第一章　薄紅が切り取る領域で ①

　まったく春というのは浮かれた季節である。

　冬の間は茶色に乾いていた世界から瑞（みず）々（みず）しい緑が突然湧き出してくるかと思えば、いたるところでぽんぽんと花が開き始める。霜に抑え込まれていた地球の生気が、北風の緩みを察知するなり我慢できずに噴出してくるかのようだ。

　気が早いのは、やはり梅だろう。

　まだ寒さに首を縮めながら歩いているところに、香水の品評会でもやっているのかという濃密なにおいの風が吹いてくることがある。梅が咲いているのだ。その枝先の赤や白に気付いてようやく、ああもうこんな季節か、と思い至るのが毎年の恒例である。

　梅の香りとともに、俺の鼻もむずむずとしてくる。杉だ。

　戦後、復興のために木材の需要が急増し、政府は拡大造林政策の名のもと馬鹿みたいな量の杉を植えてしまった。そんな先人たちの報いを、現代の俺たちが受けている。日本各地で咲く杉の雄花が嫌がらせのような黄色い花粉を煙のごとく撒（ま）き散（ち）らし、人間の目や鼻を攻撃する。鼻水たらたらでくしゃみをしている間に、梅の花は散っている。

　すると真打の登場だ。

　なんといっても春の極めつきは桜だろう。

　一種類の植物に、日本全国があれほど浮かれることが他にあるだろうか。南から順々に咲き始め、天気予報でさえもその開花を毎日報じるのは、江戸時代に開発されたソメイヨシノという品種だ。一つの個体から接（つ）ぎ木（き）や挿（さ）し木（き）で増やされたソメイヨシノは、すべてクローン、いわば分身である。全部の木が同一の遺伝子をもつため、同じ場所では一斉に咲く。

　ほんのりと薄紅に色づいた花がぱあっと開けば、さあ花見だということでお祭り騒ぎ。近所の公園に繰り出して、子供は桜餅を食い、大人はビールを飲みまくる。日本に一〇〇はくだらない桜の名所は大勢の客でごった返す。

　関東ではそのすべてを経験してからようやく四月が訪れる。

　するともう、体力のない俺はへとへとになってしまうわけだ。暖かい春の陽気にはしゃぐ力は残らない。せいぜい道端に溜（た）まって茶色くなった桜の花びらでも見ながら、依然猛威を振るう杉の花粉にずるずると洟（はな）を啜（すす）るのが精一杯である。

　それはたとえ、青春とやらの真っただ中へ足を踏み入れるだとか羨（せん）望（ぼう）される新高校一年生であっても、なんら変わりはしないのだった。

「おはようデルタ！　最高の朝だな！」

　やたらと明るい声に呼び掛けられて、ため息をついてから振り返る。

　見慣れた男がにやにや笑いながら大きく手を振っていた。

　俺は小さく手を上げて返事をしてから、そのまま前に向き直った。少しペースを落として歩いていると、奴（やつ）はいかにも最高の朝を楽しんでいそうな様子で俺の横に並んでくる。

　水（みず）崎（さき）隆（りゆう）一（いち）。毎日が楽しさの最高記録を更新しているとかで、いつもこんな調子で挨拶をしてくる。そうした陽気な内面に違（たが）わず、どこかチャラチャラとした雰囲気の男だ。

「おい、高校生活二日目にして、すでになんだか雰囲気が暗いぜ」

「日陰を歩いてるからな」

　燦（さん）々（さん）と差してくる朝日は、道の東側を歩けば家々に遮られる。ただでさえ暖かいのに、ブレザーに陽光を浴びてしまえば、適温を越えて暑くなるだろう。日陰を歩くのはきわめて合理的な判断である。

「なるほどそれは確かに。でもな、俺は今朝、親友に日陰を歩かれると困るんだ」

　水（みず）崎（さき）は白線を跨（また）いで車道側にずれ、日向（ひなた）へと飛び出した。

　危ないから戻ってこい、と言おうとして、水（みず）崎（さき）の行動の理由に気付く。

　雰囲気がなんだか違う──髪を染めたのだ。鳶（とび）色（いろ）というか暗褐色というか、それこそ日陰にいたら地毛からの変化には気付かないくらい控えめに。

　俺の視線を受けて、水（みず）崎（さき）はキザに顔を傾ける。

「どうだ、何か気付かないか？」

「少し禿（は）げたんじゃないか」

「む。禿（は）げたんじゃない。染めたんだぜ。いわゆる高校デビューってやつだ」

　俺たちのいた中学と違い、綱（つ）長（なが）井（い）高校には髪色に関する規則がない。それにしたって入学式の翌日に髪を染めてくるとはなかなか度胸のある奴（やつ）だと思う。ただ、その色がかなり控えめなところに関しては、チャラくなりきれない水（みず）崎（さき）らしさを感じる。

「高校デビューは感心だが、染髪なんて面倒くさくないか。月に一センチのペースで黒い髪が生えてくるんだ」

「分かってないなあ。面倒だっていいんだ。これは山火事に水を運ぶハチドリの一滴。俺はモテるため、俺にできることをしてるだけなんだぜ」

「南米に伝わるハチドリの美談を邪（よこしま）な内容に使うなよ」

「邪（よこしま）とは人聞きの悪い。男子高校生がモテたいと思うのは、クジャクの雄が美しい尾羽を伸ばすのと同じ。ほら、デルタ流に言えば『自然の道理』ってやつだ。デルタだって素材はいいんだし、もっと外見に気を遣えばいいのに」

　自然の道理とはつくづく生意気な奴（やつ）だ。

「水（みず）崎（さき）が派手なクジャクを目指すのは勝手だが、俺はカラスでも目指しておくよ」

「え、カラス？　なんでまた、わざわざそんな地味な鳥を」

「賢いからな、カラスは」

「ああなるほどな。学業に励むってことか。さすが秀才は違うぜ！」

　屁（へ）理（り）屈（くつ）を嬉（うれ）しそうに受け止める水（みず）崎（さき）。俺たちは小学校以来の仲だ。二人で交わす議論はほとんどが寸劇みたいなもので、互いの反応は大半が想定内である。

　髪を染める水（みず）崎（さき）がクジャクなら、俺は真っ黒なカラス。

　俺は誰からどう見られようと別に気にしない。水（みず）崎（さき）は目立つ日向（ひなた）を歩きたがるが、俺は静かな日陰を好んで歩く。水（みず）崎（さき）は髪にワックスを使うが、俺は多少の寝癖なら濡（ぬ）らして済ます。水（みず）崎（さき）は筋トレを欠かさないらしいが、俺は瘦せ気味の身体（からだ）を気に入っている。水（みず）崎（さき）はコンタクトにしておけと言ってくるが、俺は中学時代から眼鏡で通している。

　このくらい違っていた方が、一緒にいて心地よい。

　さすがに白線の外を歩くのは気が引けるのか、水（みず）崎（さき）は日陰に戻ってきた。

「……ところでデルタ、すっごく大事な話があるんだけどな」

　この男がこういうことを言えば、たいていくだらない内容が続く。

「なんだ」

「岩（いわ）間（ま）さんって女子がいただろ」

「ああ、俺の後ろの席の」

「ほほう、やっぱり？　やっぱり憶（おぼ）えてますか」

　にやにやと笑う水（みず）崎（さき）。

　憶（おぼ）えているも何も、出席番号が一つ違いで、入学式の座席が隣、教室内での席も前後になっているのだから、顔と名前くらいは嫌でも記憶に残る。

　岩（いわ）間（ま）理（り）桜（お）。すっきりとしたポニーテールの、いかにも優秀そうな女子生徒だった。

　その顔を見ただけで、第一印象だけで、俺とは違う世界にいると、そう分かってしまう雰囲気の。名前負けしない桜のように華やかな人だった。

「で、その岩（いわ）間（ま）がどうしたって」

「いや、めちゃめちゃ可（か）愛（わい）い人だったよなあ！」

「……すっごく大事な話っていうのはそれだけか」

「おいおい、デルタも思っただろ？　な、しゃべってたじゃんか。見たかよあのスマイル」

　確かに岩（いわ）間（ま）の容貌は、客観的にも魅力的と言えた。はっきりとした目鼻立ち、知的な印象を与える弓なりの眉、そして眩（まぶ）しすぎるほどの笑顔。

「確かによく笑う人だったな」

「だろ？　見た目だけじゃなくてさ、立ち居振る舞いから育ちのよさが滲（にじ）み出（で）てたし、しゃべり方も淀（よど）みなくはきはきして、まったく優等生が服を着て歩いてるような人だよな」