鵯華は、こいつマジかよ、という戦慄の表情をした。藤袴はもはや橘に一秒でも意識を割くのはリソースの無駄であるとみなしたのか、空木の手からそっと、鵯華の案を取って読んでいた。
空木はサヤカちゃんに感謝した。
どう読み解いても、サヤカちゃんはほかの太客から誘われたので、同伴相手を橘からそいつに乗り換えている。おかげで週末の足が確保できた。
空木はにこにこして、無邪気さを装って言質を取りにいった。
「じゃあ橘先生。サヤカちゃんと正式に付き合う運命の日は先延ばしになったわけだし、土曜日も日曜日も問題ないってことで?」
「運命の日か。さすが空木くん、良いこと言うね。……大丈夫さ! ただ、相変わらずライフジャケットを全員分は揃えられないから、安全柵かなにかがある場所はマストで。生徒たちになにかあったら、引率の僕が責任取らされちゃうからね。とにかく、責任を取ることだけは避けたい」
藤袴がコピー用紙をめくりながら言った。
「上辺でも、生徒の安全が最優先だからって言えよ……」
「その上で、乗っ込みというイベント期間にふさわしいポイントを選定しよう。道具も、空木くん以外は持ってないままだろう? 貸してあげよう」
「さすがそんけいするたちばなせんせーすごいなぁー。……ってわけで鵯華、足と道具は用意できたし、この週末、大丈夫?」
「うん、大丈夫……だけど、なんの話? 部活よね? 乗っ込み?」
「乗っ込みとは、魚が産卵のため浅場に移動する現象をいう」
綾目が解説し、空木はうなずいた。
「鵯華が『龍のカゴ釣り』の話をしたのは、示し合わせたようだった。俺がその作品のイマジネーションの元にしてることだよ。藤袴も、たまにSNSにあげてるエッセイ漫画のネタにしてる。……鵯華は、腐ったかまぼこみたいな臭いに包まれ、指先に付着したその臭いが、シャンプーするまで延々と続くのは平気か?」
「えっ、あー、ええっと、……平気ではないです」
鵯華の声は困惑の響きで満ちていた。
……ゴールデンウィーク最終日からさかのぼること九日。
四月下旬の、休みの日だ。夜明けごろにAIA学園の正門前に集合してから、橘所有のミニバンで一時間とすこし。
春の、透明度の高い海が凪いでいる。風すらほとんどない。
道路沿いの、ちょっとした広場のようになっている護岸だ。
鵯華は橘の私物である遠投磯竿3号の撒き餌用カゴに、ポピュラーな釣り餌である生のオキアミを詰めながら、独り言のようにぶつぶつと言う。
「わかってた……。わかってたつもりではあったの……。超・文芸部はアクティブすぎるというか、実に文芸部らしくないって評判だったし……」
割り箸を使っているものの、それは手にオキアミの汁がまったくつかないということとイコールではない。
どのみち最後には、手で一匹オキアミをつまんで釣り鉤に刺すことにもなる。
「下調べして、空木の気分次第でアウトドア的なことをやらされるケースがあるのは覚悟してた……というか、まあ、……とだし、…………逆に楽しいかもと……してた……はあるけど……。でも、…………んでもこれは、これは……」
「あ、鵯華、尻尾は切ってそこから鉤を刺したほうがいいよ。尻尾があると水中でくるくるしがちなんだって。手で、ぶちっと」
空木のアドバイスに素直に従い、素手でオキアミの尻尾を切った鵯華の顔は、能面のようになっていた。それでも空木と橘から教わった通り、鉤を刺したオキアミもカゴに入れ、さらに数匹のオキアミを載せ、ふたをして準備を済ませる。
そのあと、自分の指先の臭いを嗅いだ途端に顔をゆがめた。
「……くっさぁぁい! なんなのこの海老みたいななにか! マジで腐ったかまぼこっぽい臭いがしてるんだけど! お魚さんたちこんなの食べてお腹大丈夫ですか!? この見た目で海老じゃないって意味わかんない! 海老で鯛を釣るってことわざあるでしょ、甲殻類使ってよ甲殻類!」
近くで、カゴに引っかかった藻を外していた綾目が、人差し指を立てた。
「オキアミはプランクトンだが、甲殻類なのは甲殻類らしいぞ。プランクトンとは水中を浮遊する生物の総称なだけだから──」
「うっさい」
綾目が衝撃を受けた顔をしたので、空木は笑った。
「荒ぶってんなぁ!」
「事前に勉強はしてきたつもりだけどさ。それでも、初っ端のキャストで失敗して、このわけわかんない生物の死体の雨を、超早起きさせられたなかで精いっぱい整えた髪の毛に降らせた乙女の心よ。そりゃわたしのお姉ちゃんの部屋みたいに荒れるでしょ。……投げるから、避けて」
空木は鵯華に言われるがまま距離を取る。綾目ももう怒られたくなかったのか、こちらも橘に借りている竿を波返しに立てかけ、数歩遠ざかった。
鵯華は四・五メートルの竿を慎重に振りかぶり、かまえた状態でまた口を開いた。
「……空木」
「うん」
「ちょうど『龍のカゴ釣り』を読み直したばっかだったから、空木がこうやって本物の釣りを楽しんで、その気持ちと経験を下敷きにしてあれを書いたのはわかる。わたしは空木の小説のそういうところ……主人公たちがものすごく楽しんでる、それが伝わってくるところが特に好きだから」
鵯華が苦悩するように目を閉じ、奥歯を嚙み締める。
「設定が甘くて、構成が下手くそで、シーンのつなぎ方もぐちゃぐちゃでも、それらをぶち抜くリアルな楽しさに満ちてると思ってる。だからその一助になるんなら、たしかにこれも無しじゃない……わたしが挑戦するのもやぶさかじゃない……けど、けど……!」
鵯華はたぶん、キャストを怖がっている。先ほどの失敗が頭をよぎっているにちがいない。空木は鵯華の気持ちがよくわかった。
わかりはしたが、それはそれとして、長い竿をずっと振りかぶられていると邪魔なので、告げる。
「どうぞさっさと投げてください」
「……くぅぅっ!」
びゅんっ、と弧を描いた投げ方がそれほどおかしいとは思わない。が、軸がぶれているのかリリースのタイミングが悪いのか、カゴは変に高くあがり、すぐ目の前の海にどっぽんと着水した。
ほぼ同時に、宙でずれたカゴからこぼれたオキアミが、鵯華にぱらぱらと降った。
離れた場所で煙草を吸う橘の笑い声が響いてくる。綾目は顔をそむけたが、それは笑ったのを隠すためだろう。
鵯華はキャストし終わった体勢のまま、体のあちこちにオキアミを付着させ、涙目でぷるぷるしていた。
空木もつい、ぷるぷるしてしまった。鵯華の様子がおかしくて、ごちゃ混ぜになった感情で赤面しているのが愛しくて、噴き出しそうだった。