ミリは猫の瞳のなかに住んでいる
第二幕 ①
1
もしもこれがアクション映画だったら、真犯人との最終対決にむけて空手だとかカンフーだとかの修行を始めるところだけれど、僕が最初にやったのは読書だった。
「『お気に召すまま』、読んでおいてね。わたし、お昼ごはんの準備しなくちゃだから」
ミリはそう言って、にっこり笑って両手を振ったのだった。そんなふうに
僕はなるべく外出したくない気持ちもあって、電子書籍で購入した。そうこうしているうちに月曜日のリモート授業が始まり、
午後の授業は休校だった。何やら大学も色々と会議することがあるらしい。
僕はサブローに餌をやり、冷凍食品を温めて食べ、シェイクスピアの『お気に召すまま』を読み始める。戯曲は初めてだったので、最初はなかなか集中できず、ミリのことをぼんやりと考えた。いま、
いつの間にか、本のほうに集中していて、サブローに邪魔されながらも一気に読んだ。
夕方ごろになってようやく読み終えると、サブローの瞳を
ミリは今朝と同じ服装で、昼間のひかりのなかにいた。
「どうだった、シェイクスピア?」
「すごく面白くてびっくりした。
「そうでしょう、シェイクスピアは本当にすごいの!」
ミリは目を輝かせ、夢中になってシェイクスピアのあれやこれやを語った。表情がくるくる変わって
「……ん? なんか煙たくない?」
サブローの敏感な嗅覚が臭いをキャッチした。よく見ると、ミリの周囲に薄く煙のようなものが漂っている。
「えっ──?」彼女はぐるりを見回して、目を丸くした。
そして、あっと叫んで、視界の外へバタバタと駆けていった。むこうのサブローが、それを追いかける。ミリの住んでいる家は、想像よりずっと大きかった。おそらくは都内の高級マンションだろう。レースのカーテン越しに、ビル群の頭がうっすらと見えた。百インチクラスのモニターやソファー、ガラステーブル、毛足の長いラグ、観葉植物……見るからに質のいい調度品がずらりと
アイランド型のシステムキッチンで、フライパンがもうもうと煙を吐き出していた。
「あ、わ、わ、わ、わ、わっ──!」
ミリは漫画みたいに両手をぱたぱたさせながら、おろおろしている。
「ミリ、とりあえず火を消して!」
僕は思わず叫ぶが、何の意味もない。ミリは自力でコンロの火を消すと、ハンドタオルを
なんとか事なきを得て、僕はほっと胸を
「うう……」泣きそうな顔だった。「ちょっとだけよーくんとお
「てっきりもうお昼は終わったのかと思ってたよ。火を使ってるのに離れちゃダメでしょ」
「ごめんなさい……」
「意外とドジなんだね。フライパンを焦がす未来は見えなかったの?」
「うう……ひどい……いじわるなこと言わないでよー!」
一度、接続を切り、
「さて、なぜシェイクスピアを読んでもらったかというと──これから大学の演劇部に入る必要があるからです」
「演劇部──」僕は思わずさけぶ。「えっ、なんで演劇部なの!?」
「うーん……」ミリは少し考えて、「迷路に入って、出口は右ですって看板があったら、そっちに行くよね?」
「うん」
「出口は演劇部です」
「そういうこと……?」
僕は思わずため息をついた。ミリは同情するような顔で、
「大変だと思うけど、頑張ろう。一週間後の入部オーディションに間に合うように」
「えっ、部活なのにオーディションがあるの!?」
「そう、濃ゆーいカリスマ部長が仕切ってるから」
「マジか……これならカンフーの方がマシだった」
「かんふー?」ミリは首をかしげた。
「こっちの話。でも、演劇なんてやったことないよ。たった一週間でモノになるかな……?」
「大丈夫、わたしが教えるから」ミリは胸を張った。
「ミリ、演劇やったことあるの?」
「ちょっとだけ。大丈夫、しっかりやればちゃんと合格するから! そういう未来が
「ほんとかなあ……」
不安な気持ちがモクモクと立ちこめてきた。まるでフライパンから上がる煙みたいに。
「それじゃあ、発声練習から始めようか──」
ミリはまた煙に気がつかないまま、楽しそうに言った。
2
一週間があっという間に過ぎた。びっくりするほどあっという間だった。リモート授業の合間にミリと
駒込駅から
久しぶりのキャンパスに、
物陰でキャリーケースからサブローを放す。ミリの指示だった。どうやらこの後、必要になるらしい。彼はちらりと一度だけ振り返って、ゆったりと歩き去った。
僕は一限の心理学の教室へとむかった。出入口には消毒液が設置され、私語厳禁の張り紙がしてあった。適当な席に座ると、早速、警告無視のお
「最近、彼氏とリモート
「リモート
「ビデオ通話をつけっぱなしにして、一日中おしゃべりしてるの」
なるほど、現代ではそういう概念があるのか……と、年寄りのように感心してしまった。
「掃除とか格好に気を使うようになったし、いい事だらけだよ」
僕もすっかり部屋が
あれっ、ひょっとして僕とミリも〝リモート
そう考えると急に恥ずかしくなって、マスクのしたで頰が
──と、そういえば、ミリと連絡先を交換していないことに思い至った。
心理学の授業が始まる。
しっかり学べばミリの心理もわかるだろうか、と僕はアホなことを思った。



