ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第二幕 ①


 もしもこれがアクション映画だったら、真犯人との最終対決にむけて空手だとかカンフーだとかの修行を始めるところだけれど、僕が最初にやったのは読書だった。


「『お気に召すまま』、読んでおいてね。わたし、お昼ごはんの準備しなくちゃだから」


 ミリはそう言って、にっこり笑って両手を振ったのだった。そんなふうにわいらしくお願いされたら、やらざるを得ない。

 僕はなるべく外出したくない気持ちもあって、電子書籍で購入した。そうこうしているうちに月曜日のリモート授業が始まり、がいからチャットが飛んできた。このあいだの経過(もちろん、ミリや過去視のことは伏せて)を教えていると、矢のように時間が過ぎた。

 午後の授業は休校だった。何やら大学も色々と会議することがあるらしい。

 僕はサブローに餌をやり、冷凍食品を温めて食べ、シェイクスピアの『お気に召すまま』を読み始める。戯曲は初めてだったので、最初はなかなか集中できず、ミリのことをぼんやりと考えた。いま、としはいくつなのだろう? 僕とそう離れてはいない気がする。一人暮らしだろうか? ということは僕と同じ大学生──?

 いつの間にか、本のほうに集中していて、サブローに邪魔されながらも一気に読んだ。

 夕方ごろになってようやく読み終えると、サブローの瞳をのぞき込む──


 ミリは今朝と同じ服装で、昼間のひかりのなかにいた。


「どうだった、シェイクスピア?」

「すごく面白くてびっくりした。台詞せりふまわしのセンスが良すぎる。とても四百年も前に書かれたものだとは思えないよ」

「そうでしょう、シェイクスピアは本当にすごいの!」


 ミリは目を輝かせ、夢中になってシェイクスピアのあれやこれやを語った。表情がくるくる変わってわいらしい。完全に脱線していたが、楽しそうなので止めにくかった。


「……ん? なんか煙たくない?」


 サブローの敏感な嗅覚が臭いをキャッチした。よく見ると、ミリの周囲に薄く煙のようなものが漂っている。


「えっ──?」彼女はぐるりを見回して、目を丸くした。

 そして、あっと叫んで、視界の外へバタバタと駆けていった。むこうのサブローが、それを追いかける。ミリの住んでいる家は、想像よりずっと大きかった。おそらくは都内の高級マンションだろう。レースのカーテン越しに、ビル群の頭がうっすらと見えた。百インチクラスのモニターやソファー、ガラステーブル、毛足の長いラグ、観葉植物……見るからに質のいい調度品がずらりとそろっている。

 アイランド型のシステムキッチンで、フライパンがもうもうと煙を吐き出していた。


「あ、わ、わ、わ、わ、わっ──!」


 ミリは漫画みたいに両手をぱたぱたさせながら、おろおろしている。


「ミリ、とりあえず火を消して!」


 僕は思わず叫ぶが、何の意味もない。ミリは自力でコンロの火を消すと、ハンドタオルをつかむ。その拍子に包丁が落ちて床に突き刺さる。サブローがびっくりして飛びのいた。タオルをらし、フライパンにかける。じゅうううっと音を立てながら、水蒸気があがる……。

 なんとか事なきを得て、僕はほっと胸をろした。ミリはがっくりと肩を落として、サブローを抱っこして、本棚のある部屋へと戻る。


「うう……」泣きそうな顔だった。「ちょっとだけよーくんとおしやべりするつもりが……」

「てっきりもうお昼は終わったのかと思ってたよ。火を使ってるのに離れちゃダメでしょ」

「ごめんなさい……」

「意外とドジなんだね。フライパンを焦がす未来は見えなかったの?」

「うう……ひどい……いじわるなこと言わないでよー!」


 可哀かわいそうだけれど、僕は思わず笑ってしまった。

 一度、接続を切り、つなぎ直す──と、むこうの時間は経過していて、キッチンの片付けもお昼ごはんも終わっていた。ミリはまるで何事もなかったかのように、仕切り直す。


「さて、なぜシェイクスピアを読んでもらったかというと──これから大学の演劇部に入る必要があるからです」

「演劇部──」僕は思わずさけぶ。「えっ、なんで演劇部なの!?」

「うーん……」ミリは少し考えて、「迷路に入って、出口は右ですって看板があったら、そっちに行くよね?」

「うん」

「出口は演劇部です」

「そういうこと……?」


 僕は思わずため息をついた。ミリは同情するような顔で、


「大変だと思うけど、頑張ろう。一週間後の入部オーディションに間に合うように」

「えっ、部活なのにオーディションがあるの!?」

「そう、カリスマ部長が仕切ってるから」

「マジか……これならカンフーの方がマシだった」

「かんふー?」ミリは首をかしげた。


「こっちの話。でも、演劇なんてやったことないよ。たった一週間でモノになるかな……?」

「大丈夫、わたしが教えるから」ミリは胸を張った。


「ミリ、演劇やったことあるの?」

「ちょっとだけ。大丈夫、しっかりやればちゃんと合格するから! そういう未来がえる」

「ほんとかなあ……」


 不安な気持ちがモクモクと立ちこめてきた。まるでフライパンから上がる煙みたいに。


「それじゃあ、発声練習から始めようか──」


 ミリはまた煙に気がつかないまま、楽しそうに言った。



 一週間があっという間に過ぎた。びっくりするほどあっという間だった。リモート授業の合間にミリと他愛たわいのないおしやべりをして、放課後は演劇練習をする、その繰り返しがとてつもなく楽しかった。ずっとこんな生活が続けばいいのに──と思ったが、ミリの予言通り大学の対面授業が再開され、登校しなければならなくなった。

 駒込駅からたかだのまで電車に乗り、そこから大学まで二十分ほど歩く。

 久しぶりのキャンパスに、なつかしさすら覚えた。

 物陰でキャリーケースからサブローを放す。ミリの指示だった。どうやらこの後、必要になるらしい。彼はちらりと一度だけ振り返って、ゆったりと歩き去った。

 僕は一限の心理学の教室へとむかった。出入口には消毒液が設置され、私語厳禁の張り紙がしてあった。適当な席に座ると、早速、警告無視のおしやべりが聞こえてくる。


「最近、彼氏とリモートどうせいしてる」

「リモートどうせい?」

「ビデオ通話をつけっぱなしにして、一日中おしゃべりしてるの」


 なるほど、現代ではそういう概念があるのか……と、年寄りのように感心してしまった。


「掃除とか格好に気を使うようになったし、いい事だらけだよ」


 僕もすっかり部屋がれいになったし、なけなしの貯金をはたいてキャット・ウォークを手作りしたりした。朝起きてちゃんと顔も洗うし着替えもするようになった。

 あれっ、ひょっとして僕とミリも〝リモートどうせい〟しているようなものじゃないか……?

 そう考えると急に恥ずかしくなって、マスクのしたで頰がってきた。

 ──と、そういえば、ミリと連絡先を交換していないことに思い至った。くはぐらかされ、教えてもらえなかったのだ。猫よりはスマホの方が便利なのに。一体なぜ──?

 心理学の授業が始まる。

 しっかり学べばミリの心理もわかるだろうか、と僕はアホなことを思った。