おそらくこの場所が、観桜台の本来の位置。つまり、俺が引き留めていなかったら、岩間は猪目を発見できていたのだ。
責任を取るつもりで、俺が先に倒木をよじ登った。
そして岩間に手を差し伸べる。
「これならスカートは、気にしなくて大丈夫じゃないか」
「ありがとう!」
岩間は俺の手を迷わず握ってきた。その手の感触に、一瞬腕が強張ってしまった。
二人で倒木を乗り越える。手はすぐに離した。
岩間はさっそく薄紅が切り取る領域に立って桜を眺める。
「ねえ、出田くん、すごい! きれいな猪目!」
俺も岩間の隣に立ち、彼女が指差す先に目を向ける。
たちまち心を奪われた。
二本の桜が夫婦のように寄り添って、薄紅の花で飾られた枝を重ねている。
その間には雲一つない青空。桜によって見事なハートマークの形に切り取られていた。
「……やっぱり、ここが正しい位置だったんだ」
岩間がぽつりと言った。俺は頷く。
「倒木があって危険だからと、気の利かない誰かが観桜台を動かしたんだろうな」
きっと、桜を見にくる生徒の安全を考慮してのことだったのだろう。倒木を乗り越えなくて済むようにと、冬の間に観桜台を倒木の手前へ移動した。しかし実際に春が来てみると、その位置が微妙に変わってしまっていたせいで、桜のハートは見えなくなっていた。
岩間は両手を胸の前で合わせ、目を潤ませさえする。
「すごい! カタクリに目をつけるなんて、出田くんのお手柄だね!」
岩間は右手をグーにして、俺の方へ差し出してきた。俺も控えめに右手を握って、その拳と軽くぶつける。
「これは岩間さんの手柄でもある。俺一人じゃまさか倒木を越えようなんて思わなかっただろうから。枝が折れているかどうかも、きっと確かめなかった」
「そう? じゃあ、二人の手柄」
岩間は笑顔で言うと、桜の方に向き直って手を合わせる。まるで祈りを捧げるかのように目を閉じた。何やらお願い事をしているらしい。
俺も桜を眺めながら、この素直な少女の高校生活が幸先のよいものになることを願った。
「ありがとう、付き合ってくれて」
改めて岩間に礼を言われ、反応に困る。
「いや、別に……俺も楽しかった。突き詰めて考えれば、こんなふうに謎が解けるなんて」
「科学の勝利だね!」
これもまた大袈裟な言い方だが、別に間違ってはいないのだろう。
課題や疑問があればまずは対象を観察し、学んできた知識を総動員して客観的に可能性を絞り込む。そこから仮説を立てては検証していく。研究活動と規模やスパンの違いはあれど、今回の猪目探しもある程度まで科学的な営みと言えるはずだ。
「元科学部らしい表現だ」
そよ風が吹き抜けて、桜の花びらが俺たちを包んだ。岩間は楽しそうに言う。
「私、科学が大好きなんだ。世界中の人たちが集めた英知を使って、身近な謎と向き合える。巨人の肩に乗って、自分の住む街を見渡せる。こんなに楽しいことってないよね」
岩間の言葉を反芻する。巨人の肩から、自分の街を──面白い。
さすが綱長井高校。こうも異色の考えをもつ同級生がいるとは思ってもみなかった。
入学早々そんな人と巡り会えた幸運に、自ずと胸が高鳴るのを感じる。
「……その視点はなかったな」
「そう? 出田くんも科学のこと好きそうに見えたけど」
「確かに研究は面白いよ。でもそれは、自分の力で人類に貢献できる可能性を感じさせてくれるからだ。科学はあくまで人類の可能性を広げるための営みだと思ってる──思ってた」
春の風をゆっくりと吸い込んでから、俺は付け加える。
「でも確かに、巨人の肩から自分の周りを見てみるのも悪くはないな。こうしてきれいな景色を見ることができたし」
頷く岩間は嬉しそうだった。
「少し見方を変えるだけで、世界はこんなに素敵になるんだね」
実に優等生らしいまとめ方だ。俺の口からは脅されてもそんな言葉は出てこないだろう。
その後に俺がとった行動は、突発的というか、ある種、事故のようなものだったのではないかと思う。春の陽気に浮かれたまま、そういう気分になってしまったのだ。
「もしよかったら、これは岩間さんが持って帰らないか」
鞄から、レジ袋に入ったカタクリを取り出す。どうせこんなことをするならもう少しいい袋にしておけばよかった、と後悔しながら。
「え、いいの?」
「実はもう、カタクリの標本は持ってるんだ。岩間さんさえ興味があれば、押し葉標本にしてみるのはどうだろう。新聞紙や段ボールみたいに簡単なもので作れる」
俺は普段、こんなことを初対面の女子に提案するような人間ではない。しかし岩間ほど、話が合うというか、同好の士と言えるような人に出会うことは稀だった。少しばかり調子に乗っていたのかもしれない。
土の残ったカタクリと、皺だらけのレジ袋。女子への贈り物にしてはあまりに粗末なものだったが、岩間は嬉しそうに受け取った。
「作ってみるね、ありがとう!」
ハート──ではなく猪目も見ることができたし、そろそろ下山しようということになった。
観桜台の本来の場所から出る前に、岩間は思い出したようにスマホを取り出した。カメラを起動して桜に向ける。
カシャリと何度かシャッターの音。それでもスマホを構えたまま、岩間は何やら考える。
「……どうした?」
訊くと、岩間は悩ましげにうーんと唸った。
「きれいなんだけど、これだと、今年撮ったものだって写真だけでは分からないね」
確かに、去年までの写真ならば世間に溢れているはずだ。今年見つけたという希少性を大事にしたい気持ちは理解できる。
「今日の朝刊でも写すか」
冗談で言ってみると、岩間は割と真剣にこちらを見てきた。
「え、新聞、持ってるの?」
「いや、持ってない。冗談で言った。悪かった」
「そんなに謝らなくても……今日のカレンダーを出田くんのスマホに表示させて撮るという手もあるけど、なんだか誘拐犯みたいだし、雰囲気が損なわれちゃうかな」
それもそうだ。
「自撮りでもすればいいんじゃないか。それか、俺が岩間さんを入れて撮る」
いい提案だと思ったのだが、岩間は少し顔をしかめて首を振った。
「私の顔なんて……そんな、わざわざ写すほどのものじゃないよ」
いやいやご謙遜を──という言葉を、喉の辺りで吞み込んだ。
水崎も言うように、岩間の容貌は並大抵のものではなかったが、それはさておき、写真は撮りたいが自分は写りたくないという気持ちは俺にもよく分かる。
少し考えてから、岩間は自分のスマホのカメラの前に空いた手を差し出した。
「何してるんだ……?」
「私の手を写せばいいかな、と思って」
何かを写し込むことにこだわりがあるようだった。だが確かに、岩間の手を入れた写真ならば、それはただの風景写真ではなく唯一無二のものになり得る。
理屈としては分からないでもなかった。