敵の従神戦士が少しずつ近づいているのを、鷲丞は感知した。
銃撃に費やしていたエネルギーを飛行力に回して加速したのだ。それを察知しても、鷲丞の心に焦りは生まれなかった。
現在の高度、二百九十キロメートル。第一次神域の境界面まで、あと十キロ。
現在の上昇速度は秒速三キロメートル。
相手が追い付くより、鷲丞が第一次神域を突破する方が早い。
追いつけないと、ナタリアも覚ったのだろう。
彼女の気配が消える。
瞬間移動を使ったのだ。だが神々の瞬間移動も邪神群の瞬間移動も、いったん物質転送機を経由して再ジャンプしなければ任意の場所には跳べない。
ナタリアが高度三百キロの上空に出現した瞬間、鷲丞も神域の境界面に達していた。
ナタリアが鷲丞に銃口を向ける。
彼女が引鉄を引いた直後、鷲丞の姿が消えた。
第一次神域を抜けたことにより回復した、鷲丞を加護する邪神の力による空間跳躍だ。
放たれた光弾は、熱圏の希薄な大気を虚しく切り裂いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
神々は地球を直接統治するのではなく十二の代官──『代行官』を置いた。肉体を持たぬ神々の代行官は、肉体を備えた人ではなかった。人間を超越した超人でもなければ、天使のような霊的生物でもなかった。
代行官は地球の遥か先を行く超技術で建造された巨大な人工頭脳だった。ただ「遥か先」とはいえ代行官に用いられた技術は現在地球で使用されている機械技術の延長線上にあるもの。地球人には、理解はできなくても分かり易い存在だ。自分たちの統治に対する迷信的な恐怖を和らげるため、神々は敢えて機械技術の産物を統治機構のトップに据えたのだった。
ただこの統治機構は、無人ではなかった。
十二体の代行官の内、南極に置かれている『総代行官』を除いて、代行官には『代行局』が併設されている。代行局は代行官を補佐する統治補助機構で、選ばれた人類と、神々が創造した合成人間『ディバイノイド』が勤務している。
ディバイノイドと人間の、外見上の差異はごくわずかだ。代謝機能も見掛けの上では人間と同じ。酸素を吸い二酸化炭素を吐く。有機食品を摂取して肉体を維持する。
ディバイノイドは機械部品を持たない完全有機体だが、機械技術とは異なる神々のテクノロジーで代行官と直接つながっている。代行官から直接指令を受けるディバイノイドは代行局において、人間の局員よりも上位に位置する。
とはいえ、人数は人間の局員の方が圧倒的に多い。代行局運営の実務面は大部分が人間局員に任せられていた。
代行局に勤務する人間は、謂わば世界政府の職員だ。従神戦士程ではないが、局員は神暦の世界におけるトップエリートだった。
荒士と陽湖が入学することになっている『富士アカデミー』は、その名称から分かるとおり日本の富士山麓にある。そこには、隣接する形で代行官・代行局も置かれていた。アカデミーは代行局の付属施設という位置付けだから、ある意味で当然だ。
アカデミー入学を目前に控えた貴重な従神戦士候補が背神兵の襲撃を受けたという報せは、富士代行局を大きく揺さ振った。新入生の安全が確保されたことで動揺は一先ず収まった。しかし背神兵を逃がしてしまったことで、明後日に控えている入学式の警備態勢見直しが各部署で慌ただしく論じられていた。
その混乱の最中、一人の従神戦士が管理部を訪れた。神鎧を着用していないスーツ姿だったが、その男性のことは代行局員ならば誰もが知っていた。
代行局の管理部は従神戦士の配置やスケジュールのマネジメント、および作戦上の後方支援や私生活の厚生を担当する部署だ。それを考えれば、従神戦士が個人的に訪れてもおかしくはない。
「翡翠、少し良いか」
「兄さん。ええ、良いわよ」
まして、この会話でも分かるとおり訪ねた従神戦士と訪ねられた管理官は兄妹同士。彼の訪問に奇異の目を向ける者はいない。──憧憬の眼差しは向けられていたが。
従神戦士は人々の尊敬と羨望を集める存在だが、その男に向けられる視線はそのような一般的なものではなかった。
彼の名は今能翔一。地球人で最初に従神戦士となった七人の内の一人。その中で唯一、今も現役の戦士として神々に仕えている英雄だった。
憧れと崇拝を集めながら、翔一には少しもその功績を鼻に掛けている様子が無い。局員の視線に気付いていないかの如き無表情だ。
尊崇を当然のものとする傲慢とも違う。一切の余計な感情を排して任務にのみ邁進するプロフェッショナルの姿、とでも言うべきだろうか。そんなたたずまいが彼にはあった。
今も翔一は自分に向けられている視線を全て無視して、というより全く意識せずに、妹であり管理官である翡翠に話し掛けている。
「富士アカデミーに入学予定の新候補生が背神兵に襲われたと聞いた。現時点で判明している情報が欲しい」
「耳が早いわね……。もしかして代行官閣下から対応を命じられたの?」
代行局員は人間もディバイノイドも完全な機械でしかない巨大人工頭脳を「閣下」の敬称付きで呼ぶ。なお余談だが、ディバイノイドは人間の代行局員から「卿」を付けて呼ばれている。
翡翠の反問に、翔一は「否」と首を横に振った。
「代行官閣下から直接話があれば、態々お前を煩わせには来ない」
そしてこう補足する。
「兄さんのサポートが私の役目なんだから、煩わしくなんて思わないけど」
「お前は俺の専属ではないだろう」
翡翠は何か反論し掛けた。
「それより襲撃について教えてくれ」
だが翔一がリクエストを繰り返す方が早かった。
既に述べたとおり、管理部の仕事は従神戦士の後方支援全般。任務に関わる可能性がある情報の開示を求められたなら、答えないわけにはいかない。
特に翔一は富士代行局に所属する従神戦士のリーダー格だ。むしろ要求される前に事件の詳細を伝えておくべき相手だった。
「出現した背神兵は一体。襲われた候補生に被害は無し。平野名月とナタリア・ノヴァックの二名で撃退したわ」
「その背神兵の名称は?」