アウトドアチェアに座る藤袴が、ミニバケツを振った。
「ねー鵯華ちゃん、やっぱあたしといっしょにあっちでビーチコーミングでもして待ってようよー」
「……いえ、大丈夫。ありがとう」
鵯華はやがて、肩に載ったオキアミをぽいぽいっとコマセバケツに戻すと、淡々とリールを巻きはじめた。仕掛けを回収したところで、めげずに言ってくる。
その声音にどこか、決意めいた力強い響きがあった。
「ねえ、空木の目標、マダイかクロダイの五十センチなんでしょ? で、それを釣ったときの感情を小説に落とし込みたいと考えてるけど、ぜんぜん釣れてない」
「ああ、うん、そうだよ」
「空木は、わたしが書いた三幕構成案を読んでないままよね? わたしは途中で、主人公の最初の目標をライバルが先に達成しちゃって、一度はおおきく挫折する展開を提案してる。もしも空木が実際にその気持ちを味わわされたら、どう?」
ばちん、と、空木の世界がまたすこしだけ新しいものになる。
浮き浮きとした気分になる。
空木はにんまりして、父親から譲ってもらった遠投磯竿を手に持った。
「鵯華がマダイやクロダイを釣ってはしゃいでるのを想像したら、それだけで面白いよ。そうなったら、たぶんはじめてのことだけど、他人からの指摘を受け入れるのも有りかもなぁ。鵯華に先を越された、っていうのは俺自身の気持ちになるから」
「じゃあ、やってやる。覚悟してなさいよ。ついでに釣ったやつはめちゃ美味い刺身にして、グルメ小説のイメージもふくらませてやるから──」
「鵯華は俺と遊ぶのを楽しんでくれてるみたいで、うれしいよ」
「……わたしの訴えを聞いてくれなくて困ってるんだから変なこと言わないで」
「あと頭のてっぺんにもオキアミ載ってる」
「それは早く言って!!」
結局この日、鵯華が釣ったのはでっかいコモンフグ一匹。
空木はどうにかこれまでの最大、三十三センチのマダイを釣ることができた。
4.
……ゴールデンウィーク最終日からさかのぼること二日。
鵯華はお気に入りのエプロンを身に着ける。
柄は猫のプリントだ。鵯華は猫が好きだ。あらゆる動物のなかでいちばん好きだ。可愛いからだ。物心ついたころから変わらない。しょせん人間は生来の好みからは逃れられない。つくづく思う。
連休もすっかり後半戦だ。大学生の姉および母方の祖母と、この春からいっしょに暮らしている自宅マンションのキッチン。
未明の時間で、ほかのふたりはまだ眠っている。姉はもうじき起きてくる予定ではあるが。その前に終わらせようと鉄製のフライパンを取り出し、作業をはじめて、ふとまた考えてしまった。
空木のことだ。
この一ヶ月、そのことばかり考えていると言っても過言ではなかった。
「……ずっと憧れてたもん」
煙が出るほど熱したフライパンで、昨夜から醬油、蜂蜜、塩胡椒、オリーブオイルに漬けていた鶏もも肉を焼いて、独り言つ。
空木本人は一ミクロンも感じてないだろう。
が、鵯華には夢のごとき一ヶ月だった。
いまでも時折、就寝直前、目をつむっていて、朝になって都内のあの一軒家に戻っていたらどうしようと考え、脈拍がばくばくと速まるときがある。
姉には笑われる。でも仕方ないじゃないか。
あの小説。
鵯華が中学一年で、偶然読んだ空木の小説──。
だれだってそうなるに決まっている。憧れ、救われ、こんなにも世界を楽しめているなんていったいどんな人なのだろう、と妄想していた人。
その人のことを実際に知ると、見た目も雰囲気も声質もいたずらっぽい笑い方もなにもかもが好みどストライクだったら。
心酔する小説の作者が、あれくらい格好良かったら。
実際にやり取りをして、その言動もその心も、小説から透けて見えていたそのままだと感じてしまったら。
恋に落ちずにいるために、強い精神力が必要だ。
胸の内で、ちがう、ちがうから、と自らに言い聞かせる毎日なのだった。
空木の顔を見る度に。空木と言葉を交わす度に。空木の言動から空木の小説の内容を想起する度に。
空木となにかやって楽しいと感じる度に。空木と手が触れる度に。ふと空木の匂いを感じる度に。身も蓋もないことを言われて咄嗟に反応し、はっとしたあと、空木のうれしげなまなざしに気づく度に。空木の小説を、自分以外の人間も楽しめるようにするにはどう工夫すればいいか考える度に。わたしは恋愛するためにここにきたんじゃない、と気持ちを律するのが大変だった。
このあいだ空木からも訊かれ、答えずうやむやにしたが、鵯華はこれまで本格的にだれかを好きになったことがなかった。
だから知らなかった。
こちらに引っ越す前に通っていた中学校では、色恋話で盛りあがる同級生たちを、馬鹿なのかな? と思っていた。イタイなぁ、とも、きっしょ、とも感じることがあった。しかしいまとなっては馬鹿なのもイタイのもきっしょいのも鵯華自身だ。
あの同級生たちに、悪かった、なにもわかってなかった、と心で詫びる。
そばにいるとこんなにもムラムラ、ちがった、どきどきする相手が実在するなど想像だにしていなかったのだ。
姉は鵯華が、恋しては駄目だ、と踏ん張っているのを知っている。一度、鵯華が帰宅したあとクッションに顔を埋めて、ああぁぁぁ! と奇声を発しているところを目撃され、にやつきながら言われた。
それもう好きになってるから、無駄な抵抗じゃない? 最近の千夏はすんごく楽しそうで良い感じよ?
良くない。無理だとあきらめるわけにはいかない。鵯華は精いっぱい、好き、が漏れ出ないようにしている。
その決意はちょっとしたことで決壊しそうになるし、耐えがたさでついつい自慢のコレクションがバージョンアップしていき、これやばくない? とは自分でも思うが、鵯華には恋愛ではなく明確な目的があるのだ。
鵯華の母親、鵯華雪子。
大嫌いなクソ女。
あいつより素晴らしい小説を、いつかきっと空木なら書ける。
書評家、鵯華先生としての強い直感だ。願望ではないと思いたい。
フライパンの横には卵焼き器を置いて、同時進行で卵焼きも焼く。調味料が塩だけの代わりにオイルはたっぷりだ。それから八枚切りの食パンをトースト。あとはチーズとちぎったレタス。鶏肉と卵焼きをカットして、バターを塗ったトーストで挟む。軽く押さえたあとで、包丁で斜めに両断。クッキングシートで包んで、コーヒーショップで持ち帰りした際にもらった紙袋に入れておしまいだ。
直後、姉が目をしょぼしょぼさせて起きてきた。
「おはよー……」
「お姉ちゃん、おはよう。今日も付き合わせてごめんね。ありがとう。せめてお姉ちゃんの好きな物をお弁当に用意しました。コーヒー飲む? 淹れよっか?」
姉は目を細めて紙袋を見やった。