人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話

一章『潮の匂いが届かない』 ⑥

 戸川さんと一緒に手を合わせる。……手の指も長いんだな、となんとなく見つめてしまう。本人同様にすらりと伸びた指は、はかなく感じるほどに真っ白い。それこそ触れたら輪郭が溶けそうなくらいに思えた。爪先もれいに整い、いろどられている。ネイルは一応注意しないといけない立場なのだけど、薄い色合いで抑えてあるので気づかなかったことにした。

 その繊細な指が封を開けて、どら焼きをつかむ。一口分にちぎっては口に運び、小さな口を細かく動かしている。おいしいよと言っていた割に、頰張る様子に必要以上の笑顔はなかった。

 廊下の奥までは教室のけんそうも遠い。外からの物音は弱く、粛々とした空気になる。戸川さんも食事中はしやべらない方らしく、正面の私を見ながら無言なので、若干気まずい。そして昼食は本当にどら焼き二個でおしまいらしく、早々に食べ終えて手持無沙汰になっていた。

 生徒を座らせてその前で私だけ箸を動かしていると、喉の通りが悪い。コップに手を伸ばしかけて、今日はそれを戸川さんが使っていることを思い出して引っ込める。


「せんせぇのお茶は?」


 動きを目で追って、戸川さんに質問される。


「コップが二つないの」

「お茶そのまま飲めばよくない?」

「…………あ」


 言われてようやく気づいた。それでいいんだ、別に。コップなくても飲めるんだ。


「戸川さん賢い」

「あはは、せんせは意外と……」

「バカ?」

「ううん、ぼーっとしてるね」


 言い方を変えただけな気がした。飲みかけのお茶を取ってきて、ペットボトルを傾けて文明の進歩を味わう。家だと当たり前にコップがあるし、学校で人と食事をする機会もなく、その当たり前の発想がれいに抜け落ちていた。本人は何事もない日常の中だと思っていても、思考は偏るのかもしれない。


「お昼食べたしさぁ帰るか」

「こらこら」


 冗談、と立ち上がりかけた戸川さんが笑って座り直す。


「せんせぇから怖い生徒指導があるんでしょ?」

「まったく怖がってる素振りが見えないけど」


 昨日の夜といい、戸川さんにめられている気がする。私が子供の頃は先生というだけで圧や壁を感じていたものだけど、威厳が足りていないらしい。ないよな、と自分でも思う。私、怒らないし。

 怒り方がすぐに思い出せないくらい、近年の私は感情のほとばしりと無縁だった。よく言えば穏やかで、悪く言えば……色んな言葉が思い浮かぶけど、無関心が適切なのかもしれない。

 でもその無関心の例外みたいに、私は戸川さんを見て見ぬふりができなかった。

 だから今、こうして向き合っている。


「それじゃあ真面目なことを聞くから、ちゃんと答えてね?」


 お弁当箱を一旦置くか迷ったけれど、昼休みがそこまで長いわけでもないので行儀悪く、食べながら進めることにした。戸川さんもまったく気にする様子はなく、へらーっとしている。


「真面目な話かぁ……せんせの不真面目な話は興味あるかも」


 言われて、不真面目、と二秒考えてみたけどなにも思いつかなかった。


「夜間外出のことなんだけど」

「本当に真面目そうだなー」


 難色を示す戸川さんの困り顔に、少し新鮮なものを感じた。


「夜に出歩く目的はあるの?」

「目的……あるといえば、あるのかなぁ」


 戸川さんが少し考えこむように目を泳がせる。


「あるんだ」

「うん、暇つぶし」


 からかっているわけでもなさそうだった。


「そういうのは、ないって答えていいと思う」

「じゃあないです」


 軽薄に訂正してくる。


「ないんだ……」

「うん」

「暇なら、家で勉強とか……」

「せんせって、暇つぶしに勉強する女子高生だったの?」


 あどけない瞳で痛いところをついてくる。


「してませんでした」


 自分の無理を人に勧めるのは説得力に欠けると言わざるを得ない。振り返ってみると、私は高校時代なにをしていたんだ? 夫と出会い、交際が始まったのは大学に通ってからなので、その前……その前? まだかすみがかるほど遠くもないはずなのに、高校生の自分がはっきりと思い出せない。たかだか十年前なのに。……結構遠くない? いや、遠い、遠いけど……意図的に暗雲で覆っているように、過去をのぞきづらい。断片的な出来事は記憶にあるのに、その側にいた自分がく形作れなかった。


「せんせぇ?」


 うつむいて黙り込んだ私を、戸川さんが無防備なほど近くでのぞんできた。お互いの前髪が触れ合いそうな距離で、慌てて身を引く。逃げる私を追うように化粧の匂いが鼻に入り込んできた。


「なにを言ったものかと悩んでいたの。用もなく深夜はいかいとなると……」

「夜に出歩く用がある方が、せんせぇとしては困らない?」

「……それはそう」


 一理あった。明確な意図を持って夜の町に消えていたら、こんな穏やかに指導していられない。私の一存では処遇を決められなくなってしまうのだ。


「せんせが想像してるような、やらしーことはしてないよ。本当に散歩みたいなもの」

「別に想像してません」

「夜に歩く方が日に焼けないし」


 自身の髪を摘みながら、人の否定を無視して夜の散歩の利点を語る。確かに、戸川さんのきめ細かな肌を維持するのは大事かもしれない。でも少し日に焼けた戸川さんも、それはそれで健康的に映えると思う。そこまで考えて、なにを言っているのだろうと我に返った。


「そんな出歩いていて、戸川さんのご両親、は」


 触れづらい部分なこともあって、やや歯切れの悪い質問になってしまう。


「とりあえず、家にはいないよ」


 戸川さんも態度こそ変わりないけど、返事は曖昧なものが混じっていた。柔い表情の中にも、触れてほしくないという拒絶がにじんでいた。でもそこに踏み込まないと、話の発展が難しい。

 悩む。進みかけて、しゆんじゆんして、一歩下がって。

 つかず離れずが、教師と教え子の限界な気がした。


「用もなく、夜に出歩くのはやめなさい。危ないから」


 色々模索しても結局、そうやって直接的に注意するほかなかった。

 戸川さんが少し目を細めて、皮肉るように口元を曲げる。


「せんせの受け持ちの生徒が問題起こすと困るから?」

「そういうことを言ってるわけじゃないの」


 背中から針が飛び出すような、勢いと反発が自分から湧き出た。

 かぁっと、肌がる。

 その感覚が、ずっと、ずぅっと底から。大地を割るように、てきた。

 これは、なんだったか。

 戸川さんが目を丸くして、固まったような肩が後退する。

 私も、そんな角張った声が出ると思わなかったので内心、あせっていた。


「ただ、戸川さんが心配だから。伝わらないかもしれないけど」

「ううん、ごめん。せんせのこと信じるよ」


 戸川さんは、言葉に留まらない。私の手に、その手を重ねてきた。

 まえかがみの戸川さんとまた、髪が触れ合いそうになる。


「ごめんね」


 私より大きい戸川さんが身を縮めて、私の目をのぞんでくる。


「いや、あのね、そんなに謝らなくてもいいのだけど……」


 触れたら溶けそうな戸川さんの指は、ちゃんと私の手の甲に乗ったままだった。


「戸川さんが、変な人にからまれたり、危ない目に遭ったり……そういうのが」


 嫌で。


「……心配で」


 本心と言葉選びがけんした。まつが震えそうなのは一体どんな感情の発露なのか。


「自分を大事にしてほしい」

「……ん」


 私の選んだ無難な言葉を受けて、戸川さんが身を引いて座り直す。

 そうして、胸元に手を添える。心臓を押さえるように。


「びっくりした」


 なにが? と問う間もなく。


「せんせって、怒るの見たことなかったから」


 指摘されて、え、とこっちが驚く。

 怒る?

 私が。今の感覚は、怒り? 怒るって、こういうことだった?