よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ⑧

 周囲の地面は桜の花びらだけでなく、カタクリの花々でも埋め尽くされている。登山道の外のかんおうだいは、このカタクリが見物客に踏まれないようにする役割も兼ねているのだろう。

 まだ緑の濃くない裏山で、この空間は一番色鮮やかな場所かもしれなかった。


「うーん……」


 しかしいわは、どこか納得していない様子だ。


「……ねえ、いのってどれのことだろう。幸せになれる模様が見えるはずだよね」

「そういえばそんな話もあったな」


 あくまで興味のないふりをして言った。


いのってどんな模様か、いずくん知ってる?」

「ううん、いや、どうだったか……」


 曖昧に終わればいいなと思っていたが、そうはいかなかった。いわがスマホを取り出して調べ始めてしまったのだ。


「……分かった?」


 くと、いわはしばらく画面を見てからうなずく。


「うん。いのって、イノシシの目って書いて、ハートみたいな模様のことを言うらしいよ」

「あー、なるほどな。だからかんおうだいもハートみたいな形をしているのか」

「そっか、そういうことかもね!」


 演技は下手な方だが、純真ないわは俺の知らなかったふりを疑っていない様子だった。

 いわはスマホの画面から、桜の方へと視線を戻す。


「でもおかしいね、あんまりいのらしい形は見えないけど……二本の木の間にある大きな隙間が、もしかしたらそうなのかな」


 夫婦めおとの桜はそれぞれ満開の枝を広げ、視界を薄紅で埋め尽くしている。二者の間にはぽっかりと穴があり、青空が切り取られて見えた。しかしそれはゆがんだ逆三角形。どう解釈しても、ハート──いやいのと呼べるような形ではなかった。


「これをいのと呼ぶのは厳しいんじゃないか」

「そう、だね……」


 思っていたよりも沈んだ声が聞こえてきて、俺はいわを振り返る。

 桜の木のいたずらかもしれない。だがいわの顔には、わずかに影が差しているように見えた。

 そうか。

 全く期待していなかった俺と違い、いわは幸せになれる模様を楽しみにしていたのだ。


──高校生活、さいさきよくしたいじゃん!


 山に入る前の、いわの言葉を思い出す。素直な優等生は面白そうなうわさを聞き、おまじないレベルの話とはいえ幸せを求めて裏山に登った。

 だが、そんな幸せは存在しなかった。

 みずさきは言っていた。いのだろうがハートだろうが、今年は誰も見ることができていない。きっとすでに失われてしまったのだろう。あいつはとんでもない罪を犯した。俺をおちょくりたいばかりにいわを巻き込み、彼女につかめない幸せを追わせたのだ。

 はなから期待を抱かないことより、期待を裏切られることの方がよっぽどつらい。

 俺はなんとかして励まそうと言葉を探す。


「この冬は風が強かった。枝が折れて、ハ──いのも崩れたんじゃないか。ほら、木だって倒れてるくらいだ」


 すぐ先で道を塞いでいる倒木を、俺は指差した。


「でも……倒木は桜にぶつかってないよね」


 いわの言う通り、倒木と二本の桜とは接触しそうにない位置関係だった。


「桜の枝が風で折れた可能性だってある。仕方ないことだ」


 いわはまだ顎に手を当てて、じっと桜を見ている。


「ほんとかな。まだ分からないよ。枝の折れた痕跡が見つかったわけじゃないし」

「あ、ああ……」


 思わず困惑の声が漏れてしまった。

 どこか様子がおかしい。いわまなしはこれまでにないほど真剣だった。

 裏山に幸せの桜を見にきた楽しげな少女の横顔ではなく、俺のよく知る研究者の横顔。


「……あ! ごめん!」


 突然いわが元の顔に戻り、俺の方を見てきた。


「忘れて! 私、分からないことがあるとすぐ本気になっちゃう悪い癖があって……天気が崩れるといけないし、帰ろっか!」


 その笑顔は明るかったが、これまでの「見たかよあのスマイル」とは性質が違うことに俺は気付いていた。

 少なくとも今は、心から笑っているわけではない。

 まだ天気はもちそうだ。幸せをつかむ手伝いはできないにせよ、納得できるまで付き合うくらいしても罰は当たらないだろう。


「いや、この場で検証できることは、検証してから帰ってもいいんじゃないか。別に、後ろに用事があるわけじゃない。みずさきによれば、去年まで一九年間、桜のいのは見えていたらしい。今年突然見えなくなったのなら、何か理由があるはずだ」


 少しだけ、俺の真意を探るような間があった。


「……一緒に調べてくれるの?」

「ああ。植物に関する考察なら、俺も少しは手伝えるかもしれない」

「本当に……?」


 やたらと確認してくる。まあ枝が折れているかどうか確かめるくらいなら、さして時間もかからないだろう。俺はうなずいた。

 いわの顔に、「見たかよあのスマイル」がぱあっと戻ってくる。


「ありがとう! じゃあ検証してみようか……科学的に!」


 突然飛び出してきた言葉に、俺は若干の戸惑いを覚える。


「科学的に?」

「うん。今まで見えていたはずのいのが、どうして今年、突然見えなくなったのか──それをきちんと、科学的な態度で突き止めてみたい」


 身の回りのちょっとした謎を解明するのに「科学的」とは、ずいぶん仰々しい言い方だ。

 いわはすでにフォルムチェンジと言って差し支えがないほどひようへんしていた。

 前のめりになっているというか、前しか見えていないというか、とにかく優等生という枠に収まり切らない熱のようなものがほとばしっているように感じられる。

 面白い人だと思った。

 会話の端々からにじているように、いわは相当な科学好きなのだろう。理系の端くれとして、その探求に付き合ってみるのも悪くはない。


「よし。じゃあまずは、枝が折れていないかどうか確認しよう。ここからじゃよく見えない。桜の木に近づいてみるか」

「そうだね! ……でも、花は踏まないようにしないと」


 いわに言われて地面を見る。登山道に沿って満遍なく咲くカタクリの花。日当たりがいいためか、道を外れるとどうやってもカタクリを踏んでしまうほどに密生している。


「どこか、花を踏まずに桜の木まで近づける道はないかな」


 いわはそう言いながら、さっそく周囲を調べ始めた。登山道は二本の桜から一定の距離を保つようにしてぐるりとかいしている。見た範囲ではほぼ全面にカタクリが咲いていた。


「あ、いずくん! この倒木の向こうなら、行けそうかもしれない」


 いわに呼ばれて、倒木の向こう側をのぞく。確かにカタクリの花の全く咲いていない部分があって、そこを通ればある程度まで桜へ近づけそうだった。


「でも、この倒木には立ち入り禁止のテープが──」

「立ち入り禁止とは書いてないよ。黄色と黒がしましまになってるだけ!」


 危険な発言が飛び出してきて、度肝を抜かれる。いわの探求心は並大抵ではないようだ。だが俺も、相手がいわでなければ同じ理屈を使っていたかもしれない。


「……危なくないか?」

「平気平気! いずくん、ちょっと持っててくれない?」



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とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-の書影