人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話

一章『潮の匂いが届かない』 ⑧

 なにもしないというのが最適になることもある。たとえば、休日。

 夫と散歩を終えた昼下がり、ソファーに座り込んでぼんやりと画面を眺めるときの、まろやかな怠惰に深くかる。夫が遊ぶゲーム画面を後ろから見ている構図だった。

 夫はここ一年くらい、同じゲームを飽きもしないで楽しんでいる。ゲームと縁遠い私でも知っているタイトルで建築をコツコツと進めるのが週末の生きがいのようだった。


「僕らのアパートが完成したら次はなに作ろうかな」


 外の植え込みを整備しながら、夫はそろそろ次の建築物に思いを巡らせている。夫がその前に完成させたのは、表通りの大きな門とこまいぬだった。散歩中にそれを見て作ってみようと思い立ったのがゲーム購入の動機で、以来、休日を建築物の制作にささげている。

 夫が完成させたこまいぬ二匹はひい抜きに評価すると、大きすぎた。顔を再現するために苦労した結果、後ろの朱塗りの門より巨大になってしまった。そのスケール以外はなかなかくできていると思う。私はこういう立体物への感覚が皆無なので、絶対に作れないだろう。

 左右にうろうろするゲーム画面を眺めていると酔いそうだったので、目を窓の方へ向ける。窓の外はゲーム内と同じ晴天で、心なしか雲の形も似ていた。穏やかで、欠けることのない日。

 夫と過ごす時間は、多くの場合安定していた。


「きみはゲームとか本当にやらないよねー」

「私、そういうアクションとか全然駄目だから」

「そこまでアクション要素は大事じゃない……けど、きみがやったら落下死しまくるかも」


 それと眺めているだけでも時々3D酔いする。


「見ているだけでいいの。ぼーっと過ごすのって理想的な休日な気もするし」

「それは、ま、そだな。そういうのもいいね」


 夫はそのあたりを強く勧めない。尊重と、適当は両立する。

 まえかがみの身体からだを戻して、ソファーの背もたれに寄りかかり。

 膝を押すように重ねた手のひらから頭の上へ、せり上がって浮かんでくるものを思う。

 戸川さん。なんとはなしに、辿たどいてしまう。

 ゴムボールを楽しそうに放ってくる姿へ追随する感情に名前をつけようとして、また失敗する。戸川さんの休日はどんな過ごし方なのだろう。友達とどこかへ出かけているのか、あるいは、彼氏とデートでもしているのか。家に留まっていることはないと思う。想像が広がると、段々、気持ちの晴れ間が怪しくなってくる。私の知らない人間関係の中で傷ついたり、不健全でなければいいと思ってしまう。

 それは生徒というより、姉から妹に向ける気持ちに近いのかもしれない。

 教師が生徒にそんな気持ちを持つとか、気持ち悪いかも、と自嘲する。少し話しただけなのに変に入れ込んでしまっている。戸川さんのひとなつっこさを勘違いしているのかもしれない。

 私はたまたま担任になっただけの先生で、戸川さんは、他と変わらない教え子だ。

 でもあの子は、あの人当たりの良さで周りの多くを勘違いさせそうだ。

 まず、あの声が悪い。せんせぇと呼ばれると耳がざわつく。やや幼さを含んだような調子で少し甘えるようにさえ聞こえるのだから、それはもう、効果的だ。意図しているわけではないからこそ成立する、いい意味でのあざとさがじわぁっと来るのだ。

 それから、背丈。戸川さんは教室の教壇から見ていても同年代の女子と比べてその高さに目が行く。それでいて髪の毛はふわふわしているし、仕草もわいらしいものだからその背丈との段差に引っかかってしまう子はきっと、たくさんいると思う。男子人気は絶対高いと言える。

 そして極めつけは、あの素直で感情を隠しもしない向き合い方。

 戸川さんの花綻ぶような感情を正面から受け止めて、翻弄されているのはいなめない。

 だって自分と向き合って、あんなに楽しそうにしている相手と出会うのは、本当に久しぶりなのだ。

 それは夫を対象に入れても、久しく失われていた明るさだった。

 夫とはいい意味で落ち着いてしまって、家族の枠の中でお互いを見ているから。

 ……だから。


「このあたりに、グローブ売ってるとこってあるかな」


 それを話題として出したとき、私の頭にはなぜか、れき欠片かけらが浮かんでいた。欠片かけらがどこからかこぼれて、一つ、崩れ落ちていくように。なぜそんなかいが連想されたのか分からないけれど、背筋を走るものはかんに似ていた。


「グローブって、野球のやつ?」

「うん」

「野球部の顧問でも始めた?」


 夫がコントローラーを一旦置いて振り向く。


「生徒とキャッチボールすることになって」


 なに、と夫が過敏に反応する。


「甲子園目指すのかい?」


 なんでちょっと目を輝かせているのだろうこの人は。


「あれ、野球部の顧問だったか?」

「じゃないけど。生徒指導の一環……かな」


 またそんな風に表現する。


「不良を更生? キャッチボールで? いいね!」

「あなた、日本史の教師に向いてるかもね」


 なんで? と夫が首をかしげるのを眺めながら、検索すればいいのかと電話を取った。

 地域名と、スポーツショップで検索してみたら地元のすぐ近くに見つけることができた。散歩の通り道の中にあったのだなと新しい発見を得る。ビルの二階にあるらしい。

 窓の向こうをまた見る。歩いていくには、いい天気だった。

 ソファーを手で押して立ち上がる。


「ちょっと買ってくるね」

「俺もついていこうか?」

「ううん、長い買い物になると嫌がるから」

「はっきり言われた!」


 でもそのとおり、と夫が朗らかに笑っている。ここでそうでもないよと取り繕わないのが夫らしい。財布と電話だけ持って、化粧もいいかと省いて家を出た。

 アパートを離れて歩き出してから、遅れて心配になる。

 これで戸川さんが実は乗り気じゃなくて、言ってみただけなのにという反応をされたら少し…………結構物悲しい。私だけ浮かれていたという恥ずかしい事実と、使い道のないグローブが手元に残る。どうしようかなと迷いが生じたまま、足は惰性で前へ進んでいく。

 なにも考えないでいるとどんどん目的地へ向かうのだから、きっと、買うのをやめる気はないのだろうとごとな流れに身を任せた。時折携帯電話で確認しながら、休日の表通りのにぎわいに目を細める。駅やバス乗り場から流れてくる大量の観光客の中に、少しだけ戸川さんの姿を探してみた。もちろん、見つかるはずもない。

 目的地のビルの名前を確認して、ここかなと見上げる。アパートと間違いそうな作りの雑居ビルで、ビルの壁に一応看板があり、地味な色合いの暖簾のれんもかかっているのだけど、店名の字がやや小さい。脇の狭い階段を上がっていくと、広いとは言えないスポーツ店の奥からテレビの音が聞こえてくる。スポーツニュースを流しているようだった。

 足元は芝生を模したような色合いと触りのしきもので、右手側にスパイクやシャツ、左手側の棚にはグローブがれいそろえて置かれていた。店長らしき人物がすぐ私に気づいて、少し驚いたような反応を見せた。私みたいな客が一人で来るのは珍しいのかもしれない。

 分からなかったので、キャッチボールに向いているグローブありますかと尋ねたらいっぱいありますと紹介してもらえた。その中で色も含めて、デザインが気に入ったグローブを選ぶ。大体七千円で、思ったほどの値段ではなかった。

 それから、グローブの手入れについても丁寧に解説してくれた。その過程で保革油、クリーム、コンディショナーと関連商品を次々に出してきて、なるほど商売上手とうなった。どれが必須でどれが大事か当然、判断できない。でも全部あれば取りあえず不足はないだろうと、薦められるままに全部買った。幸い、散財する趣味など持ち合わせていない。