翔一が「名前は」と訊ねなかったのは、コードネームしか分からないケースがほとんどだからだ。
背神兵の素性は邪神の力でカモフラージュされている。神々に直接コントロールされている戦闘用ディバイノイドならば、カモフラージュを突破することも可能かもしれない。だが神々に武器を与えられているだけの従神戦士には、邪神本体の手による偽装は破れない。
「特殊G型背神兵『グリュプス』」
「あいつか」
グリュプスはこの次元の地球──マルチバース内では『ジアース世界』と呼ばれている──では有名な背神兵だ。
「襲われた候補生はよく無事だったな」
心配しているとは余り感じられない声音で、翔一が独り言のように漏らす。
「名月が偶々近くにいたというのもあるけど、彼女が現場に駆け付ける時間を新候補生が稼いでくれたのが大きかったわね」
その一方で、翡翠の口調は苦笑気味だった。
「ほう、何という候補生だ?」
それまで感情の揺らぎがほとんど見られなかった翔一だが、この回答には興味をそそられたようだ。──もっとも、平均的な人々に比べれば反応は希薄だったが。
「名前は新島荒士。私たちと同じ日本人の男子よ」
「ああ、ジアース世界男性で初めてのF型適合者か」
翡翠は「日本人の男子」と言い、翔一は「ジアース世界男性」と表現した。
翡翠は神々に仕える代行官だが、勤務地は富士代行局に固定されている。
それに対して翔一は、地球防衛が現在の主な任務だが他の次元へ派遣されることもある。数年前までは別次元を主戦場としていた。
異次元世界を知識としてしか知らない翡翠と、マルチバースを飛び回ってきた翔一の意識の違いが二人の言葉に反映したのだろう。
「邪神にとっても貴重なサンプルのようだな」
「兄さん……。『サンプル』なんて言い方は止めて」
翡翠が兄をたしなめる口調は、余り強いものではなかった。
「そうだな。すまん」
だからなのか、それともそういう話し方が癖になっているのか。翔一の謝罪は「悪かった」という感情が伝わってこない、淡々としたものだ。
翡翠はそれ以上、翔一を咎めなかった。
「一人の候補生に護衛の戦力を固定するのは、現実的ではないな」
「貴重な人材とはいえ、兄さんの言うとおりね……」
翔一の指摘に、翡翠がため息を吐きながら相槌を打つ。
「自衛の術を身に付けさせねばなるまい」
「……兄さんが教えてくれるの?」
「命令が出ればな」
翔一は神々に仕える正規の戦士。神々の命令無しに勝手なことはできない。
それは従神戦士の規律に則った発言だったが、傍で聞き耳を立てていた人間の代行局員には薄情なセリフに聞こえた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
荒士は陽湖、名月と共に、彼女たちの祖父の家に着いた。
木造の伝統的な日本家屋で、敷地はかなり広い。ただ敷地の大半は道場で占められ、家自体のサイズは平均的だ。平屋で、現代風に言えば2LDK+Sの間取りになる。
門柱に掛かっている表札は「片賀」。これは陽湖の母親の旧姓だ。
陽湖の祖父、片賀順充は現在この家に一人で暮らしている。家事は通いの家政婦が片付けているが、夜は一人だ。身寄りは陽湖の母以外にその兄がいるのだが、現在は仕事の関係で家族と海外に住んでいる。妻とは、十年以上前に死別していた。
順充は杖術、槍術、剣道の心得があり、若い頃は地元の警察で杖術を教えていた。警察の警杖術と順充が使う杖術は似ていても別のものなのだが、それでも警察が教えを請うほど、順充の技は優れていた。
ただ、警察の仕事はある事件が切っ掛けで辞めている。今は敷地内の道場で、子供に剣道を教える傍ら、気に入った若者を弟子に取り、商売気を抜きにして扱くのを老後の楽しみとしていた。
ちなみに荒士は、剣道教室の教え子ではない。彼は父親の縁で順充の弟子になった。荒士の父は警察の道場における順充の一番弟子とも言えるような存在で、二人の間には仕事上の関係を超えた付き合いがあった。
その友誼の厚さは、荒士の父親が殉職した直後の一時期、順充が荒士とその母の後見役を務めた程だ。後見役といっても法的なものではないが、順充が様々な形で手助けした御蔭で大黒柱を失った荒士の一家は立ち直れたという面があったのは否定できない。専業主婦だった母親の就職も、順充の口添えで何とかなった。
順充が荒士を弟子にしたのも彼の父親との縁、後見役としての手助けの一環だった。
五歳で父親を亡くした荒士にとって、順充は恩人で師匠であると同時に、父親代わりであり祖父代わりでもある。──なお、実の祖父母は父親より先に全員死亡していた。荒士は血族との縁が薄い子供だった。
「おお、陽湖。名月も良く来たな。さあ、遠慮せずに上がりなさい」
順充は二人の孫娘を、好々爺の笑みで迎えた。
「荒士。暫し道場で待っておれ」
そして荒士には、厳格な師の顔でそう命じた。
扱いの違いに、荒士は不満を覚えない。片賀順充は自分の師。父親代わりを必要していた時期を、荒士は疾うに卒業していた。
言われたとおり荒士は、無人の道場に上がって順充を待った。
板敷きの床に正座し、背筋を伸ばしたまま待つ。彼は剣道教室の生徒ではなく、杖術と槍術の弟子だった。
そのまま十五分以上が経っただろうか。
「すまん。待たせたな」
その言葉と共に順充は道場に来て、荒士の前、神棚を背にした上座に座った。
順充が腰を落ち着けた直後、荒士は平伏した。
「師匠。これまで御指導、ありがとうございました」
両手を突き、額を床すれすれまで下げた状態で、荒士が用意しておいた口上を述べる。
「礼ならば、顔を見せて言うが良い」