不可逆怪異をあなたと 床辻奇譚

二 禁忌 ⑦

 ふっとそこで紫色の髪の後姿が脳裏をよぎる。

 寂しそうな、でもれいな背中。

 どこかで見た、おぼろげな記憶に俺は気を取られた。そこにいちの声が聞こえる。


そうくん! 早く!」

「あいつ、なんで……!」


 いちはスポーツバッグの中から勝手にを取り出すところだった。やばい、怪しいやつにを見られた、っていうかなんでバッグの中にがいるって知ってるんだ。俺は背中にどっと冷や汗を感じる。

 でもいちは、俺の恐怖に反して壊れ物を扱うように優しくを胸に抱いた。


「久しぶりちゃん。いちだよ。けどそうくんが覚えてないんじゃ、ちゃんも私のこと覚えてないよね」

「……ぁ、ごめ……なさ……」

「大丈夫。安心して。私がついてるから」


 いちは曇りない微笑を見せる。首だけのを見ても驚くわけでも怖がるわけでもない。

 その姿はうそのないいつくしみにあふれてれいで……俺はふっと泣きたくなる。

 不思議と郷愁に似た気分を覚えて喉の奥が熱い。問う声が自然にかすれた。


「……お前はどうして俺たちのことを知ってるんだ? 味方なのか?」

「味方だよ。子供の頃、よく一緒に遊んでた。そうくんには友達が多かったから覚えてないんだろうけど」


 それを言われると、確かに昔は名字も知らない友達とかあちこちにいっぱいいたんだ。

 いちは子供のような笑顔を見せる。


「覚えてなくてもまた始めるからいいよ。私はいち。それ以外のことはここを出たら教えてあげる! だからそうくん。準備はいい?」

「準備って何をすればいいんだ?」


 俺は路上に置いたままのバッグに歩み寄るとそれを取ろうとする。でもいちは俺を手で留めた。手袋をめた彼女の手が器用に片手で日傘を開く。


「決まってる。この怪奇の主をたたくの」


 いちは目を細めて街並みを見やる。作り物めいてれいな顔は、っているけど目だけは笑ってない。俺はその時初めていちの瞳が濃い紫に見えることに気づいた。

 月もない。家のあかりはどんどん消えていく。

 そんな中で、日傘だけが世界の始まりみたいに白い。


「怪奇の主? ここにそんなのがいるのか」

「うん。核みたいなものだよ。どの怪奇にもそういうのがいるの」


 また一つ家のあかりが消える。甲高い声が聞こえてくる。


「──キさ子ちャン! どコォ!」

「どこにもいないよ」


 いちの答えに、しん、と辺りは静まり返った。

 俺が呪刀で突いた時とはまるで違う。街中に潜んでいる何かが息を詰めた気配がする。まるで薄氷の上にいるみたいな嫌な緊迫感が襲ってくる。

 呪刀を握りなおす俺の隣で、いちは開いた日傘を大きく振る。そこから白いまつが上がった。光る粉をいたみたいな輝きに、周囲の気配がひるんだ、気がする。

 いちあいきようさえにじませて続けた。


……


 それは閉鎖空間の隅々にまで行きわたるような、力ある声だった。

 そして薄氷をたたる言葉だ。

 一瞬の沈黙が立ちこめる。

 直後、街中からみみざわりな笑い声が上がった。


「ひひひぃいぃぃぃひひひぃぃぃ!」


 明確な悪意を感じる笑い声。変声機をかけたみたいな声に、さすがに俺はぎょっとした。


「なんだこれ。何したんだ?」

「隠された本質を暴いたんだよ。そうすると怪奇はもう隠れられなくなるから。核が表に出てくるしかないんだ」

「そういうものなのか……。にしてもこの笑い声聞いているとおかしくなりそうだ」

「でもそうくん動じてないよね。宣伝カーが通ったくらいの反応なんだけど」

「ちゃんと不気味だと思ってるよ。でも怖がると向こうが喜ぶだろ」

「あー、そういう怪奇もいるね。でもそんな理由で怪奇と張り合う人はあんまりいないよ」

「こういうのは気の持ちようだから」


 ちなみにはというと、いちがその耳を自分の手と胸で押さえている。本人は聞こえてないのかげんそうな顔だ。よかった。


そうくん、そろそろ来るよ」


 言われて俺はいちの視線の先、暗い道の向こうを見る。

 そこに集まっていくのは悪意の気配だ。今まであちこちに広がって散っていたものが集束していく。はっきりとした輪郭はない。けれど闇の中にうっすらと赤黒い何かが浮かび上がった。


「なんだあれ……あれが核か?」

「うん。そうくんにはどう見えてるの?」

「生きている内臓(闇)」

「かっこやみ?」


 大きな人影くらいの内臓は、そう言っている間にも俺たちの方ににじり寄ってくる。暗い中、しのび笑いを上げて近づいてくるそれからは明確な害意が感じられた。


「気持ち悪さはともかく分かりやすくなった。あれを倒せば脱出ってわけか」

「そうそう。もう大丈夫でしょ?」


 確かにこういうタイプの急場には慣れてきてる。

 俺は呪刀を握りなおす。息を整えて相手を見据える。それは今まで何度も見た人ならざるものだ。いちの言う通りなら、何十年も前に一人の女の子を食った何か。

 ……そんなものはあっていいはずがない。家族のもとに帰れなくなってしまう。

 だから、俺に行き合ったならこれで終わりだ。


「──一度だけ聞く。お前は、俺の妹の体がどこにあるか知ってるか?」

「タ、タ、食べちゃッタよおオオ」

うそつきめ」


 見え透いた醜悪さに俺は息をつく。

 そして地面を蹴ると、床辻の禁忌である一つを……散り散りになるまで何度もたたった。



 気づいた時、街にはあかりが戻っていた。思わず近くの電柱を見たけど、そこには探し人の貼り紙はない。近くの家からはテレビの音が聞こえてきていた。


「お疲れ様。安心して見てられるね。予想以上だよ!」


 楽しそうにそう言ういちはまだを抱いたままだ。俺はもう周囲に気配がないことを確認すると、彼女の手からを引き取る。


「ありがとう、助かった。で、助けてくれたところにいきなり聞くのはなんだけど、これだけ怪奇に対応できるって何者なんだ?」


 怪奇の核をあぶすなんて普通の人間にできることじゃない。それに何より彼女は落ち着きすぎてる。こういう事態に慣れているんだろう。

 いちはくるくると器用に傘を畳んでいく。


「私は【まよ】の主人って言われてるかな」

「迷い家?」

「うん。怪奇に好かれやすい人とか呪われちゃった人とかをかくまったりする避難所。ずっと昔から床辻にあって時々どうしてるの」

「あー……対怪奇のシェルターみたいなものか」

「そそ。今は他に避難してる人もいないけど」


 さすが床辻。そんな場所があったのか。怪しさはあるけど「この街ならそれくらいあるかも」って思うくらい一年の間に慣らされてしまった。


「それって監徒とは違うのか? 監徒はオカルトを監督してる秘密機関だろ?」

「秘密っていうならこっちも避難所だから秘密だけど、監徒とは違うよ。監徒は街の治安維持が第一で個人を助けないから。こっちはただの有志」

「なるほど?」