よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ⑤

「信頼できる先輩。ともかく、一九年の奇跡はれっきとした事実だぜ」

「……確率の問題だろ。有名な桜で、毎年何組も見ていれば、そりゃ一組くらいはじようじゆするかもしれない。それに二人でそんな伝説がある桜を見にいくほどの関係なら、桜の力を借りなくたって、恋は勝手にじようじゆしそうなものだ」

「まったくなあ、論理的すぎる男はモテないぜ」


 少し肩をすくめてから、みずさきはにやりと笑って俺を見てくる。


「でな、大事件ってのには続きがあるんだ」

「そうなのか」

「そうなのだよ」


 インパクトを狙おうとしているのか、みずさきはすうっと息を吐いて間を空けた。


「その先輩によるとな、実は今年、そのハートマークを見た人はって話だ」

「……どうして」

「いや、それが気になってるんだけどな。どうも、形が崩れて、お世辞にもハートには見えなくなってるらしいぜ」

「残念だ」


 恋愛じようじゆの期待を胸にわざわざ裏山へ分け入って、ハートが見られなかった男女。想像してみるとかわいそうだ。むしろ恋路を邪魔されたような気分になるに違いない。

 はなから期待を抱かないことより、期待を裏切られることの方がよっぽどつらいものだ。


「ま、百聞は一見にかずだ。とにかく見にいってみようぜ。面白そうじゃんか」

「ああ」


 ずいずい歩いていくみずさきの案内に、俺は大人しく従った。

 フェンス沿いに進んでいくと、体育倉庫か何かの裏に出た。そこで道が広くなっていて、プラスチック製のベンチまで置かれている。運動部員が休憩に来る場所だろうか。あまり使われないらしく、びたスチール缶や泥まみれの硬球などが隅に転がっている。


「この辺りで山に入るはずなんだけどなあ」


 などと言いながら、みずさきは周囲をぐるりと見回した。

 そして突然、俺に向き直る。


「あ。いっけね」


 なんだかわざとらしい言い方だった。


「悪い、今日はどうしても外せない用事があるんだった。また明日な」

「は?」

「絶対埋め合わせする! ミニトマト箱買いしてやるから、許してくれ。じゃ!」


 みずさきは片目を閉じて顔の前で手を合わせ、すたこらさっさと走り去ってしまう。しかも、来たのとは反対方向に。

 急いで帰るなら、最短ルートは来た道を戻るはずなのだが、なぜだろう。そう思って来た道を振り返り──俺はみずさきが突然いなくなった理由を悟る。

 そしてその理由は、みずさきが反対方向へ走っていったことも十分に説明し得るものだった。

 道の向こうから、が一人で歩いてくる。

 ──いわだった。


「あれ、デルタくん、どうしてこんなところに?」


 いわはスクールバッグを持っていた。帰る途中なのだろう。俺の前で立ち止まった。


「ちょっと強制連行されて……ちなみに、無理してデルタと呼ばなくて大丈夫だ」

「そう? じゃあ、いずくん」


 そちらの方がよっぽどいい。「デルタくん」という呼び方は、あまりうれしくないのだ。


いわさんはどうしてここに?」

「私? 実はちょっと面白そうな話を聞いて、調べにきたんだ」


 なんだか不穏なものを感じた。とても不穏なものを。


「……面白そうな話って?」

「この裏山にね、見ると幸せになれる有名な桜があるらしくて。入学の時期にだけ、いのっていうけの模様が浮かび上がるんだって! どうしても気になって、見にきちゃった」


 なるほど。少しずつ状況が分かってきた。

 名探偵でなくても、この状況が偶然によってつくられたものではないことくらい察する。


「……それってもしかすると、みずさきから聞いた話か?」

「うん! よく分からないんだけど、何かのおびにって、いのの話を教えてくれて」


 あの野郎……。


いずくんも、もしかするとみずさきくんから聞いてここに?」

「……まあ、聞いてというか、連れられてというか」


 ちなみにいのとは、要するにハートマークのことである。恋愛じようじゆなのかけなのか、どちらが本当の伝説かは知らないが、みずさきは相手によって巧みに話を変えて、ここで俺といわを引き合わせたのだろう。まったく詐欺師の爪のあかみたいなやつだ。


「あれ、でも、みずさきくんは?」

「用事があるとか言って、帰ったよ」


 俺を置いて。


「そうなんだ……みずさきくんもいのに興味あるみたいだったのに。かわいそう」


 今日のあいつが何かに興味をもっていたとすれば、その対象はきっと、俺にいわをぶつけてみたらどんなことが起こるかという一点のみだったことだろう──などと考えながら、少しいわの発言に違和感を覚える。


「……かわいそう? みずさきが?」

「うん。だって今夜、すごい低気圧が来て、かなり荒れる予報だよね。せっかくの花も、全部散っちゃいそうだから」

「なるほど、今日を逃したらチャンスはないってことか」


 ここまで話して、なんとなく、あくまでなんとなく、俺は非常に不都合な展開を予期していた。タチの悪いことに、みずさきいわに恋愛じようじゆの話を伝えていないらしい。いわはこの裏山の桜を、単に幸運を呼ぶ有名スポットだと思っている。

 そしてさらに悪いことに、いわは俺も桜を見にきたと知ってしまった。

 この流れだと、いわは──


「じゃあせっかくだし、いずくん、一緒に見にいかない?」


 楽しそうに、例の「見たかよあのスマイル」を浮かべるいわ


「あー……」

「あれ、もう帰るつもりだった?」

「いや別に、そういうわけではないんだけど」

「じゃあ行こうよ! 高校生活、さいさきよくしたいじゃん!」


 高校生活、さいさきよく……か。

 断りづらかった。というか断るための理由がない。ここであえて恋愛じようじゆの話をもち出して「二人だと気まずくなるから」なんて、俺に言えるはずがないのだ。

 すべてはみずさきの狙い通り。あいつはきっと、日陰者の俺にこれだけまぶしい日光を当てたらどうなるか想像して、きっとどこかでわくわくしていることだろう。

 考える。

 そうすると──これはむしろ、何もないことを証明してやるチャンスではないだろうか。

 俺の生き方はこの程度じゃ揺るがないのだと、あいつに示してやればいい。


「まあ、そうだな。せっかくだし見にいこうか」

「うん! 探しにいこう、幸せの桜!」


 いわはそう言うなり、待ちきれないように山道へと入っていく。標識などはなかったが、他に山へ登る道は見当たらない。この道でいいのだろう。

 気まずくて、俺はいわの少し後ろを遅れて歩いた。明るい森だ。足元には去年のドングリがころころ落ちている。裏山の森は、このドングリの生産者たち──すなわちクヌギやコナラを中心としたらくようこうようじゆりんだ。

 秋に葉を落とすから、落葉。葉が広く平らだから、広葉樹。そういう樹木の多い林である。

 本来、温暖なこの地域は、冬になっても葉を茂らせている広葉樹の林になる気候帯なのだが、人が山に入っては木を伐採してきたため、成長の早い広葉樹が多くなっている。

 そして、落葉樹の森は明るい。


刊行シリーズ

とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-の書影