人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話
一章『潮の匂いが届かない』 ⑥
戸川さんと一緒に手を合わせる。……手の指も長いんだな、となんとなく見つめてしまう。本人同様にすらりと伸びた指は、
その繊細な指が封を開けて、どら焼きを
廊下の奥までは教室の
生徒を座らせてその前で私だけ箸を動かしていると、喉の通りが悪い。コップに手を伸ばしかけて、今日はそれを戸川さんが使っていることを思い出して引っ込める。
「せんせぇのお茶は?」
動きを目で追って、戸川さんに質問される。
「コップが二つないの」
「お茶そのまま飲めばよくない?」
「…………あ」
言われてようやく気づいた。それでいいんだ、別に。コップなくても飲めるんだ。
「戸川さん賢い」
「あはは、せんせは意外と……」
「バカ?」
「ううん、ぼーっとしてるね」
言い方を変えただけな気がした。飲みかけのお茶を取ってきて、ペットボトルを傾けて文明の進歩を味わう。家だと当たり前にコップがあるし、学校で人と食事をする機会もなく、その当たり前の発想が
「お昼食べたしさぁ帰るか」
「こらこら」
冗談、と立ち上がりかけた戸川さんが笑って座り直す。
「せんせぇから怖い生徒指導があるんでしょ?」
「まったく怖がってる素振りが見えないけど」
昨日の夜といい、戸川さんに
怒り方がすぐに思い出せないくらい、近年の私は感情の
でもその無関心の例外みたいに、私は戸川さんを見て見ぬふりができなかった。
だから今、こうして向き合っている。
「それじゃあ真面目なことを聞くから、ちゃんと答えてね?」
お弁当箱を一旦置くか迷ったけれど、昼休みがそこまで長いわけでもないので行儀悪く、食べながら進めることにした。戸川さんもまったく気にする様子はなく、へらーっとしている。
「真面目な話かぁ……せんせの不真面目な話は興味あるかも」
言われて、不真面目、と二秒考えてみたけどなにも思いつかなかった。
「夜間外出のことなんだけど」
「本当に真面目そうだなー」
難色を示す戸川さんの困り顔に、少し新鮮なものを感じた。
「夜に出歩く目的はあるの?」
「目的……あるといえば、あるのかなぁ」
戸川さんが少し考えこむように目を泳がせる。
「あるんだ」
「うん、暇つぶし」
からかっているわけでもなさそうだった。
「そういうのは、ないって答えていいと思う」
「じゃあないです」
軽薄に訂正してくる。
「ないんだ……」
「うん」
「暇なら、家で勉強とか……」
「せんせって、暇つぶしに勉強する女子高生だったの?」
あどけない瞳で痛いところをついてくる。
「してませんでした」
自分の無理を人に勧めるのは説得力に欠けると言わざるを得ない。振り返ってみると、私は高校時代なにをしていたんだ? 夫と出会い、交際が始まったのは大学に通ってからなので、その前……その前? まだ
「せんせぇ?」
「なにを言ったものかと悩んでいたの。用もなく深夜
「夜に出歩く用がある方が、せんせぇとしては困らない?」
「……それはそう」
一理あった。明確な意図を持って夜の町に消えていたら、こんな穏やかに指導していられない。私の一存では処遇を決められなくなってしまうのだ。
「せんせが想像してるような、やらしーことはしてないよ。本当に散歩みたいなもの」
「別に想像してません」
「夜に歩く方が日に焼けないし」
自身の髪を摘みながら、人の否定を無視して夜の散歩の利点を語る。確かに、戸川さんのきめ細かな肌を維持するのは大事かもしれない。でも少し日に焼けた戸川さんも、それはそれで健康的に映えると思う。そこまで考えて、なにを言っているのだろうと我に返った。
「そんな出歩いていて、戸川さんのご両親、は」
触れづらい部分なこともあって、やや歯切れの悪い質問になってしまう。
「とりあえず、家にはいないよ」
戸川さんも態度こそ変わりないけど、返事は曖昧なものが混じっていた。柔い表情の中にも、触れてほしくないという拒絶が
悩む。進みかけて、
つかず離れずが、教師と教え子の限界な気がした。
「用もなく、夜に出歩くのはやめなさい。危ないから」
色々模索しても結局、そうやって直接的に注意するほかなかった。
戸川さんが少し目を細めて、皮肉るように口元を曲げる。
「せんせの受け持ちの生徒が問題起こすと困るから?」
「そういうことを言ってるわけじゃないの」
背中から針が飛び出すような、勢いと反発が自分から湧き出た。
かぁっと、肌が
その感覚が、ずっと、ずぅっと底から。大地を割るように、
これは、なんだったか。
戸川さんが目を丸くして、固まったような肩が後退する。
私も、そんな角張った声が出ると思わなかったので内心、
「ただ、戸川さんが心配だから。伝わらないかもしれないけど」
「ううん、ごめん。せんせのこと信じるよ」
戸川さんは、言葉に留まらない。私の手に、その手を重ねてきた。
「ごめんね」
私より大きい戸川さんが身を縮めて、私の目を
「いや、あのね、そんなに謝らなくてもいいのだけど……」
触れたら溶けそうな戸川さんの指は、ちゃんと私の手の甲に乗ったままだった。
「戸川さんが、変な人に
嫌で。
「……心配で」
本心と言葉選びが
「自分を大事にしてほしい」
「……ん」
私の選んだ無難な言葉を受けて、戸川さんが身を引いて座り直す。
そうして、胸元に手を添える。心臓を押さえるように。
「びっくりした」
なにが? と問う間もなく。
「せんせって、怒るの見たことなかったから」
指摘されて、え、とこっちが驚く。
怒る?
私が。今の感覚は、怒り? 怒るって、こういうことだった?



