天才ひよどりばな先生の推しごと! ~アクティブすぎる文芸部で小生意気な後輩に俺の処女作が奪われそう~

第一章 焦がれ続けた超超超大ファンから ⑩

 アウトドアチェアに座るふじばかまが、ミニバケツを振った。


「ねーひよどりばなちゃん、やっぱあたしといっしょにあっちでビーチコーミングでもして待ってようよー」

「……いえ、大丈夫。ありがとう」


 ひよどりばなはやがて、肩に載ったオキアミをぽいぽいっとコマセバケツに戻すと、淡々とリールを巻きはじめた。仕掛けを回収したところで、めげずに言ってくる。

 その声音にどこか、決意めいた力強い響きがあった。


「ねえ、うつの目標、マダイかクロダイの五十センチなんでしょ? で、それを釣ったときの感情を小説に落とし込みたいと考えてるけど、ぜんぜん釣れてない」

「ああ、うん、そうだよ」

うつは、わたしが書いた三幕構成案を読んでないままよね? わたしは途中で、主人公の最初の目標をライバルが先に達成しちゃって、一度はおおきく挫折する展開を提案してる。もしもうつが実際にその気持ちを味わわされたら、どう?」


 ばちん、と、うつの世界がまたすこしだけ新しいものになる。

 浮き浮きとした気分になる。

 うつはにんまりして、父親から譲ってもらった遠投いそ竿ざおを手に持った。


ひよどりばながマダイやクロダイを釣ってはしゃいでるのを想像したら、それだけで面白いよ。そうなったら、たぶんはじめてのことだけど、他人からの指摘を受け入れるのも有りかもなぁ。ひよどりばなに先を越された、っていうのは俺自身の気持ちになるから」

「じゃあ、やってやる。覚悟してなさいよ。ついでに釣ったやつはめちゃい刺身にして、グルメ小説のイメージもふくらませてやるから──」

ひよどりばなは俺と遊ぶのを楽しんでくれてるみたいで、うれしいよ」

「……わたしの訴えを聞いてくれなくて困ってるんだから変なこと言わないで」

「あと頭のてっぺんにもオキアミ載ってる」

「それは早く言って!!」


 結局この日、ひよどりばなが釣ったのはでっかいコモンフグ一匹。

 うつはどうにかこれまでの最大、三十三センチのマダイを釣ることができた。


4.


 ……ゴールデンウィーク最終日からさかのぼること二日。

 ひよどりばなはお気に入りのエプロンを身に着ける。

 柄は猫のプリントだ。ひよどりばなは猫が好きだ。あらゆる動物のなかでいちばん好きだ。わいいからだ。物心ついたころから変わらない。しょせん人間は生来の好みからは逃れられない。つくづく思う。

 連休もすっかり後半戦だ。大学生の姉および母方の祖母と、この春からいっしょに暮らしている自宅マンションのキッチン。

 未明の時間で、ほかのふたりはまだ眠っている。姉はもうじき起きてくる予定ではあるが。その前に終わらせようと鉄製のフライパンを取り出し、作業をはじめて、ふとまた考えてしまった。

 うつのことだ。

 この一ヶ月、そのことばかり考えていると言っても過言ではなかった。


「……ずっと憧れてたもん」


 煙が出るほど熱したフライパンで、昨夜からしよう、蜂蜜、塩しよう、オリーブオイルに漬けていた鶏もも肉を焼いて、ひとつ。

 うつ本人は一ミクロンも感じてないだろう。

 が、ひよどりばなには夢のごとき一ヶ月だった。

 いまでも時折、就寝直前、目をつむっていて、朝になって都内のあの一軒家に戻っていたらどうしようと考え、脈拍がばくばくと速まるときがある。

 姉には笑われる。でも仕方ないじゃないか。

 あの小説。

 ひよどりばなが中学一年で、偶然読んだうつの小説──。

 だれだってそうなるに決まっている。憧れ、救われ、こんなにも世界を楽しめているなんていったいどんな人なのだろう、と妄想していた人。

 その人のことを実際に知ると、見た目も雰囲気も声質もいたずらっぽい笑い方もなにもかもが好みどストライクだったら。

 心酔する小説の作者が、あれくらい格好良かったら。

 実際にやり取りをして、その言動もその心も、小説から透けて見えていたそのままだと感じてしまったら。

 恋に落ちずにいるために、強い精神力が必要だ。

 胸の内で、ちがう、ちがうから、と自らに言い聞かせる毎日なのだった。

 うつの顔を見る度に。うつと言葉を交わす度に。うつの言動からうつの小説の内容を想起する度に。

 うつとなにかやって楽しいと感じる度に。うつと手が触れる度に。ふとうつの匂いを感じる度に。身も蓋もないことを言われてとつに反応し、はっとしたあと、うつのうれしげなまなざしに気づく度に。うつの小説を、自分以外の人間も楽しめるようにするにはどう工夫すればいいか考える度に。わたしは恋愛するためにここにきたんじゃない、と気持ちを律するのが大変だった。

 このあいだうつからもかれ、答えずうやむやにしたが、ひよどりばなはこれまで本格的にだれかを好きになったことがなかった。

 だから知らなかった。

 こちらに引っ越す前に通っていた中学校では、色恋話で盛りあがる同級生たちを、馬鹿なのかな? と思っていた。イタイなぁ、とも、きっしょ、とも感じることがあった。しかしいまとなっては馬鹿なのもイタイのもきっしょいのもひよどりばな自身だ。

 あの同級生たちに、悪かった、なにもわかってなかった、と心でびる。

 そばにいるとこんなにもムラムラ、ちがった、どきどきする相手が実在するなど想像だにしていなかったのだ。

 姉はひよどりばなが、恋しては駄目だ、と踏ん張っているのを知っている。一度、ひよどりばなが帰宅したあとクッションに顔を埋めて、ああぁぁぁ! と奇声を発しているところを目撃され、にやつきながら言われた。

 それもう好きになってるから、無駄な抵抗じゃない? 最近のなつはすんごく楽しそうでい感じよ?

 良くない。無理だとあきらめるわけにはいかない。ひよどりばなは精いっぱい、好き、が漏れ出ないようにしている。

 その決意はちょっとしたことで決壊しそうになるし、耐えがたさでついつい自慢のコレクションがバージョンアップしていき、これやばくない? とは自分でも思うが、ひよどりばなには恋愛ではなく明確な目的があるのだ。

 ひよどりばなの母親、ひよどりばなせつ

 大嫌いなクソ女。

 あいつより素晴らしい小説を、いつかきっとうつなら書ける。

 書評家、ひよどりばな先生としての強い直感だ。願望ではないと思いたい。

 フライパンの横には卵焼き器を置いて、同時進行で卵焼きも焼く。調味料が塩だけの代わりにオイルはたっぷりだ。それから八枚切りの食パンをトースト。あとはチーズとちぎったレタス。とりにくと卵焼きをカットして、バターを塗ったトーストで挟む。軽く押さえたあとで、包丁で斜めに両断。クッキングシートで包んで、コーヒーショップで持ち帰りした際にもらった紙袋に入れておしまいだ。

 直後、姉が目をしょぼしょぼさせて起きてきた。


「おはよー……」

「お姉ちゃん、おはよう。今日も付き合わせてごめんね。ありがとう。せめてお姉ちゃんの好きな物をお弁当に用意しました。コーヒー飲む? れよっか?」


 姉は目を細めて紙袋を見やった。