「友達がだれも行ってない場所で探検ごっこしたい、……けど怖い。テストで百点満点取りたい、……けど勉強は嫌い。両親にごはんを作ってあげたい、……けどどうすればいいかわからない。かけっこで一等賞を取りたい、……けど速く走れない。好きな子と遊びたい、……けどこっぴどく振られるかもしれない」
「俺も学校のテスト百点じゃないこともふつうにあるし、五十メートル走で俺より速い奴だって学年に何人もいるよ。絵、苦手だし」
「絵だけは、……そうね……。でも樹ちゃんは自分でブレーキかけたりしないでしょ。やりたいと思ったら、疑問なんて持たずに苦手な絵だって楽しんで描く。樹ちゃんにはそういう才能がある。なにが楽しくて、なにをやって、どんな結果があれば幸せなのか、なにもかもを自分で好きに、自由に選ぶ力。決まりもなにもない。お祖母ちゃんには、そんなふうにできる力はない」
「そんなことないよ。お祖母ちゃんは可愛いし」
「ありがとう。でもね、この歳になるとああすれば良かった、こうすれば良かったって後悔がたくさんあるの。ほんとうに一回しかない人生で、あとから気づいても、どうしようもない。だから、好きに、自由に、毎日を楽しんでる樹ちゃんを眺めてると、まるでお祖母ちゃんもそうしてるみたいな気分になれる」
祖母は最近、目許の皺が増えたと思う。秋晴れの下で、顔中の皺が目立っていた。空木は、刻まれた年月そのものであるその皺を、愛らしく感じた。
「お祖母ちゃんは、樹ちゃんの言動に感情移入してるの。樹ちゃんを見ていると、そうね、よくできた小説を読んでるみたいに感じるんだ」
「お祖母ちゃん、小説好きだもんね」
「樹ちゃんはあんまり読まないねえ。児童小説とか」
「うーん……。図鑑は好きだけど、遊びたいことが多いから、小説を読んでる時間があんまりないっていうか。文章を書くのは、こないだも先生に褒められたし、得意だと思うし楽しいけど──……、……あ!」
頭のなかにばちんと散った火花で、固まった。
これまでに経験したことのないほど強く、激しく、色あざやかな接続だった。空木が、瞬時にして沸騰した感情がつっかえて言葉を再開できないでいるうちに、祖母が空木の閃きを後押しすることを口に出した。
「樹ちゃんはしょっちゅう、その日にあった面白かったことをお祖母ちゃんにお話ししてくれるでしょう? まるで物語みたいに。特に、そういうときお祖母ちゃんは最高に幸せだなと感じるの。楽しくて、うれしくて、樹ちゃんに恵まれたことに泣きそうになる。お祖母ちゃんを幸せにしてくれてありがとう」
「……ね、お祖母ちゃん。最高のことを思いついたよ!」
空木は弾けたふうに、リビングの床に座る祖母のところまで行って、噴きあがる情熱とともにまくし立てた。
「これから先は、俺がお祖母ちゃんの言うように好きに……自由になにかを楽しんだら、それを小説にして、読ませてあげる! そうしたらいままでよりもっと、お祖母ちゃんの人生が楽しくなるよね? あのね、想像したら、俺もすっごく楽しそうだった! このごろ心から思うんだ」
微笑む祖母の瞳に、空木自身の笑顔が映っていた。
満面の。
「この世界は楽しいよ! バッタを探しに行ったときも、ヒヨドリが鳴いててコスモスが風に揺れてた。昨日は夕陽がきれいで、その前は雨音が心地良かった。藤袴が貸してくれる漫画も面白いし、お父さんが釣ってきたアオリイカはすんごい美味しかった。毎日びっくりすることばっかりなんだ。お祖母ちゃんにも感じさせてあげるね。だれにも、なんにも邪魔させない、他人の常識や意見なんて関係ない、俺が楽しんだそのまんまの気持ちだけを……!」
もしも、いまも祖母と話すことが叶うのだったら。
空木は間違いなく、あの少女──鵯華のことをその日のうちに祖母に伝えるだろう。
きっと、こんなふうに。
「いやマジでさ、あの子があれこれ言ってきたプロとか創作の深遠とかは、校長先生の長話とおなじくらいにしか興味ないんだけどさ。なんでかな、あの子を見てたら心が弾んだんだよ! 俺の返答に半泣きになってて、なのに瞳だけは燃えてるみたいな感じを、……俺がはじめて会うような人間かもと考えるのは、期待しすぎだと思う?」
祖母は微笑んで答えるだろう。
樹ちゃんは、他人がしないことをする人が好きだもんね。
実際、鵯華はその通りだった。あんな断られ方をしたのにまったくめげず、それどころか翌日の土曜日に早くも、しかも部室の机に座って待っている少女など、空木はほかに見たことがなかった。
2.
「──いい? 空木樹。わたしの話があなたにとって、買ってもない宝くじに当たったような幸運であるとは、わかっているんでしょ?」
学校に登録された正式名称は単なる〝文芸部〟。
通称として〝超・文芸部〟の部室だ。
やはり椅子ではなく机に座り直した鵯華が、話を続けながら脚を組み替える。その動作がいかにも手慣れておらず、ほんとは机に座っちゃ駄目なんだけどなあ感が出ていて、空木はおかしかった。
「だって、わたしよ? 空木も部室に入るなり、鵯華千夏、とつぶやいたよね? ってことは、いまはわたしという人間について最低限の情報は耳に入ってるわけだ。それだけで、わたしの言葉には耳を貸す価値があるとわかるはず」
────メディア業界と縁深い両親の許に生まれ、そして本人もわずか五歳のときに、子役タレントとしての活動をはじめた。
映画デビュー作は、母親の小説が原作の『恋色の断末魔』だった。
その後は小学校卒業に合わせて芸能界を引退するまで、ドラマやバラエティ番組、CMなどに出演していた。
そういったジャンルに詳しくない空木も、考えてみればなんとなく、鵯華の顔を見たことがある気はしたくらいだ。子役時代と顔立ちが変わっていないのだろうか。あるいは、空木がメディアで見かけたのは子役時代ではないのかもしれない。
鵯華は、中学二年生の終わりにミステリ小説の新人賞に応募し、同賞の史上最年少受賞を果たしている。
一般的な評価としては、天才かつ多才と呼ぶほかない。
「もちろん、わたしが新人賞を獲れたのは実力だけじゃないよ。こんなクソみたいなこと言いたくないけど、年齢や経歴のボーナスも絶対ついてる。わたしが一線級の作家たちと並んでるとは思いあがってない。現に、同時受賞した千茅なんちゃらさんの作品のほうが、わたしのより出来は良かった……」
受賞直後は、あの子役の鮮烈デビュー、とメディアが騒いだらしい。
それもあって、鵯華の処女作『ザ・フューネラル・ストーリー』は、子供の背伸びだの考証ミスが多いだの母親がかなり手を加えているにちがいないだの批判も受けつつ、去年の年間ベストセラー上位に名を連ねるほど売れた。
すでに映像化の企画が進んでいる、という噂もある。