よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ⑨

 いわはそう言ってスクールバッグを俺に託すと、当然のような顔をして倒木に手をかけた。

 身体からだを器用にさばいて枝をけながら、その幹に足を乗せる。


「待て、危ない」


 いわは動きを止め、不思議そうに振り返ってくる。


「あれ、でも別に、枝も頑丈そうだし……」

「そうじゃなくて……その、なんだ」


 言いづらくて言葉を切ってしまったが、言いかけてしまったのでうやむやにできなかった。


「……ほら、スカートが」


 俺は一歩下がり、視線をらして指摘した。いわがもう一歩を踏み出せば、はほぼ確実に俺の視界に入ってしまう予定だった。


「あっ……」


 いわは慌てて倒木から戻ってくる。


「ごめんね! 夢中になってて気付かなかった。うわあ、悩んだんだけど、私はやっぱりスラックスの方がよかったかな」


 まあ俺が後ろを向いていればいい話ではあったが、いわも女子としてのきようがあるのか、倒木を越えて向こうへ行くのは中止となった。俺からスクールバッグを受け取ると、いわは耳を赤くしたままそのファスナーを開く。


「そういえば双眼鏡を持ってるんだった。使えるかも」


 と言って取り出したのは、折りたたみできるタイプの、コンパクトな双眼鏡だった。

 あまりにも準備がいい。


「どうして双眼鏡なんか持ち歩いてるんだ」

「ほら、通学中とかさ、鳥さんを見たくなること、あるでしょ」

「……そうか?」


 スカートのことがあったからか、いわは若干しどろもどろだった。


「あのね、入学祝いで、お父さんに買ってもらって」


 暗緑色のボディが美しい双眼鏡を俺に見せてくる。スワロフスキーだ。いわ本人が知っているかは分からないが、かなり高級な代物のはずである。

 いったいどんな父親なのか、そもそもこんなものを学校に持ってきてよいのか、本当に通学途中にバードウォッチングをしているのか、など様々な疑問が脳を駆け巡った。だがここは、まつなことは気にせず、問題解決に注力すべきだろう。


「一〇倍か。それで桜を見れば、枝の具合がここからでも確かめられそうだ」

「うん、やってみよう」


 いわは双眼鏡をのぞいて、慣れた手つきでピントを合わせる。


「えーっと、そうだなあ……あれ? うーん」


 しばらく探してから、いわは双眼鏡を下ろし、俺に差し出してくる。


「私には、折れてるのは分からなかった。いずくんも見てみて」

「……いや、俺は別にいい」


 同じクラスの女子がさっきまでのぞいていた双眼鏡をのぞくのには、なんというか、ちょっとした抵抗があった。


「見落としの可能性が低くなるし、ほら!」


 かなり厳密に調べようとしていたらしい。そこまで固辞する理由もないので、俺は双眼鏡を受け取った。眼鏡を額に上げてからのぞく。


「……すごいな。この大きさで、こんなにはっきり見えるなんて」


 照れ隠しではないが、まず真っ先に、双眼鏡の感想が出てきてしまった。


「でしょ! 小型なのに明るくて、森の中でもよく見えるんだ」


 話がれてしまった。俺はスズメたちの遊ぶ桜の枝を丁寧に観察する。確かに、枝が大きく破損したような痕跡は見られなかった。


いわさんの言う通りだ。折れたわけじゃないらしい」

「だとすると、どうしていのじゃなくなったんだろう。もしかすると去年、枝が伸びすぎちゃったのかな?」


 少々考えてみる。その可能性は低いと思った。


「それはない。桜はぜんねん──前の年に伸びた枝に花をつける。花がついている部分はどれもそこまで長くない。これだけ大きな木になると、枝先が一気に伸びて樹形が変わるなんてことは起こりづらいんだ。伸びたとしても、ハ──いの全体の形が変わるとは思えない」

「へえ……そんなことまで分かるんだ!」


 少しマニアックな知識だったかもしれない。

 軽く礼を言っていわに双眼鏡を返す。いわはすぐさまその双眼鏡で桜を見た。眼鏡を戻しながら、なんだか杉花粉ではないむずがゆさを目の辺りに感じた。


「うーん、折れたわけでもなくて、育ちすぎたわけでもなくて……」


 いわは双眼鏡を下ろしてつぶやく。


「だったら、どうしていのは見えなくなったんだろう?」


 薄紅が切り取る領域の形は、なぜ変わってしまったのか。

 花吹雪を浴びながら、スズメたちのさえずりを聞きながら、考える。

 そして──


「なるほど……分かったかもしれない」


 すると、いわがものすごい勢いでこちらを振り返ってきた。


いのが見えなくなった理由が?」

「ああ。それに、どうやったらハートがきちんと見えるのかということも。いわさんの言葉を借りれば、ある程度科学的に説明できると思う」

「ハート?」

「いやごめん。いのだった。ハートじゃない」


 大事なことだ。


「それで、どうしてなの?」


 いわに問われて、俺は花びらの舞う空ではなく、地面を指差す。


「ヒントは桜じゃない。


 俺の遠回しな言い方に、いわは驚いたように目を見開く。


「えええ? どういうこと?」

「桜の枝は折れてもいなかったし、大きく伸びてもいなかった。桜の樹形が変わったわけじゃないとしたら、変わったのは何か」


 いわはまだ、ひらめいていない様子だった。続ける。



 しばしの沈黙。


「……え、それって、見る位置が違ったってこと?」

「そうだ。それしか考えられない。立ち位置が違えば、見える図形も当然変わってくる」

「でも、だとしたら、このかんおうだいは……」

「今年から、んだ。そして正しい位置を教えてくれるのが──」


 再びかんおうだいの周囲に咲くカタクリを指差す。


「カタクリだ」


 いわはまだ気付いていない様子だ。俺は続ける。


「カタクリはスプリング・エフェメラル。花を咲かせるには、およそ八年間、春先にだけ光合成をして、養分をめる必要がある。でも、かんおうだいがあったらどうだ?」


 いわも気付いた様子で、頰がほんのり赤く上気する。


「台があったら太陽の光を浴びられないから、光合成ができない!」

「ああ。桜が切り取るいのは、去年まで一九年間、毎年見えていた。かんおうだいは長い間、正しい位置にあったんだ。つまり

「すごい、科学的だ!」


 どうやらいわは、科学的という言葉がよっぽど好きらしい。


「一面カタクリの咲いているこの周辺で、一ヶ所だけ、なぜかカタクリの咲いていない場所があっただろ。そこに立てば、この仮説が検証できる」

……!」


 いわは待ちきれないように動き出した。ついていく。倒木の先をのぞくと、登山道の脇に、カタクリの花の薄紅色が一切見当たらない区画が存在した。

 いわがわざわざ倒木を乗り越えようとしたのは、この花のない領域から桜の木に近づこうとしたためだった。


刊行シリーズ

とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-の書影