ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第一幕 ⑤


 くらやみのなかで、《目》がひらかれる……。


 次は四年生の発表です、とアナウンスが流れました。


「演目は『ロミオとジュリエット』」


 体育館が静かになり、幕が上がりました。


『演劇発表会』と書かれた横断幕のしたに、手作りの背景と大道具。学年が上がるごとに舞台セットのクオリティも高くなり、私はいものだと感心しました。

 ちびっこたちが舞台袖から現れて、物語を演じていきます。

 私は主役の登場を今か今かと待ち続けていました。

 そしてが、スポットライトを浴びて現れました。

 たちまち、舞台ははなかんざしをさしたようにあでやかになりました。私が手を傷だらけにして作ったドレスをまとって、ジュリエットはまるで、できたてのように美しかったのです。ため息が生みだすさざなみが、ひとびとのなぎのうえを渡ったほどでした。


りんだけ、断トツでいな」主人が耳打ちしました。「将来はきっと女優になれる」


 私の娘が、女優に──

 想像するだけで胸のうちに花がほころび、春陽のあたたかさで満たされました。

 私の人生は、無地の雑巾のようなものでした。

 小学一年生のとき、初めての掃除の時間、仲良しの友達四人で雑巾を広げたとき、他の子のには花やら動物やらアニメキャラやらがしゆうしてあったのに、私だけ無地でした。思えばそれが私の人生を象徴していたような気がします。決して純白の美しいものではなく、ただひたすらに地味で、人並みに薄汚れた人生。白く清らかなのは色白の肌くらいのもので、それが唯一の、ひそやかな自慢でした。

 その肌を、私の半分を受け継いだ娘が、舞台のうえでスポットライトを浴びて、頰を輝かせている──。私は左手を胸に抱きしめ、鼓動を感じました。あの子が光を浴びれば浴びるほど、その遠い反映で、私は蛍のようにひかるのでした。

 演劇が終わると、カーテンコールが行われます。子供たちが横一列にならび、つないだ手をかかげます。子供たちがこちらの反応を見られるように、観客席側の照明もともされました。あなたは私たち夫婦を見つけて、笑顔をはじけさせ、手を振ります。私は左手で夫の手を握り、一緒に両手を振り返しました。私たちが今も夫婦であり続けられているのは、りんがくさびのようにつなめてくれていたからに他なりません。

 私たちのりん──

 あなたはとても賢くて、とてもわいい。



 くらやみのなかで、《目》がひらかれる……。


 鏡に女の顔が映っている。四十代だろうか。しかし奇妙にけて、老婆のようにも見える。赤く腫れた目のしたに、ほうれい線が深い谷のように刻まれている。頰は垂れ下がり、唇の端からよだれが流れていた。ううううう、と泣き声ともうなり声ともつかない獣じみた声をあげて、白髪混じりの髪を乱し、頭皮をバリバリとかきむしる。真っ赤になった指先で、かみそりを右手に取る。破裂寸前のようにえる。

 刃を左の手首に当て、──



 僕はベッドから跳ね起きた。

 全身が汗でぐっしょりとれ、氷のように冷たい。強烈な痛みに、左手首をぎゅっと握りしめる。真っ赤な血が指の隙間からあふれ出してくると思った。

 ──恐るおそる、右手をひらく。

 手首にはなんの異状もなかった。

 僕はほっと息をつき、顔の汗をぬぐった。

〝記憶の残像〟だ──と思った。

 眼球から流れこんできた記憶の泡が、脳の奥に残り、眠りのなかで夢となって現れるのだ。

 DNA二重らせん構造の発見者であるフランシス・クリックは、夢とは脳の情報処理過程で出現するものだと言った。その説にのつとれば、眼球を通して僕の脳にみついた記憶が、眠りのなかで僕自身の記憶とごっちゃに情報処理される結果、あのような他人視点の夢を見るのだ。

 天ケ崎りんとその母親、ふたりぶんの視点を、一夜にして経験したのである。

 やっぱり、母親はリストカットしていた。とても危険な心理状態だと、僕にはできていた。生と死のてんびんがどちらに振れてもおかしくない。たとえそれがかみそり一枚の重さでも。

 これは呼吸なんだよ、と高校のバレー部の部室でリストカットを繰り返していた女子はかつて僕に言った。わたしはある種のグッピーなんだ。グッピーが水のなかでしか呼吸できないのと同じように、わたしも暗闇のなかでしか呼吸できなくて、これはそのためのなんだよ──。彼女は誰にでも傷口を見せつけて問題となり退学になった。しかし彼女の言っていたことが本当なら、天ケ崎りんの母親は生きようとして新しい呼吸をもがきながら試していることになる。

 僕はシャワーを浴びると、掃き出し窓を開け、その場に座り込んだ。

 夏の雲がゆっくりと空を渡っていった。サブローがやってきて、僕の膝のうえで背中を伸ばした。僕はそのふかふかのおなかをなでてやった。

 ふう、と深く息をつき、僕は立ち上がった。

 机につき、パソコンで文章を打つ。迷いながら──とても慎重に。サブローが甘えてきても集中を乱さない。二時間ほどかけて、ようやく完成した文章を、A4のコピー用紙にプリントする。そして、水色の封筒に閉じ、筆跡を隠すため定規を使って、表にこう書いた。



『シシャカラノテガミ』──



 新宿駅から山梨県甲府市にむかう長距離バスに乗った。二時間とすこしの道程であるが、上京して以来一番の移動距離だ。サブローは家で留守番。昨夜は〝記憶の残像〟のせいで眠りが浅かったせいか、車内ではほとんど寝てすごした。

 甲府駅で降りると、空気がむわりとしていた。日差しが強く、東京よりもだいぶ暑い。時刻は十四時だった。駅ビルのセレオ甲府に入り、適当に昼食を済ませ、六階屋上にあがった。

 さかさんのむこう、入道雲の湧く空に、さんの頭が青く映えている。

 僕はベンチに座り、紙をひらいた。天ケ崎夫婦が昨日のかえぎわに、連絡用にと置いていったもので、電話番号と住所が記されている。僕はスマホの地図アプリで道のりを再度検索した。

 それからバスに乗って甲府市内を移動し、閑静な住宅街をさらに十分ほど歩いた。

 突然、強烈なデジャブが僕を襲った。

 この先に──

 導かれるように、僕は角を曲がった。

 果たして、天ケ崎家はそこにあった。築五~六十年の平家。眩暈めまいのような、時空間がぐにゃりとゆがむような感覚……。僕はこの家を夢のなかで見た。天ケ崎りんになり、その母親になり、この家で暮らしたのだ。言いようのない切なさが胸を打った。

 僕は『死者からの手紙』をリュックから取り出し、玄関扉の前に置いた。

 ──そのとき、背後に気配を感じた。僕は反射的に、庭のほうへと逃げた。そちらなら隠れ場所がいっぱいあると、から知っていた。


「うん? なんだ、これは……」


 水色の封筒を、犬の散歩から帰ってきた父親が拾い上げた。老眼鏡をずらして、いぶかしげに眺める。中身を取り出す。そしてすぐに、大慌てで家のなかへと駆けこんでいった。置き去りにされた柴犬は三度ほど回ると、自分から犬小屋におさまった。

 ──しまった。犬に逃げ道を塞がれた。足音が向かってくる。僕はとっさに、縁の下に身を潜めた。すぐに夫婦がやってきて腰掛け、僕の前に四つのふくらはぎを並べた。


「死者からの手紙……? なにこれ、いたずら?」

「ただのいたずらとも思えないんだ。りんしか知らないことが、りんの言葉で書かれてる」