よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ④

「うん! 科学捜査で使う、血液があると光る反応だよね」


 さすが元科学部。話が早くて助かる。


「そう。血液がかなり微量でも検出できるのが面白くて。証拠隠滅を図る犯人役と証拠を見つける鑑識役に分かれて捜査ゲームをやったりしたんだ。結局、予想通りに鑑識側が圧勝したけどな。俺たちはあれで触媒反応の素晴らしさを思い知った」


 俺は鑑識役だった。犯人役のみずさきが思いつく限りの方法を使って血痕をぬぐい取っても、化学の力の前には無力であった。あのときのみずさきの悔しそうな顔は今でもおぼえている。

 気がつけば、いわが小さく口を開いたまま、ぽかんとこちらを見ていた。

 ──いけない、しゃべりすぎてしまった。

 一般人の前でこれをやると、こうした反応を引き起こすことがほとんどだ。ミニトマトのシンフォニーについて話したときは、みずさきにすら苦笑いされてしまったことがある。


「ごめん、聞き流して」


 俺が言うと、いわははっとしたように首を振る。


「あっ、ううん、そうじゃなくって──」


 そうじゃなくてどうなのかは、ついに分からなかった。


「おやおやデルタ、まったく油断ならないぜ。デキる男は手が早いなあ!」


 みずさきが満面の笑みを浮かべて、いわの隣に座ってきた。殺してやろうかと思った。


「あ、えっと……みずさきくん!」


 いわが眉を上げてにこやかに応じた。

 前の席ならまだしも、ほとんど教室の反対側の席に座るみずさきの名前までおぼえているとは、さすが服を着て歩く優等生だ。一年C組四〇人、昨日顔を合わせたばかりである。

 みずさきも名前を呼ばれたことで意表を突かれたのか、いわの前で固まった。この男が演技でなく固まる瞬間にはあまりお目にかかることがない。


「……おう。すごいないわさん、クラスメイトの名前、もうおぼえてるのか」

「一応ね。でもみずさきくんだって私の名前をおぼえてくれてるよ」

「ま、そりゃあ、天下のいわさんですから?」


 なんて言いながら、みずさきは普段のにやにやを取り戻して、俺といわを見てきた。控えめに染めた髪色は、教室の光環境下ではほとんど黒だった。


「えっ、私ってそんなに有名なの?」

「もちのろんさ。有象無象の山の中にこうやって美しい桜が一本咲き誇ってたら、誰でも気になっちゃうものですよ。なあ、デルタ」


 俺にくな。

 話を合わせたりしないぞ、という意思表示で俺はミニトマトを頰張る。

 俺が答えないのを見て、いわはにこっと笑いみずさきく。


「あの、みずさきくん……デルタって?」


 話をらすのがい。きっとこうやって、過去にもチャラい男をかわしてきたのだろう。

 しかしよりにもよってこの男が喜びそうな話題であった。


「お! いいこといてくれるなあ。デルタってのは、ここにいるいずしようの本名なんだぜ」

「ええ? デルタが本名なの……?」


 絶対にうそだと分かっていながら、いわは嫌味なく純粋にいた。


「そう。いずってのは戒名みたいなものでさ。中学時代はみんなからデルタって呼ばれてたんだ。いわさんもぜひ、デルタって呼んであげてよ」

「人を勝手に殺すな」


 まったく、いい加減なことをぺらぺらと……。

 そうこうしているうちに予鈴が鳴る。

 急いで弁当の残りを平らげている間に、昼休みは終わってしまった。


「大事件があったらしいぜ」


 みずさきがこう言うときは、たいていあまりにもさいな出来事である。


「それは大変だな、早く帰ろう」


 靴を履き替え、昇降口を出る。授業も終わり、後は帰るだけだ。


「おいおい、帰っちゃダメだ。悪かったって。昼休みのこと、まだ怒ってるのか?」

「俺はあれくらいで怒ったりはしない。でもいわさんに対しては相当失礼だったからな」

「いやあ、そうだよなあ。失敗した。『みずさきくん』って名前呼ばれた瞬間に、脳内ぱあっと桜色になっちまった」

「脳内桜色は元々じゃないか」

「まあ確かに、脳細胞の白とヘモグロビンの赤で、脳みそって薄紅色に近そうだよな」


 本当に、くだらないところで弁の立つ男だ。


「反省しろよ」

「安心してくれ。だるがらみしちゃってごめんって、きちんとさりげなく謝っておいた」


 割と反省していたようでほっとする。みずさきはそのコミュニケーション能力の代償としてたまに無神経でずうずうしいことをしてしまう男だが、心根のところは案外きちんとしたやつなのだ。


「……で、大事件って?」


 俺がくと、みずさきは急に立ち止まった。満面の笑みがこちらを見てくる。


「裏山にな、桜が二本、生えてるんだ」

「裏山?」


 振り返る。校舎越しに、少し高台となった森が見える。

 ながの街は、南が太平洋に面していて、他の三方を山に囲まれている。海から北へ行くにつれ、標高は少しずつ高くなっていく。我らがなが高校はその北部に位置している。校門は南の海を向いていて、校舎を挟んだ背後、グラウンドの向こうには山があるわけだ。


「そうそ、裏山。ここからは見えないけど、とにかく桜が二本あるんだぜ。隣り合って生えていて、夫婦めおとざくらとか呼ばれてるらしい。超人気スポットだ」

「よかったな」

「よかっただろ。で、この桜、なんと今が見頃だとか」


 なるほど、見にいこうという話か。


「割と遅咲きの種類なんだな」

「だな。で、その桜には伝説がある──非常に興味深い伝説だ」


 うなずいて促す。


「二本の桜がな、花の咲く時期、それはそれはきれいなハートマークを作るんだそうだ。で、それを見た男女は──なんと必ず結ばれる」

「男女限定なのか? この令和の時代に」


 茶々を入れると、みずさきは少し真剣そうに首をかしげる。


「うーん、それは言葉のあやっていうか。別に男女じゃなくてもいいとは思うけどな。要するに恋愛じようじゆってことだ」

みずさきは、その桜を俺と一緒に見にいきたいんだな」

「ま、そういうことだ」


 楽しそうな返事を受けて、俺はあえて少しの沈黙を挟む。


「……それは、告白と捉えていいのか」

「ばっ……そりゃ、デルタは大事な親友だけどさ……べ、別に俺はデルタのこと、そういうふうに思ったりとか……してるわけじゃないんだぜ?」


 ということで裏山へ行くことになった。

 校門を出ると、下っていくイチョウ並木の向こうに街の中心部が見える。そのさらに向こうには海。明るい太陽が波をちらちらと光らせていた。今日は天気が崩れる予報だったが、まだしばらくはもちそうだ。

 並木道を下らず、学校の裏手へ向かう脇道に入っていく。細い道だが舗装されていた。敷地が山に囲まれているから、グラウンドの方へ何かを搬入するときにはこの道を使うのだろう。


「でも疑わしいよな。見れば必ず結ばれるなんて、ちょっと探せば簡単に反例が見つかりそうなものじゃないか?」


 俺の指摘に、みずさきはちっちっと人差し指を振る。


「まあな、確かに必ずってのは言いすぎかもしれない。でもここ一九年間、毎年一組は成功例があるって話だ。すげえだろ?」

「そんなさんくさい話、誰から聞いたんだ」


刊行シリーズ

とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-の書影