よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-

第一章 薄紅が切り取る領域で ③

 うっすらと日に焼けた指で、いわは俺の机を指差した。

 二段重ねになっていた弁当箱の、一方はすべてミニトマト。ちなみにもう一方には、梅のふりかけで味付けした白米と残りのおかずがきちきちに詰められている。


「おいしいからな、ミニトマトは」


 理由になっているのか分からない俺の答えに、いわは花が咲くようににこっと笑った。

 みずさきの言葉を借りれば、「見たかよあのスマイル」だ。


「うん! おいしいよね、ミニトマト」


 同じ内容を繰り返されるだけで、まるで自分のすべてを肯定されているかのような気持ちになってしまう。恐ろしいほどの人心掌握能力である。


「でも、そんなにたくさん食べて飽きない? 親御さんとけんしたのかと思っちゃった」


 どうやらいわは、親が腹いせにミニトマトを詰めたのではないかと疑っていたらしい。しかし違うのだ。そうではない。


「いや、好きでこの量を食べてるだけだ。これでももの足りない」


 ミニトマトのシンフォニーについて小一時間語れる自信はあったが、控えておく。代わりにミニトマトの入った弁当箱をいわに見せた。すでに数個食べてしまっているが、残りも隙間なく詰められているため、パズルのように動かない。


「すごい! さいみつじゆうてんこうぞうだ!」


 想定していなかった言葉がいわの口から飛び出してきて、困惑した。

 俺の表情の変化を敏感に読み取ったらしく、いわは慌てて両手を振る。


「あ! 私、おかしなこと言った! ごめんね、効率よく詰まってるねって言いたくて」

「そんな、別におかしいとは──」

「ということはいずくん、お弁当自分で作ってるんだ」


 強引な話の切り替えにちょっとした違和感を覚えながら、俺はまあいいかとうなずく。


「作ってるというほどでもないけど」


 ほとんど詰めているだけだ。ミニトマトを。


「偉いね! 私、マ──お母さんに作ってもらってて」


 何もおかしな会話はしていないのに、慌てて話題を変えようとしているかのようだった。

 いわの手がすっと動き、自分の弁当を開いて見せてくる。バランスよく詰め合わせられたおかずに、小さな梅干しの載った白米。自分の弁当箱の中身を、ほとんど初めてしゃべる男にこうも自然に見せるあたり、警戒心の低さというか、人のよさというか、いい家庭で育ってきたのだろうなと邪推してしまう。



 というかさっき、ママって言いかけていたか。

 弁当箱を持つ指先を見ると、爪がきれいにそろえられている。武道か水泳でもやっているのだろうか。

 ……いけない、つい観察してしまった。自然に聞こえるよう会話を続ける。


「別に、作ってもらえるならいいんじゃないか。うちは両親とも東京に勤めてて、朝が早いんだ。だから自分で用意してる」

「へえ! そうなんだ! 私のお母さんは家で仕事する人だからいっつも甘えちゃってるんだよね。高校生になったんだし、今度は自分で作ってみようかな」


 言いながら、いわは漆塗りの箸を取り出した。

 家で仕事をする人とは、なんだろう。プログラマー、デザイナー、ライター……自宅が店舗になるのであれば、他にも可能性はありそうだ。しかし自宅と店舗がつながっている場合は、家で仕事をするとは言わない。自宅に人を入れる個人塾などはありそうだが……。

 いわが小さく首をかしげるのが見えた。俺は目をらして、ミニトマトを口に放り込む。ヘタごと食べてしまったが、出すわけにもいかずみ込んだ。トマトのヘタ特有のハーブのような香りが、ほんのりこうをくすぐる。

 何をしているんだ。別に興味があるわけでもないのに、いわの家庭環境をあれこれと詮索しようとしている。まったく気持ちが悪い。

 いわは丁寧な箸使いで白米を小さくとって、口に入れる。少量をもぐもぐとしっかりしやくする様子は、小さく揺れるポニーテールもあいって、どこかウサギやげつるいを思わせた。

 ポニーテールを結ぶのは、昨日も今日も同じ、装飾のない黒のヘアゴム。

 やはり俺の思い過ごしだろう。


いずくんはもう、部活って決めた?」


 いわの方から新しく話題を振ってきた。俺は椅子の上で身体からだをずらして横向きに座り直す。


「部活は……いや、まだかな。体験入部してから決めようと思ってる」

「そっか。そうだよね。私もまだ、迷っててさ」


 みずさきの予想通り──というか期待通り、自然な流れでいわと話すことになってしまった。

 ちなみにいわの左隣はやんちゃそうな男子だ。仲間とつるんでどこかに出掛けている。


いわさんは入りたい部活、考えてる?」


 礼儀として同じ質問を返すと、いわは「うーん」とうなる。


「そうだなあ、お母さんには運動部にしておきなさいって言われてるんだけど、私、そんなに運動得意じゃないし……」


 ご謙遜を。いわは背が高めだが、きやしやではない。骨格からして、運動は何でもこなせてしまいそうな印象だ。


「中学では? 何部だった?」


 いてみると、いわは口に何かが入っているわけでもないのに、少し躊躇ためらった。


「えっとね、おかしな部活だよ。いずくん、聞いたら笑っちゃうかも」

「別に笑ったりはしない」


 かくれんぼ研究会とか、お嬢様部とかだったら……笑ってしまうかもしれないが。


「ほんとに?」


 そんなにおかしな部活なのかと身構えながらも俺はうなずく。

 いわはどこか後ろめたそうに、小さく口を開く。


「私……実はカガク部だったんだ。ほら、ミョウバンの結晶育てたりとか、星を見たりとか、植生調査をしたりとか……あんまり真剣に活動してたわけじゃなくて、ただのエンジョイ勢だったんだけど」


 エンジョイ勢の是非はともかく、別に笑う要素なんてどこにもないじゃないかと思う。


「へえ、実は俺も──」


 化学部だったんだ、と言いかけて、違和感に気付く。ミョウバンはまだいいとして、化学部が星を見ることはない。植生調査もかなり怪しいところだろう。


「カガク部って、サイエンスの?」

「そう! のぎへんの科学部!」


 科学と化学。意味が近くて発音が同じだから、たまにこうした勘違いが生じる。


「全然おかしな部活じゃないと思うけどな。実は俺も、カガク部だったんだ。とはいっても、ケミストリーの方の化学部だけど。バケガク部」

「ええーっ、そうなの?」


 大きな声で反応してから、いわははっと口を塞いだ。

 しかし俺は、その黒い瞳が、レトリックではなく本当に、きらっと輝いたのを見逃さなかった。少しこちらに身を乗り出してきたから、角度の関係で蛍光灯が反射したのかもしれない。

 いわは次の言葉を、わずかに潜めた声で言う。


「確かにいずくん、白衣が似合いそうだね」


 そんなことは初めて言われた。褒め言葉のように聞こえたが、おそらく違う。むしろ「いかにもインドアっぽい」ということのえんきよく表現だろう。どんな表現でも褒めているように響かせられるのは、この優等生の特技なのだと思った。


「白衣は実際に割と着てたからな。週三回の活動で、半分は実験だった」

「例えば? どんな実験?」

「面白かったのを挙げるなら……ルミノール反応とか。いわさんは知ってる?」


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とっておきの論理を、君と。 -デルタとガンマの理学部ノート3-の書影
この青春に、別解はない。 -デルタとガンマの理学部ノート2-の書影
よって、初恋は証明された。 -デルタとガンマの理学部ノート1-の書影