「優等生が服を着ずに歩いてたら困るだろ」
「細かい男はモテないぜ。で、優等生っぽいってのには同意?」
「まあ、そういうタイプなんだろうなとは思った」
あれで成績が悪かったら噓だろう、なんて感じてしまうくらいには、岩間は優等生然としていた。きっとクラスメイトや教師からの信頼を集めるに違いない。学級委員長には、ほぼ確実に選ばれるだろう。多分スポーツもできて、部活勧誘では運動部から引っ張りだこになる。
なにせ、桜なのだ。岩間理桜、名前に桜を負う優等生。
毎年春になれば誰からも注目される、あの人気者の桜なのだから。
「でさでさデルタ、俺、天才的な発見をしちゃったんだぜ」
水崎は曰くありげな視線を俺に向けてきた。
「天才的な発見?」
「ああ。なんと、デルタと岩間さんの、奇跡的な共通点だ。知りたいだろ?」
別に知りたいわけではなかったが、水崎は話したいのだろう。顎をしゃくって促す。
「まずデルタっていう苗字の由来を思い出してくれ」
「そもそも俺の苗字は出田だけどな」
デルタとは、中学時代に起きたある事件に由来する綽名である。俺の先祖が三角州に棲んでいたなどという歴史的経緯は存在しない。水崎はこの誤読を高校でも広めたがっているようだが、まったく勘弁してほしいものだ。
「まあ細かいことはいいって。で、岩間さんだ」
劇的な効果を狙っているかのように、水崎は少し間を置いた。
「……『岩間』っていう字を、重箱読みにしてみろよ」
岩間──岩、間──がん、ま──ガンマ。
「ほら、な? な?」
水崎は数学の証明問題をたった三行で答える方法でも閃いたかのように得意げだった。
「お前がデルタで、彼女はガンマ。α、β、γ、δ……出席番号が隣なだけじゃなくって、ギリシャ文字にしても隣なんだ。な? これってすごくないか?」
「それはとてもすごいな」
「無感動に賞賛しないでくれって。なあ、絶対何かの縁があるって! なんなら会話のきっかけに使ってくれたって、俺は一向に構わないんだぜ」
「どうして会話のきっかけが必要なんだよ」
「何を言ってる、お近づきになるために決まってるじゃんか」
見れば、水崎はまた気持ちよさそうに車道の日向を歩いている。春の明るい日光に照らされたフェリシアン化鉄(Ⅲ)水溶液みたいな色の髪は、水崎によく似合っていた。ハチドリだかクジャクだか知らないが楽しそうで結構なことだ。
「お近づきにはならない。俺のキャラを知ってるだろ」
水崎はやけににこにこしながらこちらを振り向く。
「分からないぜ。運命っていうのは、ときに冗談みたいな悪戯を仕掛けてくるものさ」
「俺にお近づきになる気がないと言っている。運命が何をしたって変わらないはずだ」
「悲しいことを言うなあ。仮にもクラスメイトなんだ、仲よくすればいいのに」
「タイプが違うだろ。どう見たって、俺とは生き方が違う人だ」
「でもさ、考えてみろよ」
俺の話もそこそこに、水崎は人差し指をぴんと立てた。
「すでに条件は完璧すぎるくらいに整ってるんだぜ。デルタと岩間さんの席は、教室の一番廊下側の列。さらに岩間さんはその一番後ろだ。つまりな、座った状態の岩間さんは、左隣か前にしか話し相手がいないんだ。で、岩間さんの前の席は誰だと思う?」
「思うも何も、俺だ」
入学直後の席は出席番号順。うちのクラスには逢沢だとか荒砂だとか、「あ」で始まる人がやたら多く、俺と岩間は、出席番号が一番若い廊下側の列の一番後ろに並んでいる。
「な? それにきっと他の教室でも、出席番号の関係で、デルタと岩間さんは近いはずだ」
周期表の暗記用に自作した語呂合わせを押し売りしてきたときのように、水崎はやたらぐいぐい迫ってくる。何か裏でもあるのかと疑いたくなるくらいだ。
「……ずっと俺の近くにいなきゃいけないなんて、かわいそうだな」
「なぁに言ってんだ。デルタの近くって、別に居心地の悪い場所じゃないぜ!」
「嬉しいことを言ってくれるが、そんなふうに思うのは水崎くらいのものだ」
水崎は快活に笑う。
「かもな!」
もちろん俺は、周囲に害を及ぼすわけではない。しかし、対外的に活発な人間ではない。社交的な人間ではない。日向を行く人間ではない。
いわゆる日陰者──言ってしまえば陰キャである。
前か左にしか話し相手がいない状況で、前の人間がプリントを後ろに回すだけの日陰者だったら、岩間はきっと寂しい思いをするだろう。
彼女はどう見ても人と交わり日向を行くタイプで、こちら側の人間ではないのだから。
緩やかな上り坂となっているイチョウ並木の向こうに、綱長井高校の校門が見えてきた。石を高く積んだ古風な門は、県内随一の進学校らしい風格を堂々と放つ。
並木のイチョウは薄い黄緑の新芽を出し、青空の下で樹の全体を朝日に輝かせている。
今日はいい陽気だが、夕方から天気が崩れ、夜には嵐が来るという予報だった。
昼休み、水崎は「他クラスの偵察」とやらでどこかへ消えてしまった。俺は同行する理由もなく、自席で弁当箱を広げる。自分で詰めてきたこだわりの弁当。といっても、その半分を占めているのはミニトマトである。
ところでミニトマトは、農業の歴史が辿り着いた一つの到達点だと思う。
その薄い皮の内側には自然の奇跡と人類の英知が詰まっている。爽やかな酸味と飽きない甘みのバランス。よく水を弾く皮は洗いやすく、それでいて食べやすい。一口サイズだから刃物もいらず、手を汚さずに食べられる。直売所で買えば値段も手頃。水耕栽培やハウス栽培の発達によって年中購入することが可能だ。
一粒をぷちっと嚙みながら、俺はその細胞に織り込まれた遺伝情報に思いを馳せる。アンデス山脈に自生していた、小さな実しかつけない祖先。味もきっと酸っぱくて渋かっただろう。それを人類が栽培化して、代を重ねながら少しずつ自分たちの好みへと改良していった。生物の遥かな進化の歴史と、人類の長い努力の歴史が、この一粒一粒に刻まれている。その奏でるシンフォニー! 太陽を浴びた植物が、光合成という巧妙なシステムによって得たエネルギーを使い、数多の遺伝子を動員することで、気の遠くなるような工程を経て多様な物質を生み出しているのだ。それが舌の上で味と香りの絶妙なバランスを実現している。人類が一からこの仕組みを再現することなど到底できまい。奇跡と言わずして何と呼ぶのか!
「ミニトマト、好きなの?」
突然声を掛けられ、驚いて後ろの席を振り返る。
岩間理桜が、大きな目を丸くしてこちらを見ていた。俺はすぐに視線を落とす。
「あ、ああ……まあ」
間抜けな返事をしてしまったと思い、付け加える。
「……そんなにおいしそうに食べてたか」
言ってから、岩間からは俺の背中と後頭部しか見えていなかったはずだと思い至る。馬鹿なことを口走ってしまった。
「ううん。だってすごい数。お弁当にこんなにミニトマトが入ってる人、初めて見たかも」