よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ⑦

「植物のことも勉強したの? カタクリの話、化学じゃなくて生物の分野だと思ったけど……すごく詳しかったよね。押し葉標本も化学部では作らなさそう」

「ああ……それはまあ。色々あって」


 適当に誤魔化すと、いわはにこりと笑いかけてくる。


「植物、好きなんだね」

「好きというか……憧れるんだ」

「植物に?」

「そう。まっすぐだからな、植物は」


 少しだけ首をかしげるいわを見て、言葉が足りなかったことに気付く。


「植物はいつだって、自分らしい生き方をまっすぐに生きてる。そこに憧れるんだ」


 いわは意外そうな顔でこちらを見てきた。すぐ、取り繕うような微笑に戻る。


「……迷いなく生きてるのって、確かにちょっと羨ましいかも」

「だよな」


 もうかなり歩いただろうか。振り返れば、校舎の屋上がずっと下に見えた。

 いわが立ち止まったので目を上げると、向こうから男女二人があいあいとしゃべりながら下りてくるところだった。いわは端に寄って道を譲った。俺もならう。


「せっかく登ったのにねー、マジ期待外れ」

「まあ仕方ない。この冬は風が強かったからな」


 そんなことを言いながらすれ違う二人はどうやら上級生だ。派手な見た目で、距離感からしてカップルらしい。二人そろって俺たちをいちべつすると、にこにこと手を振ってきた。

 いわが頭を下げたので俺も軽く一礼する。目をらすのにちょうどいい口実だった。

 カップルとすれ違ったことで、目指す桜をいわだと思ってしまわないか不安になったが、心配はいらないようだった。いわはこれまで通りの調子で先を歩く。

 山は静かだった。みずさきいわく「超人気スポット」のはずだが、他に人が全然いない。ずいぶんと登ってきたが、すれ違ったのはさっきの上級生カップルだけだ。


「あ、あれじゃないかな!」


 いわがカーブの先を指差した。

 追いつくと、前方に桜の薄紅色が見えた。周囲には水彩で描いたような新緑が多いが、そこだけ油性の絵の具を垂らしたかのごとく鮮やかに桜の花が咲き乱れている。ちょうど満開だ。

 近づくにつれ、ちゅんちゅんと楽しげな鳴き声が聞こえてくる。

 よく見れば、桜の木にたくさんのスズメがとまっている。彼らは無邪気に花を根元からかじり取り、蜜だけ吸っては地面に捨てる。この食べ方ではスズメが花粉を運ぶことはないため、とうみつと呼ばれたりもしている。桜にとっては百害あって一利なしの客。


らつろうぜきだな」

「でもスズメさんたちって、わいいから許せちゃうよね」

「そうか……?」


 俺たちは桜の手前でなんとなく立ち止まった。周囲の木々にもたくさんのスズメたちが群れていた。いわはその様子をいとおしそうに眺めている。


「私、スズメは神様がデザインした生き物だと思うんだよね」


 突然、冗談でもなさそうな感じで、突飛なことを言ってきた。


「小さくて丸っこいフォルムに、真ん丸な目、それに何よりほっぺたの黒い斑点! きっと、神様がとんでもなくわいい生き物を創ろうと思って考え出したんだよ」


 俺がぜんとしていると、いわあせったように胸の前で両手を振る。


「もちろん冗談だけど……時代はネオダーウィニズムだよね」


 などと言いながら、いわは桜の方に身体からだを向けた。

 俺の中で渦巻いていた疑惑が確信に変わる。ネオダーウィニズムとは、かのダーウィンが提唱した自然とうの概念を新たな知見によって増強してきた、現代版進化説のこと。

 優等生なら先取りして勉強していてもおかしくはないだろうが、こんな話を日常会話の中でするりと繰り出してくるのであれば話は別だ。どうやらただの優等生ではないらしい。

 いわはエンジョイ勢などではない──どう考えてもガチ勢だ。


 大きな二本のヤマザクラは、山の斜面の谷側に、お互い寄り添うように立っていた。登山道はある程度まで桜に近づくと距離を保ったままかいする方向に曲がっている。まだいの(もしくはハート)らしき形は見えない。俺たちはさらに道を進む。

 しかし、曲がった先はすぐ行き止まりになっていた。


「うわ、大変……」


 巨大な倒木だ。桜の近くでコナラの大木が根元から折れ、ずっしり道を塞ぐように横たわっている。根元の土の様子を見るに、倒れてからあまりっていない。この冬は風が強かった。きっと冬の間に倒れてしまったのだろう。黒と黄色のしま模様になったテープが、倒木の幹にぐるぐると巻かれている。

 俺たちは立ち止まった。乗り越えなければ先へは進めないようだ。なんとかよじ登れそうではあったが、テープが巻かれているということは立ち入り禁止なのだろう。


「行き止まりか」

「でもほら! 桜はそこから見るみたいだよ」


 いわが登山道の脇を指差した。道から桜に向かうようにして、二人がちょうど並んで乗れるくらいの木の台が設置されていた。なんと全体がハートの形をしている。

 台には立て札らしきものが付属していた。だが長い年月を経たせいだろう。表面を灰色の地衣類が覆っており、すっかり読めなくなっている。落ちていた枝を使ってべりべり剝がすとようやく文字が現れた。

 いわく──かんおうだい。そう書かれた下には説明も添えられている。


 草花を大切に! 登山道から外れず、桜はこの上から見てください♡

 平成一六年度 卒業生一同


 卒業制作らしい。そう思って見てみると確かに造りは粗かった。二〇年前の高校三年生が木材を切って組み上げたのだろう。材料は木目の調子から広葉樹のようで、長い年月を経ても傷まず残っている。おそらくクリの木だ。硬くてタンニンを多く含む材は湿った場所でも腐りにくく、建物の土台や線路の枕木などに利用されてきた。

 いわかんおうだいの説明を──もしかすると文末のハートを見てから、台に乗って桜を見た。


「いい眺め! ここからだと、確かに桜が一番よく見えるのかも」


 感動した様子のいわの後ろで、俺は登山道に立ったまま動かなかった。


「あれ? いずくんもおいでよ! 汚れてるけど、案外頑丈だよ!」


 いわは無邪気に誘ってくるが、そういうことではない。

 このハート形の台はあからさまにカップル用だった。


「どうしたの?」


 首をかしげるいわ。「いやあ、女の子と二人でハートに乗るなんて、ちょっと照れくさくてね」などと俺が断れるわけもなく、俺は何も気にしない顔をしていわの隣に並んだ。

 設計者は策士に違いない。かんおうだいの絶妙な大きさは、二人で並んで乗れそうに見えながらも実際に乗ってみると窮屈なもので、少し動いたら肩が触れ合ってしまいそうだ。

 できるだけ意識しないようにして桜を眺める。

 登山道より少し桜へ近づけるように置かれた台だ。近すぎず、遠すぎず、満開になった二本のヤマザクラがちょうど視界を覆うように見えた。

 思わず息が止まる。

 世界すべてが春になったかのようだ。


「なるほど……きれいだ」


 ソメイヨシノよりも濃い薄紅の花弁は、少しの風にも舞い上がって、俺たちへと降り注いでくる。にぎやかに盗蜜するスズメたちがぽとりぽとりと花を落としていく。


刊行シリーズ

とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-の書影