1.
その天才少女が空木樹の前に現れたのは、始業式のあった週の金曜日だった。
新学期がはじまって即日でなかったのは、たぶん、タイミングを窺っていたのだろう。あとになって考えれば、一度や二度は空木を覗き見て、勇気を出し切れないということもあったにちがいない。
ただ、そのときにはそんな気配を微塵も感じさせなかった。
昼休み。
「空木樹。あなたの小説って、ほんとにつまらないよね」
学生食堂のテラス席。
気づけば、知らない少女が山かけそばの載ったトレイを手に、空木たちのテーブルの近くに立っていた。不敵な笑みを浮かべて空木を見つめている。
空木の親友である綾目修二の口が、驚きで開きっぱなしになっていた。
当然だ。少女の台詞はふつう、初対面の相手に向けるものではなかった。
空木が目をぱちくりさせる前で、少女はおなじテーブルにトレイを置く。隣から引っ張ってきた椅子に腰かけ、ぺらぺらと続けてきた。
「不躾で悪いけど。わたしね、あなたが文芸部の部誌に掲載してきた短編も、ネット上に公開してる連載小説やほかの短編も、ひと通り読んだんだ。そりゃもう、ひっどい出来だったよ。エンタメ的フィクションのくせに読者の目をいっさい考慮してなくて、作者のお気持ちを好き勝手に書き散らしてるだけ。……でも」
容赦ないネットレビューかと思うような、文句なしの悪口である。
綾目が視線をちらりと送ってきたのは、さすがに空木が気分を害してないか心配したのか。だが空木は苛立ってはいなかった。
小説をつまらないと言われても反論はないし、それ以上に、こんな批判だけをわざわざ面と向かって言いにくるわけがないからだ。
だれだ、こいつ、と首を傾げる。藤袴桐子──ミーハーなところのあるひとつ年上の幼なじみが、先日、興奮ぎみに語っていた噂話を思い出した。
高校部の一年生、空木の一個下にね、外部生としてとんでもない子が入学したの知ってる? あのねぇ、あたしその子の動画チャンネル登録してるの! 前にあたしの好きなライトノベル紹介してたことがあったから。なんでこんな地方都市に引っ越してきたんだろうね、お父さんは役者さんだし、なんと! お母さんは有名作家の──。
むしろ、この少女がこれからいったいなにを言うのかと楽しみになったくらいだ。空木は物心ついてからずっと、楽しいことが転がっていないか目を光らせている人間だった。
……とりわけ、世界が曇ったような感覚に囚われている現状では、ちょっとのことでも期待してしまう。
空木は微笑んで、そばを食べるためにいったん言葉を切った少女を、うながした。
「でも、なに? 続きは?」
少女の表情が一瞬、ぱっ、とかがやいた。
が、すぐに平静を装った様子になる。ただ、わずかに身を乗り出していた。
「でもね、見所はあると思ったの! あなたが書く文章、描写するシーンに込められたたくさんの、感情のきらめきみたいなものは、わたしには決して書けないものだった。ねえ、序破急とか三幕構成とか知ってる?」
空木は少女の、桃を想起させる果実じみた匂いを、好ましいと感じた。
陽射しを含んできらめく髪を、きれいだな、と思う。その瑞々しい肌も、炎のような情熱を宿す、どことなく猫っぽい目も、まるで空木の胸に春の風を吹かすかのようだった。感情がざわざわと揺れる気がする。
「人はただの出来事の羅列、乏しい起伏、つながりのないシーンの連続には夢中にならない。物語の面白さにはある程度のセオリーがある、ってことよ。ねえ、わたしがあなたに持ちかけてるのはこういう話──」
小柄で、華奢ではないものの細身ではあって、全体的に幼さが残る印象。そのわりにはやや低めにざらついた声も、耳に心地良かった。
「わたしとあなたなら、できると思ってる。いっしょにこの世界を揺らすの。わたしたちふたりで、数々の天才たちをぶっ飛ばしてやるんだ。わたしがあなたをプロ作家デビューまで導いてあげる」
「……プロ作家」
「そう! あなたもずっと小説なんて書いてるんだから、それでごはんを食べていくと考えたら胸が躍るでしょ? 楽な道じゃないよ。けど、地獄を歩み続けた先でしか見られない創作の深遠はある。どう? 興味ある?」
ばちん、と。
予兆が、脳細胞が火花を散らす衝撃に変わった。
いつ以来だろうか?
空木は久しぶりの感覚に昂揚した。これまでも何度も、何度も何度も、この経験がある。新たな出来事を体験したとき、知らない感情を自覚したとき、アイデアが閃いたとき、頭のなかでつながっていなかったものがつながったとき。
興奮とともに、周囲の色合いがまたひとつ塗り替えられる感覚がある。
それは少なくとも、昨年の夏からは感じにくくなっていたはずのものだ。
これはなんだか面白いことになる。そんな強い予感があったし、空木はそれだけは間違ったことがなかった。
「空木……」
綾目が空木の心境を探るような声をかけてくる。空木は、大丈夫だよ、という意味を込め、軽く手のひらを向けた。
いつしか、テラスにいる生徒たちにも注目されている。空木もこの私立AIA中学高等学校内にかぎっては有名人だ。その空木に、話題の外部入学生が絡んでいるわけだから、さもありなん。だが空木は人目を気にするタイプではまったくない。
純粋にわくわくしながら、心の底から答えた。
「興味ないよ」
少女は理解できなかったらしい。
小首を傾げてくる。
「…………、………………ん?」
空木はわかりやすく、念入りに、ゆっくり区切って言った。
「ぜんっぜん、一ミリたりとも、いっさいがっさい興味ないです」
「……えっ、と……、一ミリも、……興味……」
「その話よりは、魚の切り身を味噌漬けにするときは味噌を直接塗らずにキッチンペーパー越しにすると焦げづらくて良い、って知識のほうが興味あるかな。びっくりするよ? ペーパー越しでもばっちり漬かってるから」
「…………ええっと、味噌漬け……。……あの、プロ作家よ? 本屋さんに自分の本が、……あれ? …………。………………なんでよ!!」
ばんっ、と響いたのは、少女が悲鳴とともにテーブルをたたいた音だ。空木はくすりとして、すでに食べ終わった食器のトレイを片手で持って、立ちあがった。
行こっか、と綾目に声をかけ、涙目で愕然とする少女の横を通りすぎる。
そのときも、チワワのようにぷるぷる震える姿を、正直に言って可愛いと思った。同時に、これでもきっと終わらない、との直感が空木の気持ちを弾ませた。
より期待させられた。空木はこの少女に対してなぜそのように思ったのか、自分でも説明できない。
夢と自信に満ち満ちた、少女のまなざしのせいなのかもしれなかった。
……あ、そうだ、と思い出す。
藤袴が語っていた、少女の名前。
鵯華千夏。
ひよどりばな、ちなつ。