人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話

一章『潮の匂いが届かない』 ⑨

 だからたまには、いいだろうと思ったのだ。


「お子さんとキャッチボールするんですか?」


 全部袋に丁寧に詰めてくれた店長が、そんな話を振ってくる。

 子供がいるような年齢にちゃんと見えるのだなと思いながら。


「そう、ですね……子供と」


 私より背の高い、教え子と。

 袋を抱えて、雑居ビルを後にする。他の買い物もついでに済ませて帰ろうと思い、夫に連絡して冷蔵庫に足りなそうなものを確認してみる。夫からの報告を吟味すると、牛乳ともずくが足りていないみたいだった。夫は健康にいいと聞いてから毎日もずくを食卓に添えている。


『じゃあ買って帰ります』

『悪いねー。グローブいいの買えた?』

『多分』


 後は戸川さんが少しくらいは社交辞令じゃないと助かる……うれしい? のだけど。週明けに本人に確認を取ってから買うかどうか決めればよかったのに、自分がやや前のめりであることを恥じる。一生徒に少し肩入れしすぎなので、自重は必要かもしれない。

 駅の方面へ回り道して、スーパーで牛乳ともずくを買い足す。お肉も安売りが残っていたらと見て回ったけれどさすがに休日の昼過ぎに期待できるはずもなく。残念、とスーパーを出た。

 スーパーの外に出ると丁度目の前に、大きな鳥居とこまいぬが鎮座している。夫がゲーム内で制作したもののモデルである。鳥居の下には外国人を含む大勢の観光客が群れを成し、スマホを構えていた。新郎新婦がここで記念撮影する姿もよく見かける。

 そしてその観光客に調子のいい声をかけながら人力車を引いてくる、女性の姿があった。

 和装と引いているものと髪全てが異質で、目を引く。道路を横断して駅へ向かおうとしているのかこちらへやってきて、近場で目が合った。

 陽光を着飾ったようなまばゆい金髪を、日の下で浴びせられる。


「この間会った先生じゃあないか」


 先日、戸川さんと一緒にいた自称姉だ。向こうもすぐ私に気づいたらしく、人力車の行き先を変えてこっちにやってきた。一仕事を済ませたのか健康的な汗をいくつも浮かべている。その髪の隙間からこぼれると、汗まで金色に染まりそうだった。


「こんにちは……」

「はいこんにちはー。君のために後ろの席を空けておいたよ」

「え? あー……すいません、そういうのく返せなくて」


 思いつかなかったので謝ると、なっははははと大笑いされた。大口を開けているのに、不思議と品が崩れていない。その髪の繊細な色合いが気品めいたものを生んでいるみたいだった。


「名前、伺ってもいいですか」


 顔はテレビに映っていたのを思い出せたけど、名前は一向に出てこなかった。すごく、特徴的な名前だったはずなのだけど。


「あれ名乗ってなかったかな? スター・ハイスカイ」

「はい?」


 青空を背景に、その人のほほみは真昼の月のように溶け込む。


ほしたかそら。ほら、そのままでしょ」


 スター、ハイ……はいはいはい。ようやく思い出す。


「……苺原いつきです」


 統一性のある名前だった。ある意味、お互い? 原はどうだろう、とちょっと考え込みそうになる。それはさておき、名乗った調子をると星と高空で区切るらしい。

 不思議ながらも、気持ちのいい響きがある名前だった。


いちごちゃんかぁ。じゃ、先生って呼ぶか」

「はぁ……」


 私がどんな名前でもその結論に落ち着きそうだった。

 そういえば目が合っただけなのに、どうして話しかけてきたのだろう。


「先生なんしょ? 高校の」

「ええ。星……さんはテレビで見かけたことありますよ」

「あー、取材受けたことあったからね」


 これのお陰、と星さんが髪の毛を摘む。髪の毛だけではないだろうな、とその顔を見ていると思う。星さんの容姿は同性から見ても端麗で、派手な髪の色がまったく嫌みになっていない。


「先生お茶でもどう? 美人見たら一応誘うことにしているんだ」


 私では到底思いつきそうもない理由で声をかけてくるものだった。


「勤務中ですよね。話していていいんですか?」

「次のお客捕まえるまでは休憩。……んー、先生ってさ、学校で人気あるでしょ」


 人の顔をまじまじ、しつけなほど眺めながら言ってくる。


「自分ではよく分かりません」


 そう言うしかない。本心でどう思い、どう感じていても。


「スーツ脱いで髪下ろすと大分雰囲気変わるね。美人さんだよ」


 その声と笑顔が、胸を透かせるようだった。


「先生も取材受けたら、美人教師が映ってたって話題になると思う」

「お褒めいただいて、どうも」

「謙遜するねぇ。でも教師ならそういうのは大事か」


 車夫に謙遜は必要ないのだろうか。


「ところでなにそれ? 運動具店?」


 私の抱えている袋について尋ねてくる。袋から新品のグローブを取り出して見せると、星さんがほほーぅと適当に感心した。


「グローブじゃん。甲子園目指すの?」


 発想が夫と同レベルだった。こういう言い方もなんだけど反射的というか、頭をあまり使うことなく取りあえず反応してみるとそこに行き着くのだろうか。


「生徒……戸川さんとキャッチボールをやろう、みたいな話になって」


 生徒指導の一環以外言えないのか、と表現の不足にあきれたので考えてみたけど、単なる事実の報告になってしまった。


「とがわ……ああ、凜か。あ、妹のことね」


 設定を思い出したように早口で付け足す。


「いいですよ、姉じゃないのはもう分かってますから」


 なははは、と星さんはまったく悪びれない。


「戸川さんとはどんな関係なんです?」

「もう、関係とか野暮なこと聞くねぇ先生」


 このこのぉ、と人力車でタックルしてくる。斬新な体験だったけど、これ人身事故では。


「どんな関係だと思う?」

「分からないから聞いているんです」

「あっはは、ごもっとも」


 生真面目な対応へのからかいを含むような、軽薄な笑い方だった。


「凜とは遊び友達だよ。ふむ、遊び友達ってなんかいかがわしい響きあるね」

「夜の遊び友達、ですか?」

「お、余計にやらしくなった」


 気に入ったらしく、髪と肩が揺れる。こちらとしてはあまり笑いごとではない。


「確かに凜と会うのは夜だね。昼は凜も学校だし、私働いてるし」

「戸川さんは……ん」


 戸川凜の事情をこの人が知っていたとして、聞いていいものではないだろう。私になんの権利があるというのだ、単なる担任なのに。そこをわきまえないといけないしあと……心中にあったのは、戸川さんに嫌われるのを忌避したい、そんな感情だった。


「本当にただの友達なんだよ。先生に話せることもあるけど、そういうのを勝手に聞くのはよくないと思ってるんでしょ? それなら、その尊重の意思を大事にすんべ」


 星さんが態度から早々に察してくれた。ありがたいのだけど、そうなるとこの人と話すことは特にない。この人に、戸川さんの夜間外出をとがめるよう頼んでも無駄だろう。


「しかし凜とキャッチボールねぇ。夜のキャッチボール?」

「ボール見えなくて怖そうですね」

「生徒とのちょっとした交流のためにそういうの買っちゃうんだ」


 ぐ、と喉が詰まる。いざ客観的に指摘されると、少々据わりが悪い。

 確かに、そうなのだ。これが例えば別の教え子だったら私は、グローブを買わないだろう。

 戸川さんに感じている特別性の名前。

 そこを考えると、心が濁る。なにかがどろどろと、混入する。


「いけませんか?」

「いいやぁ? 凜がお気に入りなのかと思ってね」

「気に入るとかそういうのは……教師ですから」

「愛か?」

「はい?」

「愛じゃないとしたら、変人だな」


 ごくごく真面目な調子で、極端な評価を下してくる。自分で言うのもなんだけど善良とか、そういう無難な表現はないのだろうか。


「戸川さんが、キャッチボールするなら夜に出歩かないと言ってきて」

「ふぅん、凜がね……ああ、そういうことか」