人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話
一章『潮の匂いが届かない』 ⑩
星さんがなにかを物語るように、横目で私を捉える。細められた目と唇には、好奇心と下世話の
「思わせぶりですね」
「変と恋ってちょっと似てるよね」
会話を無視するのがなかなか
「
「状態異常の話。偏って、崩れそうになるところ」
「凜はいいやつだけど、先生、気をつけなよ」
「気をつける?」
うん、と星さんが一度
「あいつ、あれで重いから」
そう教える星さんは、なにかを含むように笑っていた。
「重い……」
「あと顔のいい女に弱い。ま、それは人類共通の弱点かもしれない」
そう言い残し、顔のいい女が手を振って去っていく。小さく頭を下げておいた。
星高空。恐らく年下なのだけど、物腰に達観を感じさせた。人と話すことに慣れているのか、それとも、割と他がどうでもいいだけなのか。町中でよく見る頭と顔が、駅前のお客さんを引っ張ろうと友好的な態度で近寄っていく。人の休日こそ
長く地元に暮らしているけれど、そういえば人力車を利用したことはない。
これからもないだろう、多分。観光地価格で結構高いとは聞いているし。
グローブを袋に戻して、日差しですっかり熱した髪を
「戸川さんかぁ……」
私はまだ、戸川さんの重さを感じていない。軽やかな部分に心地よさを覚えているだけだった。それを知るまで関わるのは、教師の領分から逸脱している気もして。
私は戸川さんとの距離を、どれくらいが適切と判断するのか。
それと、もうひとつ。
「顔のいい……女?」
どういう意味でそう言ったのか、帰路を行きながら少し考えた。
日曜日の晩、
でも戸川さんが少しでも喜んでくれたら、割とそれだけで清らかな気分になれそうだった。そのために買ってきたのだから。……なんか、やっぱり気持ち悪い教師じゃないか私。本当はよくないのだ、こういうのは。特定の生徒に肩入れしてはいけない。……どうしてだろう?
よくないことだと根付いた常識を再び言語化するのは存外難しいものだった。
だけどそんなことを小難しく頭の中で練っている内に、寝付くことができた。
翌朝、棚の脇に置いてあったグローブを忘れないうちに袋に詰める。起床から寝癖も直さないでまずやることがそれだった。グローブは教えてもらったとおり手入れをして
グローブの入った袋を持って立ち上がると、窓の外はまだ薄曇りのように朝焼けが遠い。
「あのねぇ……」
普段はお世話になる目覚ましも今日は不要で、
あまりわくわくするんじゃない。お弁当の用意でもしよう、と台所に向かった。
通勤するまでの
「お、グローブがない。いよいよ甲子園への第一歩だな」
「目指さないって」
「じゃあどこへ行こうというんだ!」
「学校」
夫は実際に野球をやらないけど、野球自体は好きなようでよくテレビ観戦していた。特に夏の高校野球は休日になると
いつもの
朝のホームルームの間も、どうグローブを見せればいいのかと引き続き思案していた。戸川さんに傾倒するのはいいけど、よくないけど、業務に差し支えるようならさすがに感心しない。でも私は他のことをずっと考えていたのに、問題なくホームルームを進行させてべらべらと
結局ホームルームの終わりまで思いつかなかったので、普通に声をかけるしかないか、と戸川さんの席まで向かう。ここで見せたら他の生徒の目もあるし、また教科準備室に呼ぶしかない。
「戸川さん、ちょっといい?」
早くも周りの生徒と話し始めるところだった戸川さんが顔を上げる。声をかけてきた相手を確認してから、やわやわと
「なぁに、せんせ」
この子はいつも人当たりのよい反応を見せるから、本心で私をどう思っているのか
他の生徒たちからも視線が届く。盛り上がっていたみんなが無言になる空気が少し
極力、平然であることを意識して用件を切り出す。
「昼休み、ちょっと来てくれる?」
戸川さんが不思議そうな顔になって、間を開けるのが
「あ、呼び出しじゃないから」
余計に変かな、と言ってから失敗を感じる。呼び出しじゃないのに呼ぶって、私的になってしまう。
「いいよー。この間と同じとこ?」
戸川さんがあっさりと受けてくれて、助け船になる。
「うん」
最低限の受け答えを済ませて、「それじゃあ」と早足にならないよう心掛けながら離れる。
「最近どうしたぁ?」
「んー、せんせぇとらぶらぶ?」
おどける戸川さんにもなにも言えず、聞こえなかったことにして教室を出る。出てから、そのまま壁に真っすぐ歩いて額を押しつける。
「なにをやっているのか」
独り相撲の空回り。久しく忘れていた、距離感の見誤り。
じわじわ来る後悔に慣れるまで、壁に刺さっていた。



