人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話

一章『潮の匂いが届かない』 ⑦

 なにかが許せないという強い気持ち。

 自分の気持ちがゆがむことなく伝わってほしいという願い。

 いつからか途切れていたように、失われていた心の一部。

 こんなのだったかな、え、怒ったのかな、と戸惑う。


「怒ってないから……うん、多分」


 自分でも自信がない。うつむいて、お弁当の残りをもぐもぐして口が塞がっていることを言い訳にして黙る。すぐには換気できない、変な空気が生まれてしまう。私が意識しすぎているだけかもしれない。戸川さんの方はぼーっと、机の資料や教材を眺めていた。

 てられるように食べ終えて、弁当箱に蓋をする。全体を通して、他のことに気を取られて味わいが口に残っていなかった。こちらが食べ終わるのを見計らったように、戸川さんが立ち上がる。


「せんせ、昼休みまだあるよ」

「そうね……あ、話は終わったから、もう教室に戻っても……」


 言いかけている最中に、戸川さんがにかっと歯を見せる。


「いいものあるなーと、さっきから思ってたんだよね」


 戸川さんが机の上に手を伸ばす。その先にあるのはゴムボールだった。手のひらでくるめるくらいの大きさで、ピンク色にサッカーボールを模したような黒い模様が入っている。これは私が持ち込んだのではなく、元からこの部屋にあったものだ。

 それをつかんだ戸川さんが、ぐにぐにと感触を確かめるように指を動かして、こちらを向く。


「せんせ、キャッチボールしよ」

「……キャッチボール?」


 うん、と戸川さんがボールを見せつけるようにこっちへ近づけてきた。


「私と戸川さんが?」

「他に誰がいるの」


 さぁ行こうと、戸川さんが私の肘をつかんで引き上げてくる。あらちょっと、と戸惑っている間に立ち上がり、そのまま戸川さんに引っ張られるような形で教科準備室を出る。鍵もかけないであれよあれよと階段を下りたり靴を履いたりした結果、本当にグラウンドへ連れていかれてしまった。

 気高いほどこうこうと輝く太陽の下、運動場に出るのも久しぶりかもしれない。スーツなんだけど大丈夫だろうかと肩を摘みながら、距離を取るために走っていく戸川さんを見送る。待っている間に校舎を振り返ると、まどぎわの生徒たちと目が合った気がした。


「せんせぇ、行くよー」


 戸川さんが童幼のごとく、大きく手を振って合図してくる。


「かるーくね、かるーいの」


 本当にやるんだ、と日差しに髪を焼かれながら変な笑いが漏れた。

 球遊びなんて、いつ以来だろう。中学のときは文化部だったし、小学校ではドッジボールに参加するような子供ではなくて……あれ? もしかして、未経験? いや高校の体力測定で投げた……はず。それから、もう記憶にないほどの昔に……きっと、両親とやったのだろう。

 放り投げられた緩いボールを、すくうように両手でつかむ。空気も抜け気味のボールなので受け止める痛みはほぼない。まずは捕れたことにあんする。

 ボールは私でも片手でつかめるサイズと柔らかさだ。

 投げ返す、と考えると慣れない動きなのでこんなことでもやや緊張する。

 グラウンドには昼休みなので当然だけど、私たち以外に誰もいなかった。

 太陽が二つあるように、戸川さんの笑顔も遠くにまぶしい。


「せんせぇが遊んでくれるなら、わたし、退屈しないかも!」

「えー……そう来る?」


 戸川さんにボールを投げ返す。投げ方のぎこちなさがひどい。スーツというのもあるけど肘が服に制限されて伸びきらず、危うくボールを地面にたたきつけそうになった。指先の引っかかったボールが、戸川さんとは別方向に飛んでいく。戸川さんはそのあらぬ方向に落ちたボールを走って拾い上げた。材質の関係か、土の上ではボールもあまり転がらないようだった。


「私、球技の経験ないからー」


 言い訳すると、戸川さんが笑ったまま、またこちらに放り返してくる。戸川さんのそれは緩い軌道ながら、私の立っている場所へ正確に投げてくる。明らかに慣れていた。


「部活動かなにかでやってるの?」

「わたし美術部の幽霊部員だよ」


 予想が外れた。手をちようの羽ばたきのように開いて、ボールを催促してくる。

 今度は肘の動かしづらさも考慮して、肩の動きを大きめにするのを意識した。さっきよりはスムーズにボールを投げられたけれど、大振りで、またボールを地面にぶつけそうになった。今度は離すのが遅かったらしい。ただ物を投げるだけでも加減が難しいことを知る。

 私のボールはちっとも戸川さんに届かないけれど、彼女は楽しそうにそれを追うのだった。

 そうやって、短い時間だけどボールの行き来で交流を図った。

 ボール遊び自体に楽しいという実感はない。だけど戸川さんの楽しげな様子に、時折、頰が緩むのを感じた。

 校舎の壁に設置された大きな時計を指差して、時間を告げる。戸川さんは投げかけたそれを止めて、時計を見上げて、残念そうに目をつぶって笑った。それから、こっちに走ってくる。


「久しぶりだけど、ボールが返ってくるって楽しいね」


 ご機嫌な様子でボールを持ってきて渡す様は、失礼な発想だけど、ちょっと犬っぽい。戸川さんは所々でそういうひとなつっこさを向けて、私の心に迫ってくる。


「今日は時間なかったから、次はもっと早めにやろ」

「次……」


 私のはんすうに、戸川さんがニコニコする。


「遊んでくれたから、ちゃんとまっすぐ家に帰るよ」

「……なしでも、まっすぐ帰ってほしいんだけどね」


 私の言い分を笑って流して、戸川さんが駆けていく。まだまだ元気があふれていて、その若さはいいのだけど遠慮なく走って足を動かすものだから、スカートの奥の太ももが見えて、見えてしまうのだった。


「…………………………………」


 なにを固まっているんだ、と頭を振る。

 運動場に一人きりで突っ立って、きつねにでも化かされたような気分だった。

 でもやっぱり、そういうことなんだ。つまり戸川凜を夜の町に繰り出させたくなかったら、これからも付き合えということだろうか。やっていることは、確かにあまりに健全だけど。

 目立つのでは、と校舎を見上げる。女子生徒と教師がお昼休みにキャッチボールなんて。


「うーん……」


 ボールをにぎにぎしながら思いを巡らせる。でも考える時間も残っていないので、足早に校舎へ戻ることにした。お弁当箱を回収して、午後からの授業に備えないといけない。

 引き返す間も、戸川さんの躍動する姿と感情が目に焼き付いているように、離れなかった。

 職員室に戻って、席に着くと隣の席に座っている日本史担当の同僚が、早速聞いてきた。


「さっきのあれ、なに? レクリエーション?」


 私よりやや年上の中年女性で、教師としては先輩に当たる。

 職員室からも見えていたらしい。


「見てのとおりです」

「キャッチボーゥ?」


 なぜか発音が無駄に凝っていた。


「あれも生徒指導の一環……なんでしょうか」


 思わず首をかしげて、質問に尋ね返してしまう。自分にも分からないのだ、あの時間の意味が。


「でもああいうのいいね!」

「そーですね」


 この先生は大体のことにいいねと肯定的なので、ありがたみは薄い。

 簡単な運動でも陽気と合わされば汗ばむ。ハンカチで髪のぎわを拭いながら、教室に向かう前に化粧が崩れていないかを確認する予定を立てる。妙なことになった、という感触はあるけれど戸川さんを放っておくわけにもいかない。生徒の問題が解決するのなら勤務中の昼休みくらいささげてもいいだろう、戸川さんが本当に言ったとおりにするなら。

 ……いや、する。戸川さんはそこでうそをつく子じゃない、と信じることにした。

 根拠は別にない。人柄に精通しているわけでもなく。

 でもあの子の笑顔に人をだます意図があるとは、なんとなく、思いたくなかった。