エンタメ文芸界の女帝・鵯華雪子と、劇団『リゲル』主宰でもある俳優・紫苑雄太郎のあいだに生まれた次女であり、そして────。
空木は幼少期から、変わってる、と言われてきた。
空木のことをよく知らない連中から、批判的な文脈でそう噂されるのは日常茶飯事だ。それどころか、親しい者たちから直接明言されるのも珍しくない。
例えば今年の二月上旬、数センチ程度の積雪があった朝。
いっしょに登校していた藤袴がふいに言った。
「あたしねぇ、雪を見ると小学二年のとき空木から聞いた、給食時間のエピソードを思い出すんだ」
藤袴は寒がりなので、スカートの下にはズボンかと思うような分厚いレギンスを穿いているし、口許までマフラーでぐるぐる巻きだった。
空木はちょっと考えてから答えた。
「担任から、俺の近くで騒いでた連中といっしょくたに注意された話?」
「そうそう。空木は騒いでなかったから謝らなくて、そしたら吹きさらしの廊下に出されて、床に給食のトレイを置かれて、ここで食え、と怒鳴られたやつ。真冬に」
藤袴の吐息がマフラーにぶつかって砕け、ウェリントンの眼鏡を曇らせた。
「しかも担任、暖房の利いた教室から顔だけ覗かせて、美味いか? と訊いてきたって。……いま改めて口に出してもえぐいなぁ。訴えるとこ訴えたら問題になってたんじゃない? 下手すると橘先生よりクズなんじゃ、……まあ、それはないか」
空木は笑った。
「俺はぜんぜん嫌じゃなかったよ。雪見給食」
「だから、あたしが言いたいのはそういうことなんだよう。その話を最初に聞いたときも、あたしは先生に対して怒ったけど、空木はいまとおんなじ笑い方して言ったの。吹きさらしの廊下で、雪を見ながら給食なんてはじめてで面白かった、先生にもそう答えたよ──ってさ。……ほんとさあ、空木はさあ──……」
積雪が朝陽を照り返していた。それがまばゆかったのだろうか、藤袴は目を細めて言葉を中断した。空木は雪の上に猫の足跡を見つけて、笑みを深めた。
雪が多い土地ではないので、雪が積もるとそれだけで楽しい。空木は道沿いのユキヤナギの葉を揺さぶって、雪を落として遊んで、藤袴を振り返った。
「俺はほんと、なに? 藤袴」
「──……子供のころからずっとずっと変な奴だよねえ!」
ただし空木に自覚は露ほどもないのだった。
変わり者扱いを心外に思うときさえあるのだ。空木は自らやりたいと感じたことだけをやっていたい人間ではある。それは自他ともに認めている。
つまらないことを他人からの指示で行う、そんなのは耐えられない。なぜ、と言われても困る。そうだからそうだとしか言いようがない。
しかしそんなのだれだっておなじだろう、と空木は思う。
街に積もった雪で言うならば、何十人に踏まれたあげくべしゃべしゃになったりつるつるになったりした道を歩くより、ふわふわの雪に真新しい足跡を刻んでいったほうが面白いに決まっている。
やりたくて、やった。
それだけだ。
小学三年、ナイフとランタンを鞄に詰め込んで近所の川の水源地を目指したのもそうだし、AIA学園の中学部に入学して、孤立する綾目の後頭部に〝遊ぼうぜ〟のメッセージと連絡先をメモした紙飛行機をぶつけたのもそうだ。
中学一年の三学期、当時の高校三年生たちの卒業によって来年度から文芸部の部員がゼロになると気づいて、なら自分好みの部にしても文句が出ないじゃん! と閃いたのもそう。校舎裏で同級生がいじめられているのを見つけて、二階の窓から、いじめっ子の上級生たちにバケツの水をぶっかけたのもそう。
魔改造済みの新生文芸部、通称〝超・文芸部〟として、全校清掃の時間、放送室を乗っ取ってコメディのBGMを流してやって、校内に爆笑の渦を巻き起こしたのもそう。これも部活として、肝試しスポットとして有名な廃墟でカップラーメンを食べて、大人に見つかってめちゃくちゃ怒られたのも。
日々を面白がる一瞬一瞬、空木は脳細胞が発火する刺激に撃たれる。そうしてその楽しさを主人公の感情として、情景描写として、とあるシーンの雰囲気として、もしくは全体を通してのモチーフとして、小説という形に落とし込む。
それがまた、空木の頭に楽しさの火花を連鎖させていく。
……大好きな祖母が亡くなるまでは、ずっと途切れることはなかったのだ。
空木がはじめて小説じみたものを書いたのは、祖母とのやり取りがきっかけだ。
小学三年生のとき。
「お祖母ちゃんはどうして、俺があれこれするのを嫌がらないの?」
いっしょに住んでいた父方の祖母である。風に乗って金木犀の香りがしていたから、秋だったろう。空木は家の庭で、リンゴを丸かじりしながら、虫かごのなかのショウリョウバッタを観察していた。ちょうど百匹。
ぎっちぎちだ。
近所の緑道で百匹捕獲チャレンジをして、数時間の格闘の末に意気揚々と帰宅したら、母に過去最大級の悲鳴をあげられたのだった。早く外に逃がして早くマジでマジで庭じゃなくて元いたところにいぃ! と。
で、逃がす前に観察しようと庭に出たのだ。母は、ひええー……といった顔で、様子を窺おうともしなかった。代わりに祖母がおおきな掃き出し窓を開けっぱなしにし、床に座って、見守ってくれた。
「樹ちゃん、どういう意味で言ってる?」
祖母が首をひねった雰囲気を感じたので、空木はリビングを振り返った。
「だってさ、お母さんもお父さんも俺がそのうちでっかいぽかやらかすんじゃないかみたいに冷や冷やしてるでしょ」
「まあ、樹ちゃんが保育園のころお友達引き連れて勝手に外に出て、空き地でたんぽぽの綿毛飛ばし大会やってたっていう、大事件のトラウマがあるからね……」
「ちゃんと、アホなことしない奴だけ選んでたんだけどなぁ。だけどお祖母ちゃんは、お母さんお父さんとちがって、俺がなにかやろうとしても、実際にやっても、いっつもにこにこしてる」
「お祖母ちゃんは、樹ちゃんが好きなことをやってると幸せな気持ちになるからね」
そのときの空木には祖母の話の意味が、実感としてはわからなかった。
「……俺が好きだから?」
空木の問いかけに祖母はくすくす笑う。
「もちろんそうよ。わたしはこれまでも、これからも樹ちゃんが大好き。こんな可愛い孫に恵まれたなんて信じられないくらい。でもそれだけじゃない。樹ちゃんは自由だなあ、と思えるからでもあるの」
「自由って、いまはみんなそうじゃん」
「そうでもないのよ。特に大人になればなるほど、ううん、こんな言い方は子供を見くびってるみたいで良くないか。子供だっておなじ。だれだって、なにかをやりたいと思ってもやれないことだらけなの」
「そう? そんなことなくない?」