人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話

一章『潮の匂いが届かない』 ②

 戸川さんがにこにこしながら手招きすると、姉がいぶかしむような顔つきで小走りにこちらへ来る。

 取りあえず近くで見た第一印象として、戸川さんとまったく似ていない。


「はい? ええ、姉ですけど。そちらは凜の……」

「担任です。こんな夜中に見かけたので、一応の注意をと……」

「ああ先生……なるほどそれっぽい」

「ぽい?」


 格好の話だろうか。


「え、先生?」


 姉が急に顔色を変えて、戸川さんをいちべつする。正確には戸川さんの制服を確認するような視線の動きだった。なにを戸惑っているのか、こちらには伝わってこない。

 妹の方はなにかを察したように笑っているだけだった。


「なにか……」

「いえいえ。いつも凜がお世話になっています」

「お姉さんなら、こんな時間に歩き回っているのを注意してくださいね」

「え、あー、本当ですよね。駄目じゃないか」


 取ってつけたような浅い注意だった。「はいはい」と、戸川さんのうなずきも適当だ。


「それじゃあ、凜」

「ん。今日はやっぱりいいや」

「んむ。じゃあまた今度ね」


 そそくさと、逃げるように一人でどこかへ去っていくお姉さんに、ためいきが思わずこぼれる。


「似てないお姉さんね」

「あ、それよく言われるー」

「髪の毛、戸川さんは金髪じゃないのね」

「お姉ちゃんはお父さん似なのかなー」

「……はぁ」


 そろそろいいか、ととぼけ合うのを終わりにする。


「本当は、お姉さんなんかじゃないんでしょう?」

「あははは」


 隠す気もない笑い方だった。


「友達だねー、ちょっと年上の友達。気づいてたらすぐ言えばよかったのに」

「あなたのうそに快く付き合ってくれた人に悪いでしょう、そんなの」


 それと、そこに言及するとややこしくなりそうというねんもあった。今大事なのは教え子が夜に制服で出歩いていることで、交友関係は私が干渉するべきではない、と思う。


「せんせぇ、ちょっと面白い系の真面目かも」

「それより先生に平気でうそついたのを反省してね」


 叱るように肩を軽く摘むと、戸川さんがこれまた、屈託なく笑うのだった。

 友達を相手にするような表情なものだから、こちらもつい気が緩みそうになる。なるほど、と感じた。教室でのこの子の周りには、いつも人がいる気がする。誰かと楽しそうに話している様子を見かける。そのひとなつっこさに、なるほど、と思ったのだ。

 でも私は教師なので、なるほどしているだけではいけない。


「どこ行こうとしてたの?」

「まっすぐ家に帰ろうとしてました」


 ピッと、背筋を伸ばしてしさを意識するように言う。


うそを、つかない、の」


 また肩を摘もうとしたら、今度はきゃっきゃと逃げ回ってくる。追いかけっこを楽しむほどの元気はこっちにないのに、逃げられるとつい追ってしまう。そしてまた追いつけない。

 ふらふらと、弱ったちようのように駅前をさまよう。

 戸川さんの方は一人踊るように、くるくると輪を描く。


「ご飯食べに行こうとしてただけだよ」

「行くにしても、制服から着替えて行きなさい」


 夜の制服がかもす不健全さは一体どこから生じるものなのだろう。昼間にある爽やかさとはまったく異なる、しっとりとしたものがその肩やスカーフを覆っている。


「着替えに行きたいのは山々なんだけど、今おなかいてて」


 順番があべこべなことを言ってくる。


「おなかいているなら、なおのこと早く家に帰りなさい」

「家帰ってもなー」


 戸川さんが困ったように目をらして笑う。その微妙な反応が、彼女の抱えた事情をかすかに匂わせる。どこまでそこに深入りするべきか、これもまた、教師というのは難しい。

 この話題は向こうも触れられたくないのか、すぐに切り替えてきた。

 私としても、そっちの方が助かる。かもしれない。


「せんせぇ、質問いいですか」


 小さく挙手してくる仕草がかわいらしい。


「どうぞ」

「なんで帰らないといけないの?」

「なんで、って」


 根本的な質問をしてけむこうとしているのはすぐに分かった。でも、生徒の質問である以上、答えないわけにはいかない。ので、考える。生徒が家に帰らないといけない理由……親が心配する。これはなんとなく駄目そう。子供は夜に歩いていてはいけない。私より背の高い子供だけど。その慣れた雰囲気だと、夜の町を歩くのも珍しいことではなさそうだ。つまり私の方が実は危ない? 制服じゃなかったらまぁまぁまぁと流せる部分もあるけどやっぱり、夜に制服姿は見過ごしてはいけない危うさがある。でもそれをく言語化できない。

 だから、つまり。

 家は、帰るものだから。


「夜に出歩いていると危ないから」


 考えがまとまらなくて、無難なものが出る。


「このあたり治安いいよ。おまわりさん、やることなくてずっと暇そうだもん」

「それでも暗いと危ないの」


 戸川さんの言っていることは事実で、この観光地で大事件が起きることはまずない。殺人どころか窃盗騒ぎすら聞いたことがない。他の駅前と違って、居酒屋なりその他なりの客引きの姿もなく、健全ではあった。でもそれを先生としては認めてはいけない。


「んー、理由としては弱いかな」


 納得させてくれないと帰らない、といった雰囲気だった。問答してないで首根っこを捕まえて家まで連れていきたいところだけど、体格差で難しそうだった。戸川さんはごわい。


「ん……」


 こういった校外での生徒指導というものには経験不足が浮かび上がる。

 生徒……生徒…………生徒なら。


「そもそも」


 夜とかそういうのをぶん投げて、時間にだけ注目する。


「あなたは生徒なので」

「ふんふん」

「帰って、勉強しなさい」


 高校生の本分を全うせよ、と教育を示す。

 それを受けて、「あっ、はっはっは」と戸川さんが大笑いする。


「うん、それはせんせが正しいね」


 気持ちのいい笑い声をあげる子だった。


「それじゃあ、今日はこのまま帰って勉強しようかな」

「本当に?」

「せんせが信じてくれたら、うそつかないよ」


 試すようにそんなことを言ってくる。ここまで結構うそついているからなぁこの子、といぶかしみつつも。


「信じる」

「うん」


 遠くで私と目が合っても逃げなかったこの子を信じようと思った。

 戸川さんが右足を緩く、大きく振ってその動きに引きずられるように身体からだの向きを変える。そして、夜と明かりの間で静かに笑う。


「潮の匂いがするね」

「……そうね」


 戸川さんが感じた風の流れを共有して、夜を見上げる。

 海と星のはざを走る風に吹かれて、鼻の奥が少しむずがゆい。


「せんせも早く帰んないと駄目だよ」

「教え子を見かけなかったらまっすぐ帰るつもりだったの」

「わたしはせんせぇとお話できて楽しかったよ」


 にこっと、常日頃から周りの男子たちを誤解させていそうな笑顔と口ぶりを披露してくれる。家まで送っていった方がいいのだろうかと考えている間に、戸川さんがつうがくかばんを振りながら離れていってしまう。こんな時間まで家にも帰らず、外でなにをしていたのか。

 友達と遊んでいたというならまだ分かるけれど、戸川さんは今一人だった。


「せんせ」


 独特の発音で呼ばれて、顔を上げる。戸川さんが、花束を抱くように笑顔を掲げていた。


「おやすみなさい」

「え、はい……おやすみ。まっすぐ、気をつけて帰ってね」


 戸川さんはうれしいものをぎゅっと挟むように、目を細めて笑う。直視するには背景の明かりよりもまばゆく、目をらしそうになった。で、幼さとわいげの天然の配分に満たされた笑顔。