不可逆怪異をあなたと 床辻奇譚

二 禁忌 ⑥

 黒窓のある家の塀を、俺は左手をかけて乗り越える。しき内に降りると、すぐそこに見える窓に向かって距離を詰めた。迷わず躊躇ためらわず呪刀で窓のただなかを突く。「ひぎっ」と小さな悲鳴が上がり、窓の中から気配が消えた。

 ──けど、それだけだ。

 辺りは暗いままで、今度は別の窓から声が聞こえてくる。


「イラッシャァイ、イラッシャァイ!」

「キさコちゃンの好きナモノ、イッパイあるよォ!」

「……なんなんだよ」


 かしましく夜の街に響き渡る声は、まるではやてるようだ。神経を逆なでするような呼び声に俺はうんざりするけど、それ以上にまずい。脱出の手立てが分からない。

 ──ここで死ぬかも。

 ふっとそんな考えがよぎる。背筋が凍る。

 それは怪奇に対する恐怖じゃない。ただ「終わってしまうこと」への恐怖だ。

 を守れずあんな状態にして、戻してやることもできない。

 失って失ってただ二人の家族になったのに、それさえも失ってしまう。

 なんて情けない。悔しい。せめてに──


「不器用さんだなぁ」

「は?」


 その声は、俺の真上から降ってきた。

 顔を上げると、屋根の上に誰かが立っている。月も見えない空の下でそれが誰かは見えない。ただ細い声は若い女性のものだ。わずかに見える爪先は真白い革のブーツに見えた。

 俺が答えないでいると、その人物は不満そうな声を上げる。


「あれ、どうして何も言わないの? ここは助けが来たって両手を挙げて喜ぶところじゃ?」

「助けかどうか分からないからじゃないか?」

「あ、そっか」


 あっさりと納得の声を上げて、彼女は俺の背後、塀の上に飛び降りてくる。地面にまで降りないのは、高いところが好きなんだろうか。けどおかげで全身が見えるようになった。

 その少女は、一言で言えばうそみたいにれいな顔をしていた。

 長い髪は染めているのか淡い紫色で、腰近くまでれいに広がっている。服は……上部分は白い立て襟の上に浴衣ゆかたを着て、下はロングスカートか? 大正時代のコスプレみたいな格好だ。

 俺と同い年くらいのそいつは、整い過ぎている顔で楽しそうに笑う。


「本当はもっと別の時に君と会いたかったけれど……今が選びうる中で最善と信じてる」


 なつかしい、その声。

 彼女の言葉は、始まりとしては意味が分からず。

 運命としては飾り過ぎで。

 何よりもこの街にふさわしく、まわしくて不可解な。

 ──そして誰よりも、「彼女」らしい言葉だった。


 夜にもかかわらず白い日傘をステッキのようについて、彼女は名乗る。


「私はいち。久しぶり、そうくん。覚えてる?」

「俺のこと知ってるのか? 悪いけど、まったくもって記憶にない」


 こんな目立つ髪色と顔の子は知らない。髪は染めているんだろうけど、それを差し引いても彼女の顔は忘れるにはれいすぎると思う。


「そっか……。ならいいよ。よかった」


 いちと名乗った彼女は少しだけさみしそうにほほむ。その表情に俺は確かに一瞬、どこかで見たようななつかしさを覚えた。けれどその既視感を確かめるより早く、彼女は普通の笑顔に戻る。


「君にとって重要なのは、私が君のしてきたことをちゃんと見てたって方かな。【桜島山邸】に【沢花のみずまり】、【禁祭事物】【おめかうさん】や他にも色々。一番最近のは【赤バス】かな。危なくなったら手を出そうと思ってたけど、一人で切り抜けてすごかったよ!」

「ちゃんと見てた?」

「全部じゃないけどね! だってまさか、ちゃんのために禁忌の中を探し始めるなんて思わなかったし。そんなの気になっちゃうでしょ?」

「…………」


 俺の目的もやってきたことも知られている。そんなことをする人間がいるとしたら──


「まさか、監徒の人間か?」


 監徒っていうのは都市伝説の一つだ。床辻市において、怪奇事件の動向を監視する組織があって、その名前が「監徒」。さっきも記憶屋で聞いたばかりだけど、今まで出くわしたことがないから、実在しないんだとばかり思っていた。

 けれど彼女は、あっさりと首を横に振る。


「違うよ。そうくんはそろそろ監徒に目をつけられてそうだけど、私は違いますー」

「目をつけられるって……監徒って実在するのか」

「この街で『都市伝説だから実在しないだろう』なんて、ちょっと楽観的すぎるよ」

「それに関しては確かに」


 床辻に積まれた禁忌には、単なる都市伝説ももちろんあるんだろうけど、本当のものも混ざっている。というか、本当だと思ってかからないと危ない。

 なのに俺が監徒の実在を信じてなかったのは、『しお事件』の時でさえ俺のところには警察以外来なかったからだ。一日検査入院をして、その間色々聞かれただけだ。もし本当に怪奇事件を監督しているのなら監徒はその時に来るべきだった。に何が起こったのか、どうすれば助けられるのか、俺が死に物狂いで考えている時に。


「で、監徒じゃないなら誰なんだ? もしかして、妹のスマホから俺に電話くれた人?」

「え。ちゃんのスマホなんて知らないよ。私はただ助けに来ただけのそうくんの友達。今、困ってるんだよね? なら私が──」

「困ってない」

「え?」


 試しにそう言ってみると、いちは目に見えてショックな顔になった。塀の上でよろめきかけた体を日傘がかろうじて支える。


「え、本当に……?」

「まだとりあえずは」

「そ、そう? それは失敗……しちゃったよね……」


 手袋をめた手でいちは顔を覆う。その隙間から見える頰は真っ赤だ。

 意外なことにめちゃくちゃ恥ずかしそう。ちょっと罪悪感が湧く。

 いちは軽く涙目になりながら、それでも笑って見せた。


「じゃ、じゃあまた今度出直してくるね。なんか……ごめんなさい」

「いや、本当に誰? 先にそっちを教えてくれ。困ってるのは困ってるから」

「困ってる!?」


 叫ぶなりいちは俺の前に飛び降りてくる。それも眼前に。


「って、近い!」


 反射的に飛び下がった俺に構わず、いちうれしそうに笑う。


「困ってるなら、助けてあげる!」

「……喜怒哀楽が激しくないか」


 質問に答えてくれないし、全然反応が読めない。自分の聞きたいところだけ聞くのは、まるで子供みたいだ。大きな目がきらきらと光って、その色の不思議さについ見入ってしまう。

 いちは俺に向かって白い手を差し伸べた。


「見守ってあげる。手を貸してあげる。きっと君の役に立つからね!」

「役にって……」

「まずはここから出ることかな」


 勢いがありすぎて訳が分からないけど、脱出の手立てがあるんだろうか。

 いちは上機嫌で日傘を広げかけて、何かに気づいたようにその手を止めた。


「あ、先にちゃんと合流しないと」


 そう言って、いちは道路の方へ駆けていく。


「え、ちょ、待て!」


 しまった、を道路に置いてきたままだ! 俺はあわてていちの後を追う。

 でもなんでいちの名前を知っているんだ? 俺が覚えてないだけでやっぱり面識があるんだろうか。


「俺の友達って言ってたけど……」


 小さい頃から友人は多い方だけど『しお事件』でその半分以上がいなくなってしまった。ずっと床辻で暮らしていたから、小中高と一緒だった人間が多いんだ。もちろん別の高校に通っていた友達はいるけど、いちはその誰でもない。あと可能性があるとしたら──