よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ⑩

 おそらくこの場所が、かんおうだいの本来の位置。つまり、俺が引き留めていなかったら、いわいのを発見できていたのだ。

 責任を取るつもりで、俺が先に倒木をよじ登った。

 そしていわに手を差し伸べる。


「これならスカートは、気にしなくて大丈夫じゃないか」

「ありがとう!」


 いわは俺の手を迷わず握ってきた。その手の感触に、一瞬腕がこわってしまった。

 二人で倒木を乗り越える。手はすぐに離した。

 いわはさっそく薄紅が切り取る領域に立って桜を眺める。


「ねえ、いずくん、すごい! きれいないの!」


 俺もいわの隣に立ち、彼女が指差す先に目を向ける。

 たちまち心を奪われた。

 二本の桜が夫婦のように寄り添って、薄紅の花で飾られた枝を重ねている。

 その間には雲一つない青空。桜によって見事なハートマークの形に切り取られていた。


「……やっぱり、ここが正しい位置だったんだ」


 いわがぽつりと言った。俺はうなずく。


「倒木があって危険だからと、気のかない誰かがかんおうだいを動かしたんだろうな」


 きっと、桜を見にくる生徒の安全を考慮してのことだったのだろう。倒木を乗り越えなくて済むようにと、冬の間にかんおうだいを倒木の手前へ移動した。しかし実際に春が来てみると、その位置が微妙に変わってしまっていたせいで、桜のハートは見えなくなっていた。

 いわは両手を胸の前で合わせ、目を潤ませさえする。


「すごい! カタクリに目をつけるなんて、いずくんのお手柄だね!」


 いわは右手をグーにして、俺の方へ差し出してきた。俺も控えめに右手を握って、その拳と軽くぶつける。


「これはいわさんの手柄でもある。俺一人じゃまさか倒木を越えようなんて思わなかっただろうから。枝が折れているかどうかも、きっと確かめなかった」

「そう? じゃあ、二人の手柄」


 いわは笑顔で言うと、桜の方に向き直って手を合わせる。まるで祈りをささげるかのように目を閉じた。何やらお願い事をしているらしい。

 俺も桜を眺めながら、この素直な少女の高校生活がさいさきのよいものになることを願った。


「ありがとう、付き合ってくれて」


 改めていわに礼を言われ、反応に困る。


「いや、別に……俺も楽しかった。突き詰めて考えれば、こんなふうに謎が解けるなんて」

「科学の勝利だね!」


 これもまたおおな言い方だが、別に間違ってはいないのだろう。

 課題や疑問があればまずは対象を観察し、学んできた知識を総動員して客観的に可能性を絞り込む。そこから仮説を立てては検証していく。研究活動と規模やスパンの違いはあれど、今回のいの探しもある程度まで科学的な営みと言えるはずだ。


「元科学部らしい表現だ」


 そよ風が吹き抜けて、桜の花びらが俺たちを包んだ。いわは楽しそうに言う。


「私、科学が大好きなんだ。世界中の人たちが集めた英知を使って、身近な謎と向き合える。巨人の肩に乗って、自分の住む街を見渡せる。こんなに楽しいことってないよね」


 いわの言葉をはんすうする。巨人の肩から、自分の街を──面白い。

 さすがなが高校。こうも異色の考えをもつ同級生がいるとは思ってもみなかった。

 入学早々そんな人と巡り会えた幸運に、おのずと胸が高鳴るのを感じる。


「……その視点はなかったな」

「そう? いずくんも科学のこと好きそうに見えたけど」

「確かに研究は面白いよ。でもそれは、自分の力で人類に貢献できる可能性を感じさせてくれるからだ。科学はあくまで人類の可能性を広げるための営みだと思ってる──思ってた」


 春の風をゆっくりと吸い込んでから、俺は付け加える。


「でも確かに、巨人の肩から自分の周りを見てみるのも悪くはないな。こうしてきれいな景色を見ることができたし」


 うなずいわうれしそうだった。


「少し見方を変えるだけで、世界はこんなに素敵になるんだね」


 実に優等生らしいまとめ方だ。俺の口からは脅されてもそんな言葉は出てこないだろう。

 その後に俺がとった行動は、突発的というか、ある種、事故のようなものだったのではないかと思う。春の陽気に浮かれたまま、そういう気分になってしまったのだ。


「もしよかったら、これはいわさんが持って帰らないか」


 かばんから、レジ袋に入ったカタクリを取り出す。どうせこんなことをするならもう少しいい袋にしておけばよかった、と後悔しながら。


「え、いいの?」

「実はもう、カタクリの標本は持ってるんだ。いわさんさえ興味があれば、押し葉標本にしてみるのはどうだろう。新聞紙や段ボールみたいに簡単なもので作れる」


 俺は普段、こんなことを初対面の女子に提案するような人間ではない。しかしいわほど、話が合うというか、同好の士と言えるような人に出会うことはまれだった。少しばかり調子に乗っていたのかもしれない。

 土の残ったカタクリと、しわだらけのレジ袋。女子への贈り物にしてはあまりに粗末なものだったが、いわうれしそうに受け取った。


「作ってみるね、ありがとう!」


 ハート──ではなくいのも見ることができたし、そろそろ下山しようということになった。

 かんおうだいの本来の場所から出る前に、いわは思い出したようにスマホを取り出した。カメラを起動して桜に向ける。

 カシャリと何度かシャッターの音。それでもスマホを構えたまま、いわは何やら考える。


「……どうした?」


 くと、いわは悩ましげにうーんとうなった。


「きれいなんだけど、これだと、今年撮ったものだって写真だけでは分からないね」


 確かに、去年までの写真ならば世間にあふれているはずだ。今年見つけたという希少性を大事にしたい気持ちは理解できる。


「今日の朝刊でも写すか」


 冗談で言ってみると、いわは割と真剣にこちらを見てきた。


「え、新聞、持ってるの?」

「いや、持ってない。冗談で言った。悪かった」

「そんなに謝らなくても……今日のカレンダーをいずくんのスマホに表示させて撮るという手もあるけど、なんだか誘拐犯みたいだし、雰囲気が損なわれちゃうかな」


 それもそうだ。


「自撮りでもすればいいんじゃないか。それか、俺がいわさんを入れて撮る」


 いい提案だと思ったのだが、いわは少し顔をしかめて首を振った。


「私の顔なんて……そんな、わざわざ写すほどのものじゃないよ」


 いやいやご謙遜を──という言葉を、喉の辺りでみ込んだ。

 みずさきも言うように、いわの容貌は並大抵のものではなかったが、それはさておき、写真は撮りたいが自分は写りたくないという気持ちは俺にもよく分かる。

 少し考えてから、いわは自分のスマホのカメラの前に空いた手を差し出した。


「何してるんだ……?」

「私の手を写せばいいかな、と思って」


 何かを写し込むことにこだわりがあるようだった。だが確かに、いわの手を入れた写真ならば、それはただの風景写真ではなく唯一無二のものになり得る。

 理屈としては分からないでもなかった。


刊行シリーズ

とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-の書影