことなくしていた。布が一箇所のほつれから糸に戻っていくみたいに、彼らもひげのり忘れや化粧の虫食いから崩れていきそうだった。


「どうも、朝早くにすみません……」五十代前半くらいの男性の方が言った。「私たちは、隣の部屋に住んでいたあまさきりんの、親です」


 あっ、と思った。僕はこの時になって初めて、死者の名前を知った。


「どうも……」僕は戸惑いながら頭を下げた。


「銃声が鳴ってすぐ、駆けつけてくださったそうで、ありがとうございました」


 どうやら彼らは礼を述べに来たようだった。頭がぼんやりしているせいか、いまひとつ話が入って来ない。どうやら天ケ崎りんは僕の通う大学の一学年先輩らしかった。遺体は検死に回されて、いつ返ってくるかもわからないと言って、母親は泣いた。

 違和感を覚えて、僕は視線を落とした。左手首に包帯が巻かれていた。日焼け具合から考えて、つい最近のものに違いなかった。それに気がついた途端に、彼女の細部が急にクローズアップされてくる。乱れた髪、青白い肌、腫れたまぶた、ささくれ立った雰囲気……。

 父親が事件当時のことを尋ね、僕は詳しく話した。もちろん猫や過去視のことは除いて。

 すると、母親がなにかにすがるように見つめてくる。目と目が合う。──何か、危険な雰囲気を僕は感じた。放っておいては駄目だ、と僕のなかの義務感めいたものが言った。

 眼球と眼球を接続するには、ひとつ条件がある。

〝人間が相手の場合、相手が涙を流していなければならない〟──

 人間以外の動物──たとえばサブローが相手の場合なら、ただ瞳をのぞき込みさえすればいいが、人間相手だともうひとつステップを踏まなければならない。おそらく人間の持つ強い理性が、ある種のセキュリティとして接続をはばむのではないだろうか。涙を流しているときだけ、それがすこし緩むのだ。

 幸い、目の前の母親はすでに涙を流している。


 僕は、瞳をのぞき込んだ──


 その途端、シェイクしたコーラみたいに記憶がどっとあふし、こちらへ流れ込んできた。あまりに記憶の〝圧力〟が高い──! 僕は一瞬のうちに記憶におぼれ、脳が泡立ち、海馬に取り返しのつかないみがつく。慌てて接続を切った。

 僕の目から、涙があふれ出していた。

 両親が困惑して顔を見合わせた。僕は何か言い訳をしようとして、えつしか出て来なかった。母親のほうが僕に共鳴するようにして泣いた。


「すみませんでした」父親が言った。「かみすきさんもショックを受けていらっしゃるのに、いきなりしつけに訪ねてきたりして……」


 違うんです、の一言すら、口にできなかった。

 両親が帰ると、僕は力なく扉を閉めた。そのまましばらく玄関に突っ立って泣いていた。やがて思い出したように胃酸がこみ上げてきて、トイレに駆けこんで吐いた。記憶の炭酸が骨をすっかり溶かして、ぐにゃぐにゃになってしまったみたいだった。



 くらやみのなかで、《目》がひらかれる……。


 さけが飛んでいく。

 さけの切り身。

 きりもみしながら飛んでいって、床にぺしゃんと落ちた。

 皿が割れた。

 ふたりがひどい罵り合いをしていた。殺意すらにじませるような雑言の嵐。どんどんエスカレートしていって、またテーブルの皿が犠牲に。二枚目の切り身が飛んでいく。

 わたしは、はあ、とため息をついた。とても面倒だ。

 そして、次の瞬間には顔をゆがめて泣き出した。そして、子供らしい哀れを誘う声で言う。


「お願い、パパ、ママ、ケンカしないで、なかよくいっしょにシャケ食べようよ」


 そして床に落ちたさけを拾って割れた皿に載せ、テーブルに戻って食べ始める。パパとママはしゅんとなって、けんをやめる。ようやく自分たちの愚かさに気づいたみたいだった。


「ごめんね、新しいさけを焼くから、うがいをしてきて……」


 ママが台所へ行き、わたしは洗面所へ行く。食べたフリをして舌の裏に押しこんでいた汚いシャケをティッシュに吐き出して捨てた。鏡に映った顔は全然悲しそうじゃなくて、涙を拭くと目が少し赤いくらいで、泣いた痕跡はぜんぜん残らない。

 わたしはにっこりと笑う。

 わたしはとても賢くて、とてもわいい。