ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第二幕 ②


 午後四時ごろにすべての授業を受け終えると、文化系サークルの部室棟へと向かった。演劇部の部室は二階の突き当たりにあるとすぐにわかった。張り紙がしてあったからだ。


『演劇部 大大絶賛部員募集中! 熱き血潮を舞台にぶちまけろ! 舞台で死ね! 荒武者よきたれ、オーディションという名の決闘場に!』


 それはもう暑苦しい筆文字で、A4の紙にそう書かれていた。それが、二階の廊下に沿って、ずらーっと奥まで張られているのである。しかも恐ろしいことに、コピーじゃない。一枚一枚手書きなのである。もはや狂気すら感じられる。


「帰宅部になりたい……」


 思わずつぶやいた。切実に。もちろん誰も聞いてはくれない。

 そのときふいに、悲鳴が聞こえた。

 ぎゃあああああああ……

 という、狂気じみた、断末魔の声めいた、どこか物悲しい悲鳴だった。

 そして突如として、突き当たりの演劇部室の扉が開いた。

 僕はあんぐりと口を開けて固まった。

 血まみれの男がまろび出てきたのだった。

 パックリ割れた額から真っ赤な血を垂れ流し、ゾンビのようにフラフラと、正気とは思えない足取りでこちらへやってくる。


「コロスコロスコロス絶対殺す……」


 何やらけんのんなことをブツブツとつぶやいているし怖すぎる。僕はサッと壁と一体化した。血まみれ男は僕が目に入らない様子で、そのまま通り過ぎていった。

 ……どう考えてもヤバい。いったい部室で何が行われてるんだよ! 〝熱き血潮をぶちまけろ〟って比喩表現じゃないの!? ここはいったん撤退して態勢を立て直そう……と自分に言い訳しつつ、きびすを返した、その時だった。


「きみは、入部希望者かね?」


 呼び止められた。ぎくりとした。立ったまま死んだフリをするが、背後の人物はだまされてはくれないようだった。背中を冷たい汗が流れていった。

 僕は恐るおそる……振り返った。

 半裸の男が仁王立ちしていた。

 下半身はジーンズで、鍛え上げられた上半身には何も着ていない。いや、着ていないという表現にはいささかびゆうがある。男にはへそのしたまで続く暑苦しい胸毛が生えており、もはや胸毛を着ているといっていいレベルにまで達していた。


「入部希望者だろう? 俺にはわかるぞ……」


 エスパーから一番遠いところにいるビジュアルのくせに、エスパーみたいなことを言う。


「ほら、白目をいてないで来い、オーディションをしてやろう」


 いつの間にか僕は男にガッシリと捕まえられて、部室へと連行された。

 そこはフットサルコートくらいの広さがあった。かべぎわの棚には舞台セットや衣装ケースらしきものが押しこまれており、スクリーンやプロジェクターもある。

 ──が、そんなディテールはもはやどうでもよかった。

 床に血まみれの板切れが落ちていたのである。

 床に血まみれの板切れが落ちていたら、もうそれ以外は目に入らなくなるのが当然である。何しろ血まみれの板切れだ。「さて、実力のほどを見せてもらおうか」と男が言って、感染防止アクリルパネルのむこうの椅子に腰掛け、あごヒゲをでるみたいにして胸毛をでる。こうなるともう視線は血まみれの板切れと胸毛のあいだを反復横跳びするしかない。


「そうだ、自己紹介が遅れたな。俺はもう。演劇部の部長をやっている」


 なるほど、ミリが『濃ゆーい』と形容していたカリスマ部長か。本当に色々と濃ゆい……。


「あの……なんで、血まみれの板切れが落ちてるんですか? あとなんで半裸なんですか?」

「先に自己紹介するのが礼儀だとは思わんかね?」

「あ……かみすきよういちです」

「よし、かみすきくん、きみはエントリーナンバー2番だ。オーディションを始めよう」


 ……質問に答える気はなさそうだった。

 もうはポケットから折り畳んだ紙を出し、こちらに投げてよこしながら、


「ちなみに演劇経験はあるかね?」

「いや、しろうとです」

「じゃあ50もうポイントからスタートだ」


 もうポイントがなんなのかわからないが、とりあえず僕は紙を開き──驚いた。


「それが何のセリフかわかるかね?」

「……シェイクスピアの『お気に召すまま』のジェイキスのセリフです」

「ほう! よくわかったな、もうポイント3プラスだ! じゃあ、さっそくってみてくれ」


 僕は呼吸を整え、演技を始める。


「全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない──」


 もうの胸毛をでる手がぴたりと止まった。僕は驚くほど上達していることに気づいた。

 ミリとの練習を思い出した。彼女のアドバイスは驚くほど的確だった。言葉がすっと体にみて、次の瞬間にはもうくなっている。まるで飛び石のうえを軽快に渡っているみたいだった。ひょっとしたら、どうすれば僕がくなるのかその未来を知っていて、そちらに誘導していたのかもしれなかった。なんとなく、ミリの言う『運命』みたいなものの存在を感じた。


「ふむ……」僕が演じ終えると、もうが感心したように言った。「本当にしろうとか?」

「一応、一週間くらいは練習してきました」

「一週間──!」もうは豪快に笑った。「なるほど一週間と来たか! よし、もうポイント20マイナスだ!」

「えっ、なぜマイナス!?」

もうポイントがゼロになったら合格だ」

「ややこしいな!」


 最初の3プラスは合格から遠ざかってたのかよ……。もうは心底楽しそうに言う。


「さあ、あと33ポイント、死ぬ気でもぎ取ってみせろ!」


 まだまだ先は長いな……とすこし絶望的な気分になった時だった。部室の扉が開き、眼鏡の女学生が飛び込んできた。そして、予想だにしなかったことを叫んだ。


「大変です──放火されました!」



 半裸のまま猛スピードで走っていくもうの背中を追った。風に乗って灰の一片が飛んできた。焦げ臭いにおいが鼻をついた。部室棟の東側で勢いよく炎が上がり、白い壁面を黒く焦がしていた。すでに人だかりができ、異様な声が上がっている。


「放せッ! 放せよォッ!」


 血まみれの男が羽交い締めにされ、たけくるっていた。炎を背負う姿に、僕はぞっとなった。


「あっ、よういち! よういちじゃないか!」


 血まみれ男を押さえている人物が、ふいに言った。体格のい、黒髪短髪のスポーツマンっぽい男である。よくよく見れば、がいけんろうだった。四月に友達になり、すぐにリモート授業に移行して、ずっとチャットだけしている仲だったので、すぐにはピンと来なかったのだ。マスクをしているのもそれに拍車をかけていた。


よういち、手伝ってくれ!」


 僕は反射的に動いた。がいと一緒に、血まみれ男を押さえる。もうがさけぶ。


「消火! 消火だッ!」


 もうの指揮のもと、バケツリレーで次々と水がかけられる。消火器がふたつ、勢い良く噴霧され、それでようやく鎮火された。

 白い煙を吐きだす燃え残りの前に、女の子が膝をつき、すすり泣いた。ポップな服装の子だ。ピンクの毛先カラーを入れた金髪にピンクのキャップをかぶり、酔っぱらったピカソ作のマンチカンみたいな柄のシャツを着ている。


「ううう……わたしが手塩にかけた大道具がーっ!」


 話を聞くと、どうやらこういう次第らしい。自粛期間中、大道具・小道具班が自宅でせっせと製作してきたものを、レンタルトラックで集めてきた。それを部室搬入前にいったん降ろし、すこしばかり目を離したところ、炎が上がっていた。


「それで、こいつが放火犯というわけか……」


 もうが腕を組み、血まみれ男を見て言った。


「はい、炎を見つめながら涙を流し、殺す殺すとつぶやいていました」

「間違いないな!」もうは力強くうなずいた。