ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第一幕 ⑥

『死者からの手紙』は、完全な創作というわけではない。僕にみついた死者の記憶──思考回路を働かせ、書いたものだ。やっていることはある種、に近いかもしれない。


「パパとママへ……」


 母親が、手紙を朗読し始めた。


 パパとママへ


 わたしはいま、とても特殊な方法で、この手紙を代筆してもらっています。あまりにも突然のことで、心の整理がまだついていません。パパとママも同じだと思います。そのことを思うと、とても心苦しいです。

 わたしが手紙を書いてもらっているのは、ひとえに、ママのことが心配だからです。わたしのせいでママが悲しみに沈んでいるのは、本当につらいです。

 家族三人、縁側に腰掛けて、入道雲を眺めながら、よくスイカを食べましたね。パパがタネを遠くまで飛ばして、庭に芽が出て、しまいには実がって、それをまた三人で笑いながら食べたのを、よく覚えています。わたしはスイカを食べるとなぜかいつもウトウトしてしまって、ママの膝をまくらにしましたね。わたしの耳にいたずらする左手をつかまえて、ほっぺをすりすりさせるのが好きでした。ママの肌はとてもすべすべで、台所のタイルみたいにひんやりしていて……とても気持ちよかったから。

 天国にも夏があって、入道雲があって、スイカがあって、縁側があります。天国で自分の望むすがたになれます。わたしは、袖でみがいたリンゴみたいな、丸くて赤いほっぺをした、子供のすがたでふたりを待っています。井戸の清い水で、スイカを冷やしながら。どうか長生きをして、たくさん思い出話を持ってきてください。三人でスイカを食べて、わたしは膝枕で長い長い話を聞きながらうとうとして……ママの手にほっぺをすりすりさせてください。

 愛しています。

りんより


 母親がえつした。泣きながら娘の名前を呼ぶ。四つのふくらはぎが寄り添いあった。僕は暗闇のなかで、とても複雑な気持ちになっていた。

 しかし、ひとまず、ことはできた。まるで、ペットボトルのキャップをすこしだけ開けて、しずかに炭酸を抜くみたいに。

 僕はてんびんを思い描いた。

 かみそりの反対側に手紙が載せられ、そちらへと傾くところを……。



 どうにか天ケ崎家を抜け出してから、思考とも呼べないような、取り留めのない思案を続けた。それはアパートに戻ってからも、とんに入ってからも続いた。

 僕は、臆病者だ。誰かを助けたいという気持ちはあるけれど、それ以上に、危険な目に遭うのが、怖い。昔からそうだ。僕は、だって、まったく動けなかった──


 まぶたの暗闇に、ひとつの傘が舞い上がった。

 真っ赤な傘だった。

 背景は重苦しい黒雲。

 傘はひらりと、ランドセルを背負った、黄色いレインコートの隣に落ちた。

 赤いランドセル──女の子だった。

 驚きに見開かれたようなふたつの目が、こちらをじっと見つめている。

 恐ろしい速さで、その瞳から光が失われていく……。


 睡眠薬が効いたのか、いつの間にか眠りに落ちていた。得体の知れない嵐のなかをさまよい、やがて、台風の目に出た。そこには穏やかな黄金色のひかりが満ちていた。

 ミリの夢だった。

 彼女はあの本棚のある部屋にいた。レースのカーテンを透きとおった光が、彼女のやわらかく細い髪をあたためていた。桜の花飾りをあしらったヘアピンが、耳のうえに光っている。どうしてか、それに見覚えがあるような気がした。けれど、どうしても思い出せない。

 ミリはしずかに本を読み続けている。そのすがたが、僕はとても、れいだと思った。


10


 朝起きてすぐ、コップ一杯の水を飲んだ。それ以外は何も口にしなかった。


「おいで、サブロー」


 とんで二度寝していたサブローが、耳をぴくりとさせ、「ご飯ですか?」という顔をしてやってきた。そのつもりではなかったのだけれど、可哀かわいそうなのでキャットフードをあげた。

 それから、その瞳をのぞき込んだ──


 すぐに引っ張られて、視界にミリが現れた。この前とは違う日らしかった。ライトグリーンの、オーバーサイズの春ニットを着ていて、「よーくん、こんにちは」と余った袖を振った。


「おはよう、ミリ。僕はさっき起きたばっかり」

「そうだと思った。だって寝癖ついてるもん」


 僕は寝癖をおさえた。が、手を離すとびょんと復活した。ミリは八重歯を見せて笑った。


「ミリ、今日は聞いてほしいことがあるんだ……」


 僕は、『死者からの手紙』の件について話した。


「今回だけじゃない。これまで何回も書いてきた。都市伝説みたいな形で騒がれたこともある。最初は失敗もあったけど、だんだんくなって、色々な人を救えるようになった……」


 僕は言葉に詰まった。じっと黙って話を聞いてくれていたミリが、口を開く。


「でも、よーくんは、そんな自分の行いに疑問を持ってるんだね?」


 どきりとした。心の奥を見透かされた気がした。


「……そうなんだ。そういうことだと思う。なんていうか、やっぱり、偽善なんじゃないかな。勝手に人の記憶をのぞいて、勝手に人の言葉を代弁して……何様のつもりなんだろう。でも、何もせず最悪の結果になるのも怖くて……。結局はぜんぶ、ただの自己満足だ」


 沈黙があった。けれど嫌な感じの沈黙ではなくて、何かを大切にするための沈黙だった。まるで、羽化したての柔らかいはねがかたまるのを待つみたいに。ミリはやがて、言った。


「本当の〝善〟って何かな?」

「本当の〝善〟──?」

「例えば、わたしが人を殺したら?」


 ドキリとした。ミリが人を殺したら──? 人どころか虫も殺しそうにない。僕は言う。


「人を殺したら、それは〝悪〟だよ」

「わたしには未来がえる。その人が将来、五万人を殺す殺人鬼だとしても?」


 僕は答えに窮した。


「……それは〝善〟かもしれない」

「本当に? その五万人が全員、五万人を殺す殺人鬼かもしれないよ?」

「後出しじゃないか」

「全てを知ることができない限り、後出しは永遠に続く。本質的に。どうしようもなく」

「……たしかに」

「結局、認知の限界が、倫理の限界なんだと思う。五万人の死者のことが見えなければ、ひとりの死者を生むことがすなわち悪になる。わたしには未来がえて、よーくんには過去がえる。つまり認知が普通の人と違う。だから倫理も違って当たり前で、わたしたちはきっと、自分だけの倫理を見つけていかなくちゃいけない」

「その〝自分だけの倫理〟ってのが、自己満足なんじゃないかな」

「〝倫理〟そのものが、そもそも自己満足なんだよ。だって、神様じゃないから。神様の認知のなかではきっと、人間の善悪なんてまつな問題でしかない。人間にできるのは、迷いながら、ベストを尽くすことだけ」


 神様の認知……。ぞくりと鳥肌が立った。恐ろしいことに気がついたのだ。


「ミリの認知のなかでは、昨日の『死者からの手紙』は、善だったのかな? それとも悪だったのかな? 届けた場合と、届けなかった場合ではどう違うのか、知ってるんでしょ?」


 ミリは僕をぐに見て、沈黙した。今度の沈黙は重たかった。羽化したはねがぐしゃぐしゃに潰れてしまうくらいに。やがて、ミリは表情を変えないまま、言った。


「──〝善〟だった。手紙を届けなかったら、まずお母さんの方が自殺して、お父さんの方が翌年に衰弱死してた」


 ほっ、と息をついた。一気に肩が軽くなった。僕は確かに、ふたりの命を救ったのだ……。そう思うと、胸がじんわりと温かくなった。


「ミリ──」僕のなかで、決意が固まった。「僕は、やっぱり、銃殺事件の犯人を捕まえるよ。正直すごく怖いし、自信もないけど。僕にしか助けられないなら、やっぱり助けたい」


 ミリは優しくほほんで、言う。


「そう言ってくれるって、知ってた。ううん、よ。これから一緒に頑張ろうね!」


 ミリはサブローと握手した。

 僕もまた、サブローと握手して、笑った。