よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ⑪

 いわはピースサインやらサムズアップやらを試した後で、どうも納得いかない表情になる。


「どうした?」

「うーん、なんだかどれもしっくりこなくて……いのの形に合わないというか」


 俺にはいわゆる映えというような美的センスが欠如しているので、いわの助けになる自信はなかった。適当にアドバイスしてみる。


「背景がいのなんだから、手でもいのを作ってみたらどうだろう。ハートを作るみたいに」

「なるほど!」


 いわは言うと、片手でハートの半分を作った。そして期待に満ちた目で俺を見てくる。


「…………?」


 混乱する。


「片手が埋まっちゃってるから、いずくん、手伝ってよ!」


 この理屈は分からなかった。


「親指と人差し指でハートを作るやり方があるんじゃなかったか。よく女の子がやる」

「それは指ハート! これはいのだから、ちょっと違うよ」

「なるほど……?」


 確かに、指ハートとやらはちまたでハートと呼ばれているからハートに見えるのだ。同じ形であってもハートという概念の適用されないいのにはなり得ない。一方、いわのやり方でいのを作ろうとすると、両手が必要になってしまう。いわはスマホを構えている。手が一本足りない。そこまでは理解できる。

 しかしその足りない手を、俺に頼むだろうか?

 でもまあ、いわに抵抗がないのなら、俺が気にしすぎているだけなのかもしれない。これはハートではなくて、あくまでいの、幸せを呼ぶ形なのだ。

 隣に立って、いわが構えた片手に俺の手を合わせようと試みる。

 だが、心臓が跳ね上がるようでいけない。耳が熱くなっているのが分かる。汗が垂れた。

 結局俺は、すぐに手を引っ込めてしまった。


「……?」

「いや、女の子同士なら、まだいいかもしれないけどな……」


 変に意識していると思われたくなかったので、少しぼかして言った。

 いわはようやく気付いたようで、ほんのり頰を紅潮させて目を丸くした。


「あっ……ごめんね! すごくれしかったよね!」

「いや、別に謝ることではない。違う形はどうかと提案してるだけだ」

「じゃあさ、二人でピースにするのはどう?」


 この理屈は全く分からない。


「……ピースなら、一つでもいいんじゃないか?」


 俺の提案にいわは小さく首を振る。


「気付いたんだよね。私がこの写真に手を写り込ませるのは、今この瞬間の一意性を切り取りたいからなんだ、って」

「一意性……?」


 数学でしか聞いたことがない用語だった。


「そう。いずくんと一緒にこのきれいな景色を見つけたっていう事実を記録したいから、景色だけじゃなくて、いずくんと私が写ってないともったいないんじゃないかと思って……」


 確かに間違いのない論理的な説明だった。

 まあピースくらいならいいだろう。断る理由もなかったので俺はいわの隣に行く。そしてやる気のないピースサインを作り、いわのスマホのカメラの前に差し出した。


「もう少し、寄って!」


 いわが一歩こちらに近づいてくる。肩が触れ合いそうになる。心臓がまた跳ねる。

 この少女が無自覚に落としてきただろう男たちのことを思って、心の中で合掌した。

 かしゃり──いわがシャッターを押す。

 薄紅の桜に縁どられたハート形の青空の手前で、逆光気味にほんのり暗い二つのピースサインが並んでいる。ちょうどアルファベットのWのような形になった。


「うん、いい感じだ。ありがとう!」


 いわはそれで満足したようだった。

 その後、日も傾いてきたので俺たちは足早に山を下りた。校門まで戻ったころには、もう夕方になろうという時間帯だった。


「そうだ。いずくん、連絡先教えてよ」


 並木道を街の方に向かって下りながら、いわが提案してきた。


「さっきの写真、送るよ」

「ああ……ありがとう」


 そうして俺といわはLINEを交換する。

 並木が終わると分かれ道だった。俺の自宅は市内にあって、並木道から左に曲がるのだが、いわは電車通学ということで、並木道の先をさらに駅の方へと下っていくらしい。

 俺たちはそれぞれの帰途に就く。

 海上の発達した雨雲が、夕日の方へと暗い腕を伸ばしつつあった。


「うっわ、すごい雨!」


 夜、妹の声で外を見てみると、景色はまるで嵐のようだった。

 窓をたたく激しい雨の音と、風の吹き抜けるごうおんを聞きながら、俺は寝る前に、いわから送られてきた写真をもう一度眺めた。技術の進歩はすさまじい。スマホの小さなカメラとはいえ、桜と空のコントラストは高精細で鮮やかだ。

 その手前に、いわの手と俺の手が並んでいる。撮影後にグレーディングをしたのか、逆光による暗さはさほど感じられなかった。

 自信満々に胸を張るピースサインと、猫背で気の抜けたピースサイン。

 手だけでこれほど性格の差が現れるのかと、俺は感心すらした。

 嵐はなかなかまなかった。見事に満開だった桜は無残に散っていることだろう。

 ふと考える。

 ひょっとすると──

 いわと俺は、今年あのハートを見た唯一の男女になってしまったのではないか。

 もしそうだとすれば、例のくだらない迷信を前提とする場合、まずいことになる。

 一九年の間、毎年恋愛じようじゆかなえてきたという裏山の桜。

 二〇年連続の記録が達成されるかどうかは、俺といわの二人にかかってしまうことになる。

 きちんとハートが見えたことは、みずさきには絶対に秘密にしようと思った。

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とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
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