よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ⑥

 葉がすっかり落ちてしまう冬は、地面まで日の光が届く。この新芽の季節は、薄緑の葉が枝をまばらに飾って、空を見上げるとまるでステンドグラスを見ているような気分になる。

 桜もまた、この落葉樹だ。明るい森に栄える、日向ひなたの人気者。


「ねえ、いずくん!」


 いわが立ち止まって、振り返ってきた。


「たくさんカタクリが咲いてる。珍しいよね。この山、多いのかな」


 まだ茶色の多い地面。ところどころに、紫がかった薄紅の花が群れている。細長い花びらが反り返って咲く様子は小さなかざぐるまのようで美しい。


「ああ。カタクリは、ここみたいな落葉樹の林に多いんだ」


 植物名を出されたものだから、自然と口が動いてしまった。

 よくない兆候だ。急いで口をつぐむ。完全に自覚していることなのだが、俺は語り始めると長い。付き合いの浅い人の前では、特に気を付けて自重している。


「え、どうして?」


 いわが興味深そうにこちらを見てきてしまった。


「ごめん……話すと長くなる。気にしないでくれ」

「え、聞きたい! 歩いてる間、話してよ」


 むしろリクエストされてしまった。

 まあ、沈黙よりはマシかもしれない。俺は少しだけ話すことにした。


かたくりってあるよな。料理でとろみづけに使ったりする」

「うん。料理で使ったことはあんまりないけど、ダイラタンシーの実験で三キロくらい使ったことがあるよ!」


 …………?

 なんだか奇抜な発言をされた気もする。かたくりを三キログラムも使わなければいけない実験があるのだろうか。少なくとも、化学実験のはんちゆうではない気がした。


「ダイラタンシー?」

「あ、ごめんね、私おかしなこと言った! 気にしないで」


 いわはなぜか申し訳なさそうに言って俺を促した。俺もダイラタンシーというのが何かよく分からなかったので、続ける。


「……かたくりって、今じゃジャガイモから作られてるのがほとんどだけど、もとはこのカタクリから作られてたんだ。いわさんなら知ってるかな」

「カタクリの根っこのデンプンが原料だったんだよね。だからカタクリ粉」

「そう。カタクリはけいの部分に、養分となるデンプンを蓄える植物だ。何年もかけて少しずつ蓄える栄養を増やして、種が発芽してから八年くらいするとようやく初めての花が咲く」

「八年……そんなに長生きなんだね、小さな花なのに」

「それがカタクリの生存戦略だ」


 南向きの斜面。新芽のまぶしい木の下で、カタクリは日を浴びてはかない栄華を誇っている。

 俺の口はすでに止まらなくなっていた。


「太陽の光は、まだ木に葉の茂っていないこの時期にならまっすぐ地面に届く。カタクリは、暖かくなってきてから、緑が濃くなって地面が日陰になってしまうまでの、ほんの二、三ヶ月だけ光合成のために葉を広げるんだ」

「二、三ヶ月だけ? 確かに夏になると見ないけど……」

「そう。その間に作った栄養を地下茎に蓄える。木の葉が茂ってきて、地面に太陽の光が届かなくなると、カタクリは地下茎を残して枯れてしまう。そうやって長い間、少しずつ成長を重ねていく生き方だから、花が咲くまでに長い年月がかかる。夏から冬にかけて、長い冬眠をしてるみたいなものだ」

「なるほど、だから落葉樹の林なんだね」


 いわは納得したようにぱちんと手をたたいた。


「地面が日向ひなたになる、葉っぱの落ちてるときだけ、光合成ができるから。冬からずっと葉が茂ってるような森の中だと、日陰になって栄養がめられない」


 理解が早くて助かる。

 カタクリの生存戦略は、冬に葉が落ちる森でしか成り立たないのだ。


「そう。春の一瞬しか地上に姿を現さないから、カタクリみたいな生き方をする植物はこんな呼び方をされることがある──」

「スプリング・エフェメラル!」


 いわが答えを先に言ったものだから、驚いた。


「なんだ、知ってたのか」

「あ、ええとね、詳しくは知らなかったんだけど……ほら、生物の教科書をぱらぱらとめくってるうちに、そういう言葉を見かけた気がして。なんだかわいいな、って思ってたんだ」

「すごい記憶力だ」


 教科書販売があったのはつい最近だ。俺はまだどれも開いてすらいない。

 スプリング・エフェメラル──春のはかなき者。和訳の説明は、いわには不要だろう。

 山道には細い丸太を渡した階段が続いている。歩く自分の呼吸が速くなっていることに気付き、しゃべりすぎてしまったと悟る。湧き出る言葉に身を任せるあまり、運動に必要な酸素の吸入すらおろそかになってしまったのだろう。そして気配りも、おろそかになっていた。

 物知りぶって、知識をひけらかしてしまった。しかも、ほぼ初対面の女子相手に。元科学部で、さいみつじゆうてんこうぞうやスプリング・エフェメラルといった用語まで知っているのだから──エンジョイ勢を自称していたが、きっと科学の知識だってそれなりに豊富なはずだ。

 そんな相手に、俺は──

 いわが立ち止まった。


「……どうした?」

「ごめんね、私、知ったかぶりをしちゃって……この分野、あんまり詳しくないのに」


 本当に申し訳なさそうな顔をしている。おかしなところを気にするものだ。


「知ったかぶりというのは、知らないことについて知っているふりをすることだろう。知っている用語を知っていると表明するのは何も間違ったことじゃない」

「そうかな……でも私、スプリング・エフェメラルなんて教科書で軽く流し読みしたくらいだし、カタクリの根っこだって、実際に見たことがあるわけじゃないし……」


 ちょうど手近に折れた枝があったので、俺はそれを手に取る。


「そういうことなら、前半はもう解決したわけで、後半はこうやって解決できる」


 近くの地面を吟味して、軟らかそうな土に生えているカタクリのそばに枝をずぶりと突き刺した。それを何度か繰り返し、カタクリを土ごと掘り起こす。丁寧に土を払っていくと、茎がわずかに太くなっただけに見える小さな白いりんけいが現れた。

 いわは俺のカタクリ採集を、目を丸くして見ていた。まあ花を掘り起こすのは少し野暮だったかもしれないが、高校の敷地なのだろうから学習活動ということで大目に見てほしい。


「これがカタクリのりんけい──つまり地下茎だ。実際には根じゃなくて、ジャガイモと同じように茎の部分に栄養がまる」


 手渡すと、いわは「ありがとう」と言いながら、ガラス細工でも触るような手つきで慎重に受け取った。しげしげと夢中になってりんけいを見つめる。指で触り、つまむ。


「小さい……」

「昔はかたくりを作るのも一苦労だっただろうな」


 かばんからコンビニのレジ袋を取り出して、広げる。いわから返されたカタクリはそこに入れ、空気を含ませてから口を結んだ。いわはその一連の動作を興味深そうに眺めてくる。


「それ、どうするの?」

「持って帰って、押し葉標本にでもしておこうかと思って」


 押し葉標本とは、簡単に言えば、植物を押し花のように潰して乾燥させた標本だ。もうカタクリの標本は家にあるので、ここで捨ててしまってもいいのだが、いわの前でそれをやるのは気が引けた。レジ袋はかばんにしまう。

 今日の目的は桜だった。俺たちはまた山道を歩き始める。


いずくんって、化学部だったんだよね。バケガクの」

「……そうだけど」


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