周囲の地面は桜の花びらだけでなく、カタクリの花々でも埋め尽くされている。登山道の外の観桜台は、このカタクリが見物客に踏まれないようにする役割も兼ねているのだろう。
まだ緑の濃くない裏山で、この空間は一番色鮮やかな場所かもしれなかった。
「うーん……」
しかし岩間は、どこか納得していない様子だ。
「……ねえ、猪目ってどれのことだろう。幸せになれる模様が見えるはずだよね」
「そういえばそんな話もあったな」
あくまで興味のないふりをして言った。
「猪目ってどんな模様か、出田くん知ってる?」
「ううん、いや、どうだったか……」
曖昧に終わればいいなと思っていたが、そうはいかなかった。岩間がスマホを取り出して調べ始めてしまったのだ。
「……分かった?」
訊くと、岩間はしばらく画面を見てから頷く。
「うん。猪目って、イノシシの目って書いて、ハートみたいな模様のことを言うらしいよ」
「あー、なるほどな。だから観桜台もハートみたいな形をしているのか」
「そっか、そういうことかもね!」
演技は下手な方だが、純真な岩間は俺の知らなかったふりを疑っていない様子だった。
岩間はスマホの画面から、桜の方へと視線を戻す。
「でもおかしいね、あんまり猪目らしい形は見えないけど……二本の木の間にある大きな隙間が、もしかしたらそうなのかな」
夫婦の桜はそれぞれ満開の枝を広げ、視界を薄紅で埋め尽くしている。二者の間にはぽっかりと穴があり、青空が切り取られて見えた。しかしそれは歪んだ逆三角形。どう解釈しても、ハート──いや猪目と呼べるような形ではなかった。
「これを猪目と呼ぶのは厳しいんじゃないか」
「そう、だね……」
思っていたよりも沈んだ声が聞こえてきて、俺は岩間を振り返る。
桜の木の悪戯かもしれない。だが岩間の顔には、わずかに影が差しているように見えた。
そうか。
全く期待していなかった俺と違い、岩間は幸せになれる模様を楽しみにしていたのだ。
──高校生活、幸先よくしたいじゃん!
山に入る前の、岩間の言葉を思い出す。素直な優等生は面白そうな噂を聞き、おまじないレベルの話とはいえ幸せを求めて裏山に登った。
だが、そんな幸せは存在しなかった。
水崎は言っていた。猪目だろうがハートだろうが、今年は誰も見ることができていない。きっとすでに失われてしまったのだろう。あいつはとんでもない罪を犯した。俺をおちょくりたいばかりに岩間を巻き込み、彼女に摑めない幸せを追わせたのだ。
端から期待を抱かないことより、期待を裏切られることの方がよっぽどつらい。
俺はなんとかして励まそうと言葉を探す。
「この冬は風が強かった。枝が折れて、ハ──猪目も崩れたんじゃないか。ほら、木だって倒れてるくらいだ」
すぐ先で道を塞いでいる倒木を、俺は指差した。
「でも……倒木は桜にぶつかってないよね」
岩間の言う通り、倒木と二本の桜とは接触しそうにない位置関係だった。
「桜の枝が風で折れた可能性だってある。仕方ないことだ」
岩間はまだ顎に手を当てて、じっと桜を見ている。
「ほんとかな。まだ分からないよ。枝の折れた痕跡が見つかったわけじゃないし」
「あ、ああ……」
思わず困惑の声が漏れてしまった。
どこか様子がおかしい。岩間の眼差しはこれまでにないほど真剣だった。
裏山に幸せの桜を見にきた楽しげな少女の横顔ではなく、俺のよく知る研究者の横顔。
「……あ! ごめん!」
突然岩間が元の顔に戻り、俺の方を見てきた。
「忘れて! 私、分からないことがあるとすぐ本気になっちゃう悪い癖があって……天気が崩れるといけないし、帰ろっか!」
その笑顔は明るかったが、これまでの「見たかよあのスマイル」とは性質が違うことに俺は気付いていた。
少なくとも今は、心から笑っているわけではない。
まだ天気はもちそうだ。幸せを摑む手伝いはできないにせよ、納得できるまで付き合うくらいしても罰は当たらないだろう。
「いや、この場で検証できることは、検証してから帰ってもいいんじゃないか。別に、後ろに用事があるわけじゃない。水崎によれば、去年まで一九年間、桜の猪目は見えていたらしい。今年突然見えなくなったのなら、何か理由があるはずだ」
少しだけ、俺の真意を探るような間があった。
「……一緒に調べてくれるの?」
「ああ。植物に関する考察なら、俺も少しは手伝えるかもしれない」
「本当に……?」
やたらと確認してくる。まあ枝が折れているかどうか確かめるくらいなら、さして時間もかからないだろう。俺は頷いた。
岩間の顔に、「見たかよあのスマイル」がぱあっと戻ってくる。
「ありがとう! じゃあ検証してみようか……科学的に!」
突然飛び出してきた言葉に、俺は若干の戸惑いを覚える。
「科学的に?」
「うん。今まで見えていたはずの猪目が、どうして今年、突然見えなくなったのか──それをきちんと、科学的な態度で突き止めてみたい」
身の回りのちょっとした謎を解明するのに「科学的」とは、ずいぶん仰々しい言い方だ。
岩間はすでにフォルムチェンジと言って差し支えがないほど豹変していた。
前のめりになっているというか、前しか見えていないというか、とにかく優等生という枠に収まり切らない熱のようなものが迸っているように感じられる。
面白い人だと思った。
会話の端々から滲み出ているように、岩間は相当な科学好きなのだろう。理系の端くれとして、その探求に付き合ってみるのも悪くはない。
「よし。じゃあまずは、枝が折れていないかどうか確認しよう。ここからじゃよく見えない。桜の木に近づいてみるか」
「そうだね! ……でも、花は踏まないようにしないと」
岩間に言われて地面を見る。登山道に沿って満遍なく咲くカタクリの花。日当たりがいいためか、道を外れるとどうやってもカタクリを踏んでしまうほどに密生している。
「どこか、花を踏まずに桜の木まで近づける道はないかな」
岩間はそう言いながら、さっそく周囲を調べ始めた。登山道は二本の桜から一定の距離を保つようにしてぐるりと迂回している。見た範囲ではほぼ全面にカタクリが咲いていた。
「あ、出田くん! この倒木の向こうなら、行けそうかもしれない」
岩間に呼ばれて、倒木の向こう側を覗く。確かにカタクリの花の全く咲いていない部分があって、そこを通ればある程度まで桜へ近づけそうだった。
「でも、この倒木には立ち入り禁止のテープが──」
「立ち入り禁止とは書いてないよ。黄色と黒が縞々になってるだけ!」
危険な発言が飛び出してきて、度肝を抜かれる。岩間の探求心は並大抵ではないようだ。だが俺も、相手が岩間でなければ同じ理屈を使っていたかもしれない。
「……危なくないか?」
「平気平気! 出田くん、ちょっと持っててくれない?」