ミリは猫の瞳のなかに住んでいる

第二幕 ③

「違う、オレじゃない──!」ふいに、血まみれ男がさけんだ。「オレは、もうろうとしてただけで……放火なんかしてない!」

「誰がお前のような血まみれ男の言うことを信じるかァ!」


 もうが怒鳴った。半裸の男も同じくらいしんぴよう性に欠けるんじゃないかと僕は思った。

 ふいに、足元にくすぐったい感触。見れば、サブローだった。僕は抱きあげると、こっそりと物陰の方に移動した。そして、その瞳をのぞき込む──


 ミリが、困ったような顔をしていた。


「大変なことになったね」

「展開が目まぐるしくてクラクラするよ。ミリはこうなるってわかってたんでしょ?」

「うん、でもやっぱり、もうさんは濃すぎて何回見ても笑っちゃう」


 ミリはくすくすとわいらしく笑った。そして、目尻の涙を拭うと、言う。


「さて、これから、よーくんが放火の真犯人を見つけるんだよ」

「えっ、僕が? 一体どうやって?」

「大丈夫、簡単簡単、わいい目撃者がいるから」

わいい目撃者……? ああ、そういうことか」


 僕は一度、接続を切った。サブローが首をかしげている。

 僕はもう一度、瞳をのぞき込む──


「頼もぉぉぉーうっ!!」


 いきなり大きい声が聞こえた。びっくりしたサブローはベランダの手すりから落ちそうになった。開け放たれた窓からもうの返事が聞こえる。


「受けて立ァァァーつ!」


 バァン! と扉が開いて、まだ血まみれじゃない血まみれ男が威勢よく部室に入ってきた。


むらたけると申しますッ! 新一年生ですッ! 高一のとき、高三だったもう先輩の舞台を見てから、ずっと憧れてきましたッ!」

「その意気や良しッ!」まだTシャツを着ているもうが言った。もうはふたごの野ねずみ『ぐりとぐら』のTシャツを着ていた。世界観のかいがはなはだしい。


「さあ、オーディションを始めよう!」


 もうがパイプ椅子に座り、むらがアクリルパネルの反対側に立った。両者ともマスクを外す。


「じゃあ、手始めに〝かめはめ波〟を撃ってくれ」

「かっ……〝かめはめ波〟ですか? あのドラゴンボールの?」


 その通りだともうはうなずいた。かめはめ波……? なんだそりゃ、と僕はずっこけそうになった。しかしむらは、「な、なるほど……かめはめ波か……さすがもう先輩だ……!」と何かを無理やり納得して、


「か~め~は~め~波ァァァー!」


 撃った。大したものだった。その場にいたら思わず拍手していただろう。

 しかしもうはさほど表情を変えず、


「出てない……」

「えっ?」

「かめはめ波がッ! 出てなぁぁぁあああいっ!!」


 いや、かめはめ波は出ないだろう。基本的に。


「……! すみません、もう一回やらせてください!」

「はァァァ……ッ!」むらは今度は大気からなにやらエネルギー的なものを集め、「かぅぁぁめぇぇぇはぁぁぁめぅぇぇ波ぁあぁあぁあああッ!」


 素晴らしかった。僕には発射されるエネルギーが見えた。

 しかしもうは立ち上がってブチ切れる。


「出てないんだよォォォ! アクリルパネルを破壊して感染拡大せんかァァァ!」

「す……すみませんッ……!」


 そんな無茶な……。もうは不機嫌そうに椅子に腰掛けると、言った。


もうポイント10プラスだ」

「えっ……? あっ……ありがとうございますっ……!」


 喜んでいるがそれはわなだ。実はゴールから遠ざかっているんだ。かすかに表情が晴れたむらに、もうは折り畳んだ紙を投げ渡した。むらはそれを開いて読むと、目を見張った。


「こっ、これは、もう先輩の伝説の舞台、『わだちの亡霊』のワンシーン……!」


 演じるように指示されると、むらはあたりを見回し、棚から板切れを引っ張り出してきた。そして一度深呼吸をし、演技を始める。


「おお、人の運命とはかくなるものか。って立つにはあまりにもろく、打って壊すにはあまりにつよい……」


 運命に翻弄された者の嘆きと悲哀が表現される。感情はセリフが進むにつれクレッシェンドされ、ついに極限まで高まったところで、板切れを自分の頭に打ちつけた。鈍い音がして、額から血が流れた。泣きながら何度も打ちつけ、むらは血まみれになっていった。

 ひよう型の役者というやつだろうか。僕は圧倒されつつも、正直、ドン引きしてしまった。


「もういい、もういい──」もうは演技を中断させて、「きみは不合格だ」

「……えっ?」むらは半ば白目をいてクラクラしながら立ち上がり、「不合格……? な、なぜですか……?」

「きみの高校時代の演技を見たことがある……」もうは神妙な面持ちで言った。「きみは餓死しそうなほどガリガリに瘦せて舞台に立っていたな。そのすごみで審査員を圧倒して、全国を制覇した。やれやれ、すごい高校生がいるものだと、俺は驚いたよ」

「じゃあ、なぜ……なぜ不合格なんです……?」

「〝すごい〟のと〝い〟のとは違うからだ」もうはかっこいい顔になった。「たとえるならきみだけが棒高跳びをやっていたのだ。ガリガリに瘦せたり、流血したり……きみだけが飛び道具を使って、一番高いところに到達したように見せかけていた。しかし道具なしではきみはそれほど高く跳べない。……結局のところ、きみの欲求は『他人からく見られたい』というところにあるのだ。それは『くなりたい』という切なる願いとは全く違う。それはある種のよこしまな欲望だ。観客の心を打つことではなく、舞台からライバルを蹴落とすことに夢中になっている。それは自己顕示欲であって、愛ではない。それっぽいだけで、それではない。そういう人間はある程度までは人より早く到達するが、そこから伸びていかない。一流にはなれるかもしれんが、超一流にはなれない。高校演劇の審査員程度ならだませるかもしれんが、この俺のだませんぞ」そして目線をそらし、ボソッと、「……かめはめ波も撃てないし」


 せっかくいことを言っていたのに、最後の一言が蛇足すぎる。むらはぶるぶると震えだした。そして──ブチ切れた。狂気のさけびをあげ、板切れで襲いかかろうとする。


「なんだ、俺とやる気かぁぁぁッ!?」


 もうはそうさけぶと、なぜか自分のTシャツを胸元から真っ二つにした。哀れ『ぐりとぐら』のあいだが永遠に引き裂かれ、胸毛がはじけ出る。両腕をひろげ、じやくのように無駄に美しい立ち姿で、鍛えあげた肉体を見せつけるように威嚇する。

 すさまじいにらいがあった。僕はゴクリと唾を飲んだ。

 ──と、急にサブローがぷいっとそっぽを向いて歩き出した。僕は思わずガクッと脱力した。すごいタイミングで飽きるものだ。

 サブローは気ままに、アゲハちようにちょっかいを出したりしつつ歩き回る。

 やがて、積み重ねられた大道具類が視界に入った。まだ、炎は上がっていない。その上方で、窓から女性が顔を出し、そうに煙草たばこを吸っているのが見えた。女は油断したのだろう、したを全く見ずに煙草たばこをポイ捨てした。

 油絵に着火し、やがて大道具は火に包まれた。サブローはそれをのんきに眺めている。