天才ひよどりばな先生の推しごと! ~アクティブすぎる文芸部で小生意気な後輩に俺の処女作が奪われそう~

第一章 焦がれ続けた超超超大ファンから ⑨

 ひよどりばなは、こいつマジかよ、という戦慄の表情をした。ふじばかまはもはやたちばなに一秒でも意識を割くのはリソースの無駄であるとみなしたのか、うつの手からそっと、ひよどりばなの案を取って読んでいた。

 うつはサヤカちゃんに感謝した。

 どう読み解いても、サヤカちゃんはほかの太客から誘われたので、同伴相手をたちばなからそいつに乗り換えている。おかげで週末の足が確保できた。

 うつはにこにこして、無邪気さをよそおってげんを取りにいった。


「じゃあたちばな先生。サヤカちゃんと正式に付き合う運命の日は先延ばしになったわけだし、土曜日も日曜日も問題ないってことで?」

「運命の日か。さすがうつくん、いこと言うね。……大丈夫さ! ただ、相変わらずライフジャケットを全員分はそろえられないから、安全柵かなにかがある場所はマストで。生徒たちになにかあったら、引率の僕が責任取らされちゃうからね。とにかく、責任を取ることだけは避けたい」


 ふじばかまがコピー用紙をめくりながら言った。


「上辺でも、生徒の安全が最優先だからって言えよ……」

「その上で、乗っ込みというイベント期間にふさわしいポイントを選定しよう。道具も、うつくん以外は持ってないままだろう? 貸してあげよう」

「さすがそんけいするたちばなせんせーすごいなぁー。……ってわけでひよどりばな、足と道具は用意できたし、この週末、大丈夫?」

「うん、大丈夫……だけど、なんの話? 部活よね? 乗っ込み?」

「乗っ込みとは、魚が産卵のため浅場に移動する現象をいう」


 あやが解説し、うつはうなずいた。


ひよどりばなが『龍のカゴ釣り』の話をしたのは、示し合わせたようだった。俺がその作品のイマジネーションの元にしてることだよ。ふじばかまも、たまにSNSにあげてるエッセイ漫画のネタにしてる。……ひよどりばなは、腐ったかまぼこみたいな臭いに包まれ、指先に付着したその臭いが、シャンプーするまで延々と続くのは平気か?」

「えっ、あー、ええっと、……平気ではないです」


 ひよどりばなの声は困惑の響きで満ちていた。



 ……ゴールデンウィーク最終日からさかのぼること九日。

 四月下旬の、休みの日だ。夜明けごろにAIA学園の正門前に集合してから、たちばな所有のミニバンで一時間とすこし。

 春の、透明度の高い海がいでいる。風すらほとんどない。

 道路沿いの、ちょっとした広場のようになっている護岸だ。

 ひよどりばなたちばなの私物である遠投いそ竿ざお3号の用カゴに、ポピュラーな釣り餌である生のオキアミを詰めながら、独り言のようにぶつぶつと言う。


「わかってた……。わかってたつもりではあったの……。超・文芸部はアクティブすぎるというか、実に文芸部らしくないって評判だったし……」


 割り箸を使っているものの、それは手にオキアミの汁がまったくつかないということとイコールではない。

 どのみち最後には、手で一匹オキアミをつまんで釣りばりに刺すことにもなる。


「下調べして、うつの気分次第でアウトドア的なことをやらされるケースがあるのは覚悟してた……というか、まあ、……とだし、…………逆に楽しいかもと……してた……はあるけど……。でも、…………んでもこれは、これは……」

「あ、ひよどりばな、尻尾は切ってそこからはりを刺したほうがいいよ。尻尾があると水中でくるくるしがちなんだって。手で、ぶちっと」


 うつのアドバイスに素直に従い、素手でオキアミの尻尾を切ったひよどりばなの顔は、能面のようになっていた。それでもうつたちばなから教わった通り、はりを刺したオキアミもカゴに入れ、さらに数匹のオキアミを載せ、ふたをして準備を済ませる。

 そのあと、自分の指先の臭いを嗅いだ途端に顔をゆがめた。


「……くっさぁぁい! なんなのこのみたいななにか! マジで腐ったかまぼこっぽい臭いがしてるんだけど! お魚さんたちこんなの食べておなか大丈夫ですか!? この見た目でじゃないって意味わかんない! たいを釣るってことわざあるでしょ、甲殻類使ってよ甲殻類!」


 近くで、カゴに引っかかった藻を外していたあやが、人差し指を立てた。


「オキアミはプランクトンだが、甲殻類なのは甲殻類らしいぞ。プランクトンとは水中を浮遊する生物の総称なだけだから──」

「うっさい」


 あやが衝撃を受けた顔をしたので、うつは笑った。


「荒ぶってんなぁ!」

「事前に勉強はしてきたつもりだけどさ。それでも、しよぱなのキャストで失敗して、このわけわかんない生物の死体の雨を、超早起きさせられたなかで精いっぱい整えた髪の毛に降らせた乙女の心よ。そりゃわたしのお姉ちゃんの部屋みたいに荒れるでしょ。……投げるから、避けて」


 うつひよどりばなに言われるがまま距離を取る。あやももう怒られたくなかったのか、こちらもたちばなに借りている竿さおを波返しに立てかけ、数歩遠ざかった。

 ひよどりばなは四・五メートルの竿さおを慎重に振りかぶり、かまえた状態でまた口を開いた。


「……うつ

「うん」

「ちょうど『龍のカゴ釣り』を読み直したばっかだったから、うつがこうやって本物の釣りを楽しんで、その気持ちと経験を下敷きにしてあれを書いたのはわかる。わたしはうつの小説のそういうところ……主人公たちがものすごく楽しんでる、それが伝わってくるところが特に好きだから」


 ひよどりばなが苦悩するように目を閉じ、奥歯をめる。


「設定が甘くて、構成が下手くそで、シーンのつなぎ方もぐちゃぐちゃでも、それらをぶち抜くリアルな楽しさに満ちてると思ってる。だからその一助になるんなら、たしかにこれも無しじゃない……わたしが挑戦するのもやぶさかじゃない……けど、けど……!」


 ひよどりばなはたぶん、キャストを怖がっている。先ほどの失敗が頭をよぎっているにちがいない。うつひよどりばなの気持ちがよくわかった。

 わかりはしたが、それはそれとして、長い竿さおをずっと振りかぶられていると邪魔なので、告げる。


「どうぞさっさと投げてください」

「……くぅぅっ!」


 びゅんっ、と弧を描いた投げ方がそれほどおかしいとは思わない。が、軸がぶれているのかリリースのタイミングが悪いのか、カゴは変に高くあがり、すぐ目の前の海にどっぽんと着水した。

 ほぼ同時に、宙でずれたカゴからこぼれたオキアミが、ひよどりばなにぱらぱらと降った。

 離れた場所で煙草たばこを吸うたちばなの笑い声が響いてくる。あやは顔をそむけたが、それは笑ったのを隠すためだろう。

 ひよどりばなはキャストし終わった体勢のまま、体のあちこちにオキアミを付着させ、涙目でぷるぷるしていた。

 うつもつい、ぷるぷるしてしまった。ひよどりばなの様子がおかしくて、ごちゃ混ぜになった感情で赤面しているのがいとしくて、噴き出しそうだった。